4-3
王国との戦端が開かれてから一ヶ月が経過したものの、アウロの生活はそれ以前とほとんど変わらなかった。
一週間の内、五日は領地で政務や《ミネルヴァ》の試験飛行に励み、週末はブリストルまでひとっ飛びして諸侯会議に参加。
会議を終え、アルカーシャの元を尋ねた後は現地で一泊し、翌朝にケルノウン半島へ帰還。そうしてまた一週間が始まる――という具合だ。
ただ、この間にも王国内の情勢は目まぐるしく変化していた。
機竜による領空の侵犯。平野部を跋扈する斥候。都市の内部では、諜報員らしき者たちの動きも補足されていた。
戦禍の炎は未だ、王国全体を包むほどには燃え広がっていない。だが、争いの火種はそこかしこでくすぶり始めていた。諸侯は流動的な戦況に対応するため、いち早く情報を共有する必要があった。
当然、アウロの本拠地であるケルノウン半島も例外ではない。
真っ先に打撃を受けたのは海運業だ。モグホースの支配地であるカエルディブ港との交易が途絶したため、南部ではあらゆる物資が手に入りにくくなってしまった。
もっとも、これを受けてシドレー商会は大陸との交易路構築に舵を切り、結果かなりの成功を収めるのだが、それはもう少し後の話だ。
今のアウロは領主になりたての頃と同様に、あるいはそれ以上に様々な厄介事を抱え込んでいた。
それでも半年前とは違い、ギネヴィウス家にはルキやシオメン、商会のスタッフといった有能な政務官がいる。
加えて、新たに雇った奉公人たちも戦力になりつつあった。彼らの働きがなければ、アウロは報告書の山に圧殺されていただろう。
問題となったのはむしろ、領内に忍び込む間者たちだ。
半島を攻略する目論見を諦め切れていないのか。北部の港町ヘイルの周辺では度々王国側の密偵が捕えられていた。
彼らの捕縛に貢献したのはハンナ率いる山猫部隊だ。ケットシー族の高い聴覚や、クーシー族の優れた嗅覚、エルフ族の持つ魔術の才は、諜報面でも王国の部隊を圧倒していた。
「失礼します。主様、気になる情報を入手しました」
ハンナが羊皮紙の束を手に執務室へやって来たのは、丁度アウロが三時の食事を終えた直後のことだった。
この昼下がりは執務室の扉を叩く人間の数がもっとも多い時間帯だ。
各業務の担当者が朝の内に部下たちの報告を纏め、昼食後にそれを領主――つまりはアウロの元へ注進するためだ。
ハンナが入室してくる前から、デスクの両脇には既に対照的な二つの影があった。
一人は雪のように白い法衣を身に付け、首から太陽十字のペンダントをぶら下げた少女。
もう一方は炭のように黒い長衣を着込んだ長駆の老人である。ただし、そのアッシュグレイの髪からはふさふさの犬耳が飛び出していた。
天聖教の神官ルキ・ナートと、ギネヴィウス家執事長ガルムリオ・ロウエル。
この二人は半島の内政を支える二本柱だった。基本的には才知に長けたルキが書記としてアウロの補佐を務め、強面のロウエルが領内の治安管理を担当している。
なお、カムリはこの時間屋敷にいない。彼女は《ラスティメイル》二号機の調整のため、朝から晩まで工房に通い詰めていた。
「ハンナか、どうした?」
「ご報告に伺いました。ご指示を受けていた件について、幾つか分かったことがあります」
「そうか。今、お前たちに最優先で調べさせていたのは……」
「同盟内に潜む内通者のあぶり出し、ですね」
ルキは無表情のまま補足した。
ここ最近、半島に侵入してくる間諜の数は増加の一途を辿っていた。
しかも彼らの足取りについて調査を進めると、各地の検問を素通りしてきた者が少なからずいたのだ。
戦時下の現在、ブランドル家の本拠であるブリストル周辺では、厳重な監視体制が敷かれている。理由もなく越境してくる者がいれば即座に捕らえられるはずだ。
が、実際にはその検問がろくに機能していない。
恐らく、スパイを内側から手引きをしている人間がいるのだ。
無論、あくまで推測である。背後にいるのが同盟派の貴族であるとは限らないし、スパイが他の伝手を使った可能性も十分に考えられる。
(……とはいえ)
アウロはわざわざ不安要素を残しておくほどお人好しではなかった。
なにより、相手は権謀術数を得意とするこの国の支配者――宰相モグホースなのだ。
戦巧者のガルバリオンでさえ、盟友の裏切りによって倒れている。用心するに越したことはない。
「で、気になる情報というのは?」
「密偵の通信を盗聴した結果分かったことなのですが、どうやら同盟内に宰相モグホースと頻繁に連絡を取り合っている貴族がいるようなのです。それも二人」
「待て、ハンナ。その二人を当ててやる。――ブランドル家の一門、ヴェンモーズとバルロックだろう?」
「そうです。よくお分かりになりましたね」
「簡単だ。裏切りそうな奴を順に二人数えただけだからな」
目を丸めるハンナの前で、アウロは口の端をつり上げた。
「だが、連中がクロだという証拠は見つかったのか?」
「いえ、それは現在調査中です。ただ、両者ともに明確な証拠は消し去っている可能性が高いかと」
「しかし、その者どもが我らと敵対する腹積もりなのは明らかです。今の内に始末してしまった方が良いのでは?」
物騒な台詞を呟くのはクーシー族の老人、ロウエルだ。
対し、アウロを挟んで反対隣に佇むルキが異議を唱えた。
「それはいくらなんでも早計過ぎますよ。今回の一件、意図的に流された虚報かもしれませんし」
「流言蜚語をまき散らして同盟の貴族たちを分断する……か。そういう考え方もあるな」
要するに離間の計である。王国側にとって、ボルテクス中隊を撃破したアウロは目の上のたんこぶのはずだ。搦め手を使ってきてもおかしくはない。
ハンナは「そういえば」と思い出したように呟いた。
「宰相モグホースはヴェンモーズやバルロック以外にも、同盟派の主要な貴族に揺さぶりをかけているようなのです。現状、敵性分子の疑いのある人間は両手両足の指を使っても数え切れません」
「下手な鉄砲もなんとやら、か。しかし、リカルド殿やガーランド家の騎士がモグホースになびくことはあるまい。他には、そうだな、グラストンベリー伯のルーカス・ゼルドリウスはどうだ?」
「あの方は大丈夫だと思います。ゼルドリウス卿は検問の通過を手引きすると見せかけ、密偵をだまし討ちし、他の内通者ともども一網打尽にしたそうです。勿論、金銭もむしり取れるだけむしり取っています」
「なかなかいい性格をしているな、あの爺さん」
アウロは思わず苦笑をこぼした。
ルーカス・ゼルドリウスはリカルドの右腕だ。これが裏切ったとなると厄介だったが、流石にヴェスターのような野心家ばかりではないらしい。
「とはいえ、まだ決定的な情報が不足している。ハンナ、同盟内の内通者については引き続き調査を進めて欲しい」
「分かりました。ヴェンモーズ、バルロックの両名については様子見でよろしいですか?」
「ひとまずはそうするしかない。ただ一応、俺からブランドル家の側に掛けあってみよう」
「ふむ。リカルド・ブランドルに情報をリークするので?」
「いや、息子の方だよ。ジェラードなら身内の不祥事にも上手く立ち回ってくれるはずだ」
「アウロさんのお友達ですか。信頼なさっているんですね」
平坦な声の中、『お友達』、『信頼』というキーワードだけが妙に強調されている。
アウロは「それなりにな」と言って、誤魔化すように視線を逸らした。
「そういえば、ロウエル。徴兵の方はどうだ? 上手く進んでいるか?」
「むしろ志願兵が多く、選別に困っております。王都から半島に脱出してきた者たちがこぞって兵士になりたがっているのです」
「そうなのか? 普通、好んで戦争に参加する輩はいないだろうに……」
「意外と血気盛んな若者が多いのですよ。家族ごと王都から叩き出されて、その怒りを現王家にぶつけようとする者。戦場で名を挙げ、一攫千金を目指す者。更には、アウロ様のお人柄に魅せられた者も数多くおります」
「俺の?」
アウロは思わず尋ね返してしまった。
正直なところ、アウロは自分が尊敬されるような人間だと思っていなかった。
勿論、それは私生児という出生の問題もある。が、そもそもアウロは伯爵としてこの地を支配するようなってからまだ一年と経っていないのだ。
「アウロ様ご自身がどうお考えかは存じ上げません。ですが、既にあなた様はダグラス・キャスパリーグを打倒し、領内からプルーンら神官団を排し、つい先日は骸装機を含む精鋭部隊を単独で撃破しております。この中の一つとして、凡夫に成し遂げられるようなことではありません。人々の畏敬と羨望を集めるには十分すぎるかと」
「そんな単純な理由でいいんだろうか」
「元より民衆というのは単純な生き物ですよ。今重要なのは、英雄願望に囚われた向こう見ずな若者どもをどう扱うかです」
「……志願兵の数は?」
「現段階では三百名を越えています。しかも、まだまだ増加傾向にあるようです」
「思ったより多いな。これなら傭兵を雇う必要もないか」
「どうでしょうか。後方で兵站を維持するための支援部隊も必要です。それに、いざ戦争が始まれば半島を空っぽにする訳にも参りません。これは指揮を執る人間にも言えることですが」
「ああ。となると、やはりイクティスに誰か残す必要があるな」
アウロは頬杖を突いたまま考え込んだ。
今のギネヴィウス家には多くの信頼できる部下たちがいる。
が、いざという時の指揮・統率までこなせる人材はそう多くない。
特に領主業の代行を任せられるのは、今アウロの左右に佇んでいる二人だけだ。さほど考えるまでもなく、アウロは自身の右手に視線を向けた。
「ロウエル、すまないがまた留守を任せた。やはり、代官となるとお前以外に適任者がいないんだ」
「了解です。まぁ、ルキにはちと威厳というものが足りておりませんからな」
既にこの人事を予想していたのか、ロウエルはやや残念そうに髭を撫でた。
一方、アウロの左手に立つルキは小首を傾げ、
「アウロさん、私はどうしましょうか」
「ロウエルの補佐にはシルヴィア嬢を付ける。俺たちは王国側が本格的に動き次第、最低限の兵力をここに残してブリストルの同盟軍に合流するつもりだ。――ルキ、ハンナ、お前たちもそのつもりでいてくれ」
「分かりました」
ハンナはかしこまった態度で、ルキはいつも通りのポーカーフェイスで頷き返す。
それからギネヴィウス家の中核を成す四人は、これからの方針について幾つかの事項を決定した。
いざ戦闘が始まれば、アウロは地上にいない。
同盟軍の空軍大将としてカムリとともに空へ上がってしまうからだ。
そのため、前線における指揮はハンナとベディクが担当する形となった。
実働部隊としては新型アーマーを擁する山猫部隊以外にも、波止場の戦いで確保した傭兵たちや、新たに加わった志願兵を動員。現状、決戦に参加可能な人数は五百名ちょっとといったところだった。
他、後方支援部隊――特に輜重及び衛生兵の統括はルキに。
機竜やアーマーのメンテナンスを行う整備兵の監督はシドカムに。
イクティスに居残り、工房でアーマーの生産ラインを維持する役割はゴゲリフ及びその弟子たちにそれぞれに割り振られた。
アウロにとって幸いだったのは、身内の結束を不安視せずに済んだことだ。
同盟内には幾人か不穏分子が潜んでいるものの、ギネヴィウス家に裏切りの影は忍び寄ってきていない。
そもそも、ルキ以外の幹部――特にロウエルとハンナの二人は、モグホースに少なからず怨みを抱いている。アウロと彼らは主従の関係であると同時に、王家打倒を目指す盟友でもあった。
有能な領主と、強固な信頼関係で結ばれた家人たち。
この決して揺るがない枢軸があるからこそ、ギネヴィウス家という歯車はスムーズに回転している。
ただ――その事実に困惑しているのは他ならぬアウロ自身だった。
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「眠れないんですか、アウロさん?」
頭上から降り注ぐ声に、アウロはまぶたを持ち上げた。
目に入るのは見慣れた自室の天井だ。
額の上には、真昼の輝きが浮かんでいた。
だが、その光には太陽のように皮膚を焼く熱さがなかった。黄金の煌めきはただ温かく周囲を照らしていた。ルキの扱う疲労回復の術式だ。
「……色々と考えさせられることがあってな」
アウロは目の焦点を合わせるため、幾度かまばたきをした。
少し首を横に傾ければ、ベッドの端に座ったルキと、その向こうで椅子の背もたれに頭を預け、うとうとしているワンピース姿の少女が見えた。
『カンブリアの赤き竜』――その人間体であるカムリだ。彼女は主とルキの間で不埒な出来事が起きぬよう、わざわざ室内で見張りをしているのだった。
「ん……主殿、まだ寝てないの?」
カムリは目元をこすった後で、「ふぁ」とあくびを漏らした。
「早く寝た方がいいよ。明日も朝から予定があるんでしょ?」
「それは分かっている。ただ、どうも目が冴えてしまってな。いつもはすぐに眠気が襲ってくるんだが」
「きっと体が慣れ始めてるんじゃないかな。主殿、最近はほとんど毎日ルキの治療術を受けてるもの。やっぱり夜更かしは良くないよ」
「戦争は始まってしまったんだ。今、無茶せずにいつ無茶をする」
「そりゃそうだけど……」
カムリは口ごもりつつも、心配そうな表情を崩さなかった。
実際、ここ最近のアウロは以前にも増して忙しい一日を送っていた。
領主としてこなす仕事量は減ったものの、その分、空いた時間をカムリとの空中機動訓練や、《ミネルヴァ》の飛行試験に費やしているためだ。
特に高度20000フィートでの空戦機動は身体に甚大なダメージを与えてしまう。本来は丸一日安静にすべきところだが、アウロは神聖秘術によって無理やり疲労を抜くという方法で、強引にこの問題を解決していた。
「私としても術ばかりに頼るのは賛成できませんね。本来、この術は緊急措置として用いられるものです。完全に習慣化してしまうと、最悪の場合、術なしでは眠れなくなってしまいます」
「最悪の場合、ということはまだ大丈夫なんだろう?」
アウロは肘をつき、ベッドから背中を浮かせた。
それを見て、ルキは術式を停止させた。
黄金の光が途絶え、手の平に浮かび上がっていた車輪紋が消滅する。
アウロは上体を起こしたところで額を押さえた。疲労がコールタールのように血管の中を這いまわっている。だが、思考だけは妙にはっきりしていた。
「ルキ、お前の負担になっているのなら言ってくれ。その時は考える」
「私の体調を考慮する必要はありません。けれど、アウロさん。この術は体内の疲労を取り去る術です。疲れた心までは癒せません。悩み事があるなら一度吐き出してみるのはどうでしょう」
「そだね。一人で抱え込むより誰かに話す方がずっといいよ。わらわたちが役に立てるかどうかは分からないけど」
椅子から立ち上がったカムリは、ベッドの反対側に腰を降ろした。
その結果、アウロは丁度二人の少女に挟まれる形となる。今の状況を誰かに見られれば、確実に少女偏愛者の烙印を押されてしまうだろう。
「悩み、悩みか……。悩みと言うほどのものではないと思うんだがな。どうも最近、自分の認識と周囲の認識が乖離しているように感じるんだ。特に、俺自身に対する評価が致命的なまでにズレている」
「う、うん。その、主殿。もうちょっと簡単な言葉でお願い」
「要するに、自分と他の人との間で見方が違いすぎるってことですよ」
ルキはおとがいに手を当て、考え込むような仕草を見せた。
「そういえば、アウロさん。お昼の報告会の時もロウエルさんの言葉に少し困惑していましたね」
「う、わらわがいない時か。あの爺さん、おかしなことでも言ったの?」
「違いますよ。アウロさんが領地の皆さんから尊敬を集めているというお話です」
「なんだ、いいことじゃない。主殿、なにが不満なのさ?」
アウロは投げやりに言った。「別に不満な訳じゃない」
「ただ、理解できないだけだ。自分が他人に敬われるという感覚がな」
「なるほど、こりゃ重症だ。突発性卑屈症候群とでも名付けようか」
「でも、私にはアウロさんの気持ちもなんとなく分かりますよ」
と、逆に庇うような発言をしたのはルキだ。
「えっ?」と怪訝そうな顔を見せるカムリの前で、少女はぽつぽつと語り始めた。
「私も自分が敬われているという事実に、拒絶反応を起こすことがあるんです。極端なことを言うと、褒められるよりむしろ罵倒されている方が安心できます。まるで着慣れたコートに身を包んでいる時のように」
「なにそれ。ルキったらマゾな子だったの?」
「まぁ、どちらかと言えばいじめるよりいじめられる方が好きですが」
平然と自らの性癖を晒しつつ、ルキは言葉を続けた。
「元々、私は自分自身のことが嫌いです。無感動でつまらない人間が、『不当に』他人の尊敬を集めているのですから、納得できないのも当然でしょう」
「不当と言うほどではないだろう。お前の信者は、お前自身の力と心構えに敬意を抱いているはずだ」
「だからこそ問題なのです」
いつも通りの、感情を押し殺した声だ。
ルキは青く透き通った瞳を自らの手の平に落とした。雪原の如く滑らかな肌に、黄金の輝きを放つ太陽十字が浮かび上がる。
「私が持つ能力はあくまで他人から与えられたものです。かつての私はどこにでもいるような、没個性的な人間でした。この『黄金の聖痕』がなければ、今でも修道院で写本を作り続けていたでしょう」
「ふーん、そんなにすごいものなのそれ? 港の戦いでぶーちゃんも使おうとしてたけど」
「魔術を無詠唱で使用可能となれば、その価値は計り知れません。しかも他の聖痕が一つに付き一つの術式しか扱えないのに対し、始祖ルアハの力を模したこの黄金の聖痕は、あらゆる神聖秘術を執行することができます。私はこれを、ある試練をくぐり抜けることで特例的に与えられました」
「努力の結果、手に入れたものなのか? ならばむしろ誇るべきだと思うが」
「いえ、私が選ばれたのはただの偶然です。結局のところ、この力も私が私自身の意志で勝ち取った代物ではないんです」
ルキは手の平から光を消した。
遅れて、その唇から吐息が漏れる。幸福が裸足で逃げていきそうなため息だ。
じめじめした雰囲気の中、カムリはころんとベッドの上に横たわった。なだらかな眉間の間には、すっかり小皺が寄ってしまっている。
「ううーん……なんだか、主殿もルキもめんどくさいね。わらわにはよく分からないな。人から尊敬されるだけでそんなにあれこれ考えるなんて」
「カムリさんこそどうなんですか? 『カンブリアの赤き竜』というのは転生する度、過去の記憶を継承していると聞きました。自分自身の存在に対して懐疑の念を抱くことはないんですか?」
「別に。やることがはっきりしてるなら、他人の評価なんてどうでもいいよ。今更、思春期の子供みたいな悩みなんて抱くもんか」
「食べることと戦うことだけ考えている子は簡単でいいですね」
「なんだとう!」
たちまち、ベッドから跳ね起きるカムリ。
自分の体越しに食って掛かろうとする少女を、アウロは片手で押さえつけた。
「落ち着け、カムリ。ルキも――お前は正直な感想を言っただけなんだろうが、少しデリカシーというものを考えろ」
「すみません」
ルキは熱の籠もっていない口調で謝罪する。
それを見て、カムリも渋々ながらアウロの膝の上から引き下がった。しかし、柔らかそうな頬はぷうっと膨れたままだ。
「というか、わらわやルキのことはどうでもいいでしょ。主殿の相談に乗るって話だったはずなのに」
「そうですね。参考になればと思ったのですが、少し話が脱線してしまいました。私見ですが、アウロさんはご自分に対して自信がないのではないかと思います。ただし、このように私が言っても――」
「そんなことはない」
「とアウロさん本人は否定する訳です。自覚症状がありませんからね」
自らの台詞を先回りされ、アウロは咥内に苦いものが満ちるのを感じた。
「……俺は自分の力を過信していないだけだよ。それに力に溺れて傲慢な振る舞いをするつもりもない」
「では、アプローチの方法を変えましょう。アウロさんの尊敬している方は誰ですか?」
「竜王アルトリウス・ペンドラコン、マケドニアの征服王アレクサンドロス三世、ローマの皇帝ユリウス・カエサル、カルタゴの将軍ハンニバル・バルカ」
「現在ご存命の方、もしくは実際に顔を合わせたことのある方でお願いします」
アウロは両腕を組んで考え込んだ。
歴史書に向けられていた意識の矛先で、今度は自らの記憶野をつつき返す。
ぱっと頭に思い浮かんだのは、母ステラ・ギネヴィウスの理知的な横顔だ。
ただ、彼女に対する感情は尊敬よりも敬愛に近い。少なくとも、歴史上の偉人に向けるような感情とは異なる。
彼らはアウロにとっての理想であり、憧れであり、目指すべき目標なのだ。
となると、ぴったり当てはまる人間は――
「……ウォレスの息子ガルバリオン」
その名前にカムリはぴくりと反応した。
「ガルバリオン? それって確か、主殿の師匠だった――」
「モンマス公ガルバリオン。先王ウォルテリスの弟君で、幾度もこの国を救った英雄です。先日、ドラク・ガーグラーとの戦いで死亡が確認されましたが、それまでは常勝不敗の機竜乗りとして大陸にもその名を轟かせていました。アウロさんにとっては叔父上に当たる方ですね」
ルキは伝記を読み上げるような口調で説明する。
アウロはじっと虚空を睨んだ。アウロとガルバリオンの付き合いはそれなりに長い。目を閉じれば、すぐにでも脳裏にあの男のたくましい背中を思い描くことができそうだった。
「ガルバリオンは俺にとっての目標だったんだ。師匠として槍の使い方や、騎士としての心構えを教えてくれたからってだけじゃない。多分、俺はあの男の強さやカリスマ性に一つの答えを見ていたんだ」
「私は生前のモンマス公に会ったことがないのでなんとも言えません。カムリさんはガルバリオン殿下と面識があるのですか」
「うん。そういえばあの人、アルトリウスにちょっと似てたかな」
「それはどのような部分が?」
「えーっと、なんていうか、雰囲気みたいなの」
実にあやふやな表現である。
当然、納得するルキではない。カムリは無言の圧力をかけてくる神官少女を前に、たどたどしく言葉を紡いだ。
「要するにエリートっぽいんだよ。偉そうなんだけど自信過剰って訳じゃなくて、内面の優れた部分がそのまま外に出てるような……。ひと目見ただけで、『こいつ、できる!』って思っちゃう感じ」
「とりあえず、カムリさんのボキャブラリーが貧弱なことは分かりました」
「う、うるさいなぁ。言っとくけど、単純な知識量ならそなたに負けてないんだぞ。ただ、その、応用力がないだけで……」
尻すぼみに口をつぐんでしまうカムリ。
アウロがじっと観察していると、その頬にみるみる赤みが差し始める。
「わ、わらわのことはどうでもいいじゃない! それより今は主殿の話だよ!」
「そうですね。といっても、もう答えは出ているようなものなのですが」
「……? どういうことだ?」
「多分、アウロさんは尊敬に至るまでのハードルが高すぎるんですよ。だから、自分を下へ下へと位置付けてしまうのです」
ルキはふいにベッドの上に身を乗り出し、
「恐らく、ガルバリオン公は才知に優れ、武人としての名声も高く、人間としての魅力に溢れた方だったのでしょう。――けれど、それはアウロさんにとっての理想に過ぎません。人が人に敬意を抱く理由は十人十色です。私はアウロさんが好きです。尊敬しています。それはアウロさん自身がご自分をどう思おうと決して変わりません。私の感情は他の誰にも侵犯されることのない、私だけの聖域です」
直後、少女の細い手がアウロの肩に回され、そのまま彼の頭をぎゅっと抱きしめた。
驚いたのはアウロの側だ。
唐突な告白からの抱擁という流れは、鋼の精神力を持つアウロでさえ、混乱の渦中に叩き落とされてしまった。
もっとも、ルキのそれは愛の告白とは違う。彼女はあくまで友人の一人として親しみを表現しているに過ぎない。
が、アウロも健全な成人男性だ。
いくら歳が離れているとはいえ、少女の柔らかな肌に包まれれば、どうしても心がかき乱されてしまう。
おまけに、この場にいるのは自分たち二人だけではなかった。視界の端では、カムリがぽかんとした表情のまま放心していた。
「あぅ……あ、うぇい……?」
意味不明の呟きを漏らした彼女は、次の瞬間かっと赤面すると、獲物をかっさらわれた獅子のような勢いでルキに食って掛かっていた。
「ちょ、ちょっと! てめー、いきなりなにやってんだよ!」
「抱擁です。アウロさんは強情な人ですから、言葉で言ったところで信じてはもらえないでしょう。私はあまり口達者な方ではありませんし、ここはスキンシップに頼るのが良いと判断しました」
機械的な台詞が理路整然と並べられている間にも、少女のたおやかな腕はアウロの首元をしっかりとホールドし、その繊細な指先は竪琴を奏でるかのように錆色の髪を撫でてていた。
カムリは「ぐぬぬ……」と口ごもると、唐突に主の背中に回り込み、ルキと同じくアウロの体に抱きついた。挟み撃ちである。
「おい、どうしてそうなる」
「だ、だって、ルキだけずるい!」
「そういう問題じゃないだろ」
頭を抱えたくなったアウロだが、あいにく前後からしがみつかれた状態ではまともに動くこともできない。
美少女二人に挟まれるというのは、世の男たちが一度は夢に見る状況であろう。
ただ、アウロもこうして純粋な好意をぶつけられると、逆にリビドーを感じなくなってしまう。
強いて言うならカムリが後ろで良かった、と思っただけだ。もし左右の丘陵に顔を圧迫されれば、そのまま呼吸困難で死にかねない。それはそれで幸福な最後なのかもしれないが。
「……とりあえず、二人とも一旦離れてくれ。お前たちの気持ちはよく分かった。もう十分だ」
「そうですか」
ルキはすぐに腕を解いた。次いで、カムリが渋々アウロの背中から離れる。
前後からの圧迫感が消え去ったところで、アウロは頬に手をやった。指先にじんわりと温かな感覚が広がる。
「アウロさん、熱ですか?」
「……別に。照れてるだけだよ」
アウロは動悸を押さえるため、一度深呼吸をした。
「しかし、ルキ。お前はカウンセリングの度にこういったことを繰り返しているのか?」
「それは違います。以前、アウロさんが私の頭を撫でてくれたことがありました。私はそのやり方を見習っただけに過ぎません」
「つくづく理屈っぽいな、そなたは。『やりたいからやった』でいいのに」
呆れ顔のカムリに、ルキは「そうですね」と頷いた。
ベッドから降りたルキは、軽く膝を叩いて服に出来た皺を伸ばす。カムリも床の上で小さく伸びをした。
「さて、主殿の悩みも解決したみたいだし、わらわはもう寝ようかな」
「私も部屋に戻ります。アウロさん、ご気分はいかがですか?」
「妙に疲れたよ。だが、お前たちのおかげでいちいち細かいことを考えているのが馬鹿らしくなった」
「いい傾向ですね。私が言うのもなんですが、アウロさんは妙に悲観的なところがありますから」
「そうそう。主殿はもうちょっと馬鹿になった方がいいと思うな!」
「カムリさんは言葉を選ぶ技能を身に付けた方がいいですね」
と最後まで凸凹なやり取りをして、二人はアウロの部屋から消えた。
途端に全身から力が抜けて、アウロはベッドの上に倒れ込んでしまう。
頭の中がどろりと重い。くだらない悩みが押し流され、代わりに疲労が澱のように脳内を侵食し始めている。
(……アホみたいな治療法だったが、一応は効果があったのか)
アウロは天井を見上げながら、寝ぼけた頭でそんなことを考えた。
まぁ、美少女二人に抱きつかれて気分が悪くなるはずもない。あれで多少は自信がついたのも確かだ。
褒められ、おだてられて調子に乗るのが人間という生き物である。俺も案外単純だな、とアウロは内心で苦笑した。
――少なくとも。
自分を慕ってくれる者たちの好意くらいは信じていいのかもしれない。
たった一欠片の肯定があるだけで、アウロ・ギネヴィウスは無価値で無意味な人間ではなくなるのだ。
アウロは目を閉じた。
水面は穏やかで、波風一つ立っていない。
久しぶりにいい夢が見れそうな気分だった。
そして、アウロは眠りに落ちた。
南部諸侯同盟に対し、王国側から機甲竜騎士部隊同士の決戦を求める挑戦状が送られて来たのは、翌朝のことだった。




