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ブリタニア竜騎譚  作者: 丸い石
三章:双竜戦争(前夜)
73/107

3-EX

外伝です。主人公周りの振り返り的お話。

 少女は羊皮紙にメモされたレシピに視線を落とす。


 ――ドライフルーツ8オンス、紅茶12液量オンス、小麦粉1ポンド、蜂蜜2オンス、甘草(ルバーブ)2オンス、バター1オンス、卵一個。


 次いで、調理台に並べられた食材に視線を移す。


 ――山ほどのドライフルーツ、紅色マンドラゴラの乾燥葉から抽出した茶、小麦粉たくさん、ジェノサイドキラービーの蜂蜜、ユニコーンの角の粉末、クリムゾンベヒーモスの乳から作ったバター、紅飛竜の卵一個。


 彼女は再びレシピを見て、満足そうに頷いた。


「うん、とりあえず材料は問題ないね。レシピ通りだ」

「……カムリさん、本気でこんなのを使う気ですか?」


 ひきつった顔で尋ねたのは、鴉羽のような黒髪が特徴の少女だった。

 体格はカムリより華奢で、手足もすらりと細い。アーモンド型の目はくりっと丸く、童顔と相まって子供っぽい愛嬌がある。そして、頭からは三角形のネコミミが生えている。


 ハンナ・キャスパリーグ。ギネヴィウス家に仕える家臣の一人。山猫部隊(リンクス)の隊長だ。

 ほんの一ヶ月ほど前、王国対同盟の戦端が本格的に開かれたこともあって、ここ最近の彼女は諜報活動に奔走していた。今日は久々に本拠へ顔を出したところ、カムリにとっ捕まってしまったのだ。


「そもそも、この材料はどこから集めてきたんです? こんな大きな卵、市場には売ってませんよね」


 ハンナは人間の頭部ほどもある紅飛竜の卵を見つめた。

 色は赤。つるりとした殻の上には彼女自身の顔が映し出されている。ハンナはプレスされたかのごとく引き伸ばされた顔とにらめっこした。


「その卵は西の火山島に住むワイバーンと物々交換したんだよ。こっちがぶどう酒タル一個分で、あっちが産みたての卵一つ。あの欲張りはタル二つを要求してきたんだけど、それをどうにかなだめすかして――」

「じゃ、じゃあ、ひょっとして他の材料もカムリさん自身が収集を?」

「そだよ。特に厄介だったのは、ユニコーンとベヒーモスの二匹かなぁ。あいつら、人の話を全然聞いてくれないんだもの。軽くしばいたら大人しくなってくれたけどさ」

「……魔獣相手に恐喝ですか」


 思わず冷や汗を流すハンナ。

 普段なら「冗談ですよね?」と流すところだが、彼女もここ数ヶ月でカムリの破天荒さは身に沁みていた。ベヒーモスの尻に火をつけ、ユニコーンの角をへし折るくらいのことはやりかねない。


「あ、ちなみにユニコーンの角は死んだ奴のを貰ってきただけだからね。生きてるのから無理やりへし折るなんて虐待行為はしてないよ」

「そ、そうですか。けど、こんなの料理に使って大丈夫なんでしょうか」

「へーきへーき。試しにちょっと舐めてみたら?」

「……では、少しだけ」


 ハンナは手を伸ばし、皮袋の中につめ込まれた純白の粉末をつまんだ。

 指先についたそれを、ざらざらの舌でぺろりと舐めとる。途端、少女のつま先から脳天に至るまで電流が迸った。全身をびくんっと硬直させたハンナは、そのまま床の上へと崩れ落ちた。


「ふにゃあぁぁ……」

「わ、どうしたの? マタタビでも嗅いだような反応して」

「ち、違いますよぅ。ただ、これものすごく甘いんです。いえ、嫌味な感じの甘さではないんですけど。こう、ひたすら気持ちいい味といいますか。尻尾を撫でられるような感覚といいますか」

「言いたいことはなんとなく分かるけど、とりあえず立ったら?」


 ハンナは頷くと、調理台を支えに立ち上がった。

 その頬はピンク色に上気し、三角形の耳はぺたんと畳まれている。ユニコーンの角粉末は一撃で彼女の理性を粉々にしていた。


「こ、これ、本当に食べても問題ないんですか? なにやら中毒症状になりそうな気もしますが」

「でも、毒が入ってる訳じゃないしなぁ。むしろユニコーンの角は万能薬としても有名だし」

「う、うーん……なら大丈夫でしょうか」


 ちらちら調理台の上に意識をやりながら呟くハンナ。

 口ではあれこれ言っていても、ゆらゆらと揺れる尻尾はもはや快楽の虜となりつつあった。

 甘味の魔力は強烈だ。ここ数年、ろくに甘いものなど口にしていなかったハンナはその暴力的魅惑に全く抗うことができなかった。


「よーし、それじゃあこれより調理を開始します! エプロン装備!」

「ら、了解ラジャー!」

「ハンナ隊長、調理器具を出せ!」

了解ラジャー!」

「では、調理開始……の前に手を洗おうね!」

了解ラジャー!」


 かくして、少女二人はキッチンというの名の戦場へと突入した。

 まずは木のボウルにマンドラゴラの抽出茶を投下。キラービーの蜂蜜と溶いた飛竜の卵、ドライフルーツにユニコーンの角粉末、ベヒーモスバターといった材料を加え、へらでよく混ぜあわせる。

 次にふるいにかけた小麦粉をボウルに入れ、酵母液代わりの林檎酒をぶち込む。こうして出来上がった果肉入りの白い塊を、調理台の上で空気を入れながらこねまわす。最後に丸めて形を整えれば生地の完成だ。

 ボウルに濡れ布巾をかぶせ、三十分ほど発酵させた後は、生地を手のひらサイズの円盤状に千切る。その後、円状石盤ベイクストーンに整形した生地をずらりと並べて二次発酵。弾力を感じるほどに膨らんだところで、パン焼き用の石窯にベイクストーンを放り込む。


「そういえば、カムリさん。このパン焼き窯は先に予熱してから使うものなのでは……」

「普通はそうだけどね。わらわのやり方はちょっと違うよ」


 不細工なトカゲのアップリケ(本人はドラゴンのつもりだったらしい)付きのエプロンを身につけたカムリは、おもむろに煉瓦造りの石窯めがけて手をかざした。


「『我は炎の巫女、ベリサマの祈り手なり! これより神饌しんせんを捧げる! パン焼き窯に火を灯せ!』」


 意気揚々と唱えられる呪文。

 直後、石窯がピンク色の炎に覆われた。思わず後ずさったハンナだが、魔術による熱波は彼女の元まで届かなかった。窯全体をパイ生地のように包み、内部を穏やかに加熱しているだけだ。


「えっと、これはなにをやってるんです?」

「石窯を熱してるんだよ。こういうパン焼き窯って、普通に加熱すると中の温度を調整するのが面倒じゃない。でも、魔術を使えば燃料はいらないし、時間もかからないから便利なんだよね」

「確かにすごいですね。魔法にこんな使い方があったなんて」

「むしろ、わらわにとっては戦闘用に特化した今の魔術体系の方が異常に思えるんだけど……。まぁ、その辺りの話は置いとこうか」


 カムリはそこで術式を停止した。

 既に石窯は十分に熱されている。後は余熱だけで中の生地が焼けるはずだ。


 焼き上がりまでの時間、二人は溶けかけのバターにユニコーンの角粉末と飛竜卵の余りを加え、バタークリームを作成した。これに丸一ヶ月林檎酒に漬け込んだレーズンを混ぜてやれば、特製レーズンバタークリームの出来上がりだ。

 その後、生地を焼き始めてから二十分程が経過したところで、カムリは両手にウールのミトンを装着し、石窯内からベイクストーンを引っ張りだした。

 途端、ふわっと上がる白い蒸気。甘い香りが脳を犯す。石盤の上で小麦色に輝く宝石を前に、ハンナは我知らずごくりとつばを飲み込んだ。


「よし、わらわ特製『バラ・ブリス』の完成だよ!」

「いい匂いですね。出来上がりは問題ないように見えます」

「味も問題ないはずだよ。ほら、一つ食べてみたら?」

「で、では一つだけ」


 ハンナは出来立てのフルーツケーキに手を伸ばすと、ふんわり膨らんだそれをぱくりと齧った。

 たちまち、口内に広がる茶葉の風味。ただ甘ったるいだけではない。後を引かない甘味がすっと食道を抜け、すとんと胃袋に落ちていく。

 その味はもはや殺人的でさえあった。このケーキは生命の源だ。快楽中枢を抉る刺激に、ハンナは無言のまま二口目、三口目へと突入した。


「あ、駄目だよ。ちゃんとこれを塗って食べなきゃ」

「え……」


 はっと我を取り戻したハンナは、カムリの差し出した『それ』へと目の焦点を合わせた。

 先ほど、彼女自身が作ったバタークリームだ。レーズン入りのそれはつやつやと黄金色に輝き、パンケーキに塗りたくられる時を今か今かと待ちわびていた。


 ――これは、危険だ。


 直感的にハンナは思った。ケーキとクリームの相乗効果。その破壊力は想像するに余りある。

 だが、だが、ここで逃げ出すわけにはいかない。彼女は意を決すると、震える指先でバターナイフを掴み、柔らかな白峰を切り崩した。

 そうしてすくい取ったクリームを食べかけのパンケーキに乗せる。ぷるん、と揺れる乳脂肪の塊。

 少女は恐る恐る唇を開けると、柔らかな生地を歯で噛み千切り、ほろ甘いクリームを舌の上で転がし、咥内で渾然一体となったそれをゆっくりじっくり噛み締め、最後にこくりと飲み下した。


「ふにゃぁぁぁっん……」


 たまらず、調理台に突っ伏すハンナ。

 黒い尻尾がくねくねとに蠕動ぜんどうしている。腰砕けになった少女を見て、カムリは困ったように眉を寄せた。


「反応が大げさだなぁ。そんなに美味しかったの?」


 カムリはパンケーキの一つをつまみ、軽くバタークリームを塗って口の中へと放り込んだ。

 咥内でとろける甘味。芳醇なバターと茶葉の香りに、少女は「んーっ」と口元をほころばせた。


「ふわぁ……確かに美味しいね。お菓子作りは初めてじゃないけど、これが今までで一番の出来だな」

「カムリさん、いつもこういう風に料理をしてるんですか?」

「いっつもってほどじゃないよ。暇な時だけ。週に二、三回くらいかな? ハンナはあんまり料理しないの?」

「そう、ですね。亜人街にいた頃は毎日、孤児院で食事を作ってましたけど……。ここ最近は本業の方が忙しいですから」

「そっかそっか。そなたも大変だなぁ」


 しみじみ呟きながら、カムリは調理場の奥から木編みの籠を二つ取り出した。

 そして、数枚の麻布を敷いたバスケットの中に焼きたてのパンケーキを放り込む。レーズン入りのバタークリームは小鉢に移し、これも籠の隅に詰める。


「……? カムリさん?」

「せっかくだから、他のみんなにもおすそ分けしてあげようと思ってね。――まさか、これだけの量をわらわたち二人だけで食べ切るつもりだった?」

「い、いえ、てっきりカムリさん一人用の分量なのかと」

「むっ。いくらわらわだって、そこまで欲張りじゃないやい」


 ぷぅっと頬を膨らましたカムリは、バスケットの上に乾いた布巾を被せた。


「じゃ、わらわは主殿のところに行くから、もう半分はハンナがお願いね」

「分かりました。では、私は猫屋敷とルキさんの診療所に届けてきますね」


 ハンナは山ほどパンケーキが入った籠を軽々と両手で抱える。

 魔獣混じりの血統であるハンナは普通のケットシー族より身体能力が高い。それは人間に擬態しているカムリも同様だ。


 キッチンを出たカムリはハンナと別れ、主がいるはずの執務室に向かった。

 今の時刻は午後四時頃。人々が午餐(ディナー)を終え、ゆっくり休憩を取っている時間帯だ。

 が、執務室を覗いてみても主の姿はなかった。隣室にも不在だ。応接室のソファに腰掛けているのは、犬耳の老人とメイド服を着た少女の二人だけだった。


「ロウエル爺さんとシルヴィじゃない。なんか久しぶりだね」

「あら、カムリさん。こんにちは」


 亜麻色の髪の少女――シルヴィア・アクスフォードは手元のパピルス紙から視線を上げ、優雅に微笑んだ。


 この地に逃れてきた当初は、変装のため少年のように短い髪型をしていた彼女だが、最近はすっかり髪も伸びて元の令嬢らしい風采へと戻っていた。

 それでも、ここ一年近くロウエルの下であれこれ雑務をこなしていたせいだろう。継ぎ接ぎだらけのエプロンドレスが妙に馴染んで見える。


「どうした、カムリ。アウロ様にご用事か?」


 次いで、シルヴィアの対面に座る老人が鋭い眼差しを少女に向けた。


「アウロ様ならつい先ほどここを出たばかりだぞ。猫屋敷に行くとおっしゃっていたが」

「むう、行き違いになったのか。ところで、そなたたちはなにをやってるの?」

「志願兵の選抜と武器の調達。兵站整備に資金の管理。およびそれらにまつわる人事と各部署から上がる要望書の確認だ。王国軍との戦闘が始まる以上、やるべき仕事は山ほどある」


 ロウエルはテーブルに積み上げられた書類を手に取り、その文面に目を通したところで眉を歪めた。


「なんだ、これは。戦場にマタタビ酒の常備を求むだと。……差出人は山猫部隊(リンクス)の酔いどれ猫どもか。却下だ、却下。水ならこの地のエールと林檎酒だけで十分だろう」

「こちらにも蒸留酒の要望がありますね。それも樽単位で」

「ゴゲリフどもか? 連中(ドワーフ)を酔わせようと思ったら樽一つでは足りんだろう。それも却下だ」

「あ、いえ。要望書はルキさん名義で届いています。なんでも、前線で医療用に使うのだとか」

「フム……。麻酔か、それとも消毒薬代わりか。まぁ、いい。あの娘ならば馬鹿な使い方などしないだろう。後でアウロ様に認可していただくとしよう」


 ロウエルは書類を取り分け、再び選別作業へと移る。

 が、そこで老人はふとカムリの、正確にはその手に抱えられているバスケットを一瞥し、鼻をひくつかせた。


「ん? なにやら妙な匂いがするな。バター……のようだが羊乳から作られたそれとは違うようだ」

「お、流石わんわん族。鼻がいいね」

「人を犬畜生と一緒にするな」

「バター? ひょっとして焼き菓子ですか?」


 不満顔のロウエルをよそに、きらきらと目を輝かせるシルヴィア。

 カムリはもったいぶった動きで籠の布を取り払った。途端、外界へと解き放たれる甘い芳香。

 まろびでた小麦色のパンケーキに、シルヴィアは歓声を上げた。


「わぁ、バラ・ブリスですね! しかも焼きたて!」

「ふっふーん。つい五分前くらいにハンナと一緒に作ったんだよ。食べたかったらくださいと言いなさい」

「食べたいです。ください」

「……侯爵家の令嬢がなんとプライドのない」

「あら、ロウエルさん。その認識は間違いですよ。アクスフォード家は既に取り潰されています。今の私は貴族の娘でもなんでもありません」


 シルヴィアはほくほく顔でカムリの手からパンケーキを受け取った。当然、たっぷりとバタークリームをつけて。


「で、爺さんも食べる?」

「折角だ。いただこうか」

「じゃあ、三べん回ってワンと言いなさい」

「………………」


 バスケットを掲げるカムリの前で、ロウエルは顔を手で覆った。

 それから深々とため息をつき、ちらっと指の間から少女の顔を見た後、もう一度嘆息を漏らした。


「………………ハァ」

「ちょっと! なんだよ、その重いため息は!」

「いや……お前がこの国の……。こんなクソガキがこの国のな……」


 頭を抱えたまま、やや歯切れの悪い反応を見せるロウエル。


 先日、彼やハンナを含むギネヴィウス家の幹部四人は、カムリの正体について主の口から明らかにされていた。

 『カンブリアの赤き竜』はこの国の守り神だ。竜王アルトリウスとともに王国の黄金時代を築き上げた伝説の神竜。この国に住む者ならば、誰しもが一度は耳にしたことがある存在である。

 が、当代に蘇った『赤き竜』は美しい少女の姿を取っていた。それも生意気で常識破りな性格の小娘だ。伝説に語られる神竜のイメージとは似ても似つかない。


「もー、しょうがないな。ほら、これあげるから元気出しなよ」

「……ありがとよ」


 老人はぶっきらぼうに礼を言って、少女の手からパンケーキを受け取った。

 その向かいでは、シルヴィアが幸せそうな顔でケーキを頬張っていた。舌の上でとろけるふわふわの生地に、彼女は「んーっ」と身をくねらせた。


「おいしいですねぇ、これ。果物や甘草のものとはまた違う、すっきりした甘みを感じます」

「隠し味を入れてあるんだよ。キラービーの蜂蜜、ユニコーンの角の粉末、他にも色々と――」

「なんだそれは。本当に食って大丈夫なのか?」

「もちろん。少なくとも、リーキは入れてないけど」

「葱くらい食えるわ。お前は人をなんだと思っているんだ」


 ぶつぶつ言いながらも、ロウエルは尖った犬歯でパンケーキを食い千切った。

 目を閉じ、幾度か咀嚼。小さく息をつき、無言のまま二口目へと突入する。

 ケーキ一個が消えるまでにかかった時間は十数秒ほど。ロウエルは最後のひとかけを飲み込んだ後、険しい顔つきのまま呟いた。


「うまいな」

「でしょー?」


 カムリはにこにこと満足そうに微笑んだ。


「口に合ってよかったよ。爺さん、甘いのも案外いけるクチなんだね」

「まぁな。昔は好きではなかったが、この地に来てからは食べ慣れた。ステラ様は焼き菓子を作るのが趣味だったからな」

「ステラ様……って、アウロさんのお母さんですよね。お菓子作りが得意だったんですか?」

「私は趣味とは言ったが得意とは言っていない」


 「そ、そうですか」とシルヴィアは笑顔を凍らせた。なにか触れてはいけない過去に触れてしまったらしい。


「そういえば、シルヴィはこういうお菓子とか作ったりするの?」

「ええと……料理自体はしますよ。お菓子作りは得意ではありませんけど」

「へぇ、なら得意料理は?」

「カウルでしょうか。私の故郷、ドルゲラウは緑深い山々に囲まれています。その山の中で狩りをしてですね、仕留めた獲物をシチューにするんです」

「えっ……。つまり、そなた自身が弓をぶん回したりするってこと?」

「そんな、まさか」


 シルヴィアはお淑やかな所作で口元に手を伸ばし、


「私は獲物に向かって猟犬をけしかけるだけですよ。その後、馬でワンちゃんたちを追いかけるんです」

「いや、十分アクティブだと思うけど……」

「一応クロスボウも持っていきますが、使うのは魔獣と遭遇した時だけですね」

「魔獣!? しかも、武器のチョイスが絶妙にえぐい!」

「ちなみにヘルハウンドのお肉って結構タンパクでおいしいんですよ」

「って食べたのかよ! それ、笑顔で言うような台詞じゃないよね!?」


 立て続けにツッコミを入れるカムリに、シルヴィアはくすくす笑いながら言った。


「本気にしないでください。さっきの話は冗談です。――半分くらいは」

「付け加えられた一言が不穏すぎるんだけど……」

「それより、アウロさんを探しに行かなくていいんですか? 折角の出来立てが冷めてしまいますよ」

「あっ……そ、そうだった!」


 カムリはわたわたとバスケットの中から麻布を取り出すと、それをテーブルの上に敷き、適当な数のパンケーキを置いた。


「じゃ、わらわは主殿のところに行くよ。このバラ・ブリスは屋敷のみんなで分けて食べてね」

「あら、お気遣いありがとうございます。他のみなさんも喜ぶことでしょう」


 今のギネヴィウス家にはロウエル、シルヴィア以外にも数多くの家人たちがいる。

 税の取り立てを行う徴税官に、資金管理を受け持つ財務官。治安維持を担当する監察官や、各地の陳述を取りまとめる書記官。

 その他、大勢の役人が領主業を代行しているからこそ、アウロも自らの仕事に忙殺されず済んでいるのだ。


 カムリは外行き用の黒いローブを羽織ると、山猫部隊(リンクス)本部に向かった。

 ハンナたちに与えられた屋敷はその後、部隊の増員に伴って幾度かの増改築を繰り返され、ほとんど要塞と化していた。

 現在、『猫屋敷』の通称で呼ばれるこの大邸宅には、隊員たちの住まう住居ブロック以外にも、様々な施設が複合する形で組み込まれている。

 シドカムやゴゲリフら技師集団の働く工房。機甲竜(アームドドラゴン)用のハンガーに騎士甲冑(ナイトアーマー)用のガレージ。更にはリコットと子供たちが住む孤児院などだ。


 カムリはまず猫屋敷の本体である邸宅へと顔を出した。が、あいにくアウロの姿は見当たらなかった。

 次いで、邸宅に隣接する工房へと赴いたものの、やはり主は不在だった。どこか他の場所へ移動してしまったらしい。

 念のため、リコットの孤児院も覗いてみた彼女だが、ここでもアウロと会うことはできなかった。新設されたログハウスの前に広がる草地では、孤児院の子供たちが放牧中の羊のごとく思い思いに遊んでいた。


「あ、リコちん。主殿がどこに行ったか知らない?」


 カムリは木造家屋のテラスに腰掛けていた少女に声をかけた。

 きょと、と目を瞬かせたのはハンナと同じケットシー族の娘だ。夕陽に照らされた前髪は小麦色に輝き、鼻の周りに残ったそばかすに影を落としている。

 リコット・キャスパリーグ。ハンナの妹でもある彼女は、この孤児院に住み込みながら子供たちの母親役をこなしていた。


「あれ、カムリちゃん? 珍しいね、こんな時間に遊びに来るなんて」

「いや、遊びに来た訳じゃないんだけど……」


 そこで彼女の存在に気付いた子供たちが、わっと編隊を組んで押し寄せてくる。


「あー、ドラゴンのお姉ちゃんだ!」

「カムリちゃんだ! カムリちゃん!」

「なんだろう。妙にいい匂いがするよ」

「その籠なに? ひょっとして、またパンを焼いてきてくれたの?」


 だぶついたローブの裾を引っ張りながら、てんでバラバラに囀るちびっ子集団。

 まるで腹を空かせた子犬の群れだ。カムリはよろめきながらも、バスケットを頭の上に担ぎ上げた。


「えーい、控えいガキども! そなたら、ハンナからケーキを貰ったはずだろ!」

「え、なにそれ知らないよ」

「ケーキ? フルーツケーキか!」

「おのれ、ハンナ姉ちゃん! 一人でお菓子をどくせんするとは!」

「許すまじ! 許すまじ!」


 少女の口調を真似して、子供たちはわぁわぁと騒ぎ出す。

 カムリは訝しそうにリコットの顔を見た。


「おかしいな。リコちん、ハンナはこっちに来てないの?」

「それが来たは来たんだけど……本館の人たちにパンケーキを配ってたら、うっかり全部なくなっちゃったらしくって」

「まぢでか。結構、量があったはずなんだけどな」

山猫部隊(リンクス)は今、かなり規模が大きくなってるの。一度は姉さんに付いてけないって袂を分かった人たちが、ここ最近どっと隊に戻ってきてるのよ」

「面の皮の厚い連中だな。どうせ隊に残った仲間の暮らしぶりを見て、羨ましくなったんだろ」

「それも理由の一つかもね。後はアウロさんの評判を聞いて心変わりしたり、単純に食い扶持を求めて恭順してきたりってパターンも多いみたい」

「てめーら新参に食わせるケーキはない! って追いやっちゃえば良かったのに」

「……姉さんがそんな居丈高な態度をとれる人だと思う?」

「あー、うん……それはちょっと無理かな」


 ハンナは良くも悪くもお人好しだ。おまけに見た目がネコミミメイド少女なので、組織の長としては少々威厳に欠ける部分がある。

 もっとも領主であるアウロを始め、ロウエル、ルキといった他の幹部は愛嬌をドブに投げ捨てているような面々だから、いざという時にハンナを頼りにする人間は多かった。ある意味ではバランスが取れていると言えよう。


 カムリは仕方なくバスケットにかけていた布を取り払い、甘味に飢えた子供たちへとバラ・ブリスを進呈した。

 彼らは拍手喝采でそれを迎え入れると、テラスの端に鈴なりになってパンケーキをがっつき始めた。


「ふーむ、これはうまい。お菓子らしいお菓子だ」

「前に食べたレーズンプディングよりもこっちの方がおいしいですな」

「このバタークリームのねっとりした甘みがたまりませんなぁ」


 と、美食家のごとく気取った評価を下す子供たち。


 カムリが彼らに菓子類を焼いてくるのはこれが初めてではなかった。

 口ではあれこれ文句を垂れつつも、彼女はこの孤児院へと頻繁に顔を出していた。その際の手土産として、ケーキやクッキー、クランペットやショートブレッドなどを用意していたのだ。

 もちろん、なんらかの見返りを求めてのことではない。カムリにしてみれば単なる暇つぶしだ。ただ見え透いた同情心がないため、子供たちからは逆に歓迎されていた。


「カムリちゃんって、なんていうか子供好きよね」

「ふん、誰がこんなクソガキども」


 と言いつつも、その眼差しははしゃぐ子供たちに向けられている。


「わ、なんかすごい騒ぎになってるね」


 そこでログハウスの扉が開き、中からオレンジ髪の小男が姿を見せた。

 ケットシー族の青年、シドカムだ。今日はいつものツナギではなく、リネンのシャツにズボンという出で立ちだった。


「やぁ、カムリさん。いつの間に来てたの?」

「ついさっきだよ。シドっちとここで会うのは珍しいね」

「今日は《ラスティメイル》の開発が一段落したから、ちょっと孤児院に顔を出してみたんだ。普段はこの時間、まだ工房の方にいるんだけどね」


 シドカムはそう説明しながら、ごく自然にリコットの隣へと腰を降ろした。


「カムリさんは――あ、また子供たちにお菓子を届けに来てくれたの?」

「いや、本当は主殿を探しにきたんだけど……」

「アウロとならさっき工房で会ったよ。次はルキさんのところに行くつもりだって言ってたな」

「じゃあ、今は東の診療所か。主殿ったら護衛も連れずにふらふらと危なっかしいなぁ」

「それなら大丈夫だと思うわよ。ベディクさんが一緒に付いてったみたいだし」

「あいつが? ……むむむ、なんか逆に不安だ」


 アウロに協力しているとはいえ、ベディクの素性は未だに不明だ。はっきり言って信用できない。

 カムリはすぐさま身を翻そうとした。が、途中でふと思い直すと、バスケットから取り出したパンケーキをリコットとシドカムの手に押しつけた。


「はい、これ。二人ともまだ食べてないでしょ?」

「ありがとう。頂くわ」

「なんだか悪いね。アウロと一緒に食べるつもりだったんだろ?」

「別に気にしなくていいよ。まだそこそこ量はあるし」


 「それより」とカムリは意地の悪い笑みを浮かべ、


「二人はいつになったら付き合い始めるつもりなの? なんか恋人を通り越して夫婦みたいな雰囲気になってるけど」

「え? あ、う……そ、それは……」


 口ごもるシドカムの隣で、リコットも赤面したまま押し黙る。

 が、その態度は少し妙だった。今までもカムリはしばしば、こういった台詞を口にして二人をからかってきた。だからこそ、その『どちらが言い出すか』とばかりにお互いを窺う視線に、なにやら引っ掛かりを覚えたのだ。


「あれ、二人ともひょっとして――」

「カムリちゃん、これはまだ秘密にして欲しいんだけど」


 リコットはカムリを手招きすると、その耳元にそっと口を寄せた。


「じ、実はね、シドからの告白自体は半島に来てからすぐにされてたのよ。でも、今までは父さんのことがあったから、私も下手に返事をできなくて宙ぶらりんの状態だったの」

「僕としては宙ぶらりんより、生殺しって表現の方が近い気もするけど……」


 ぼやくシドカムを真っ赤な顔で睨んでから、リコットは言葉を続けた。


「でも、この前アウロさんの口から色々説明があったでしょ? だから晴れて――って訳じゃないけど、その、つまり、秘密がなくなった以上、そういう関係になっても問題ないっていうか」

「うんうん。みなまで言わずともなんとなく分かった。で、結婚式はいつ?」

「それはちょっと気が早過ぎるわよ!」

「そう? だって両想いなんでしょ? どうせもうすぐ戦争が始まるんだから、今のうちに式を挙げておくべきだと思うけどなぁ。戦争が終わってから結婚しましょうじゃ死亡フラグにしかならないよ」

「お、脅すようなこと言わないでくれよ……」


 シドカムはぶるっと背筋を震わせた。


「とにかく結婚についてはまだ考えてないんだ。戦争のこともあるけど、僕自身、色々と手一杯でリコに構えてない部分がある。もう少し周囲が落ち着いてからでも遅くないと思ってね」

「ふーん、リコちんはそれでいいの?」

「うん。まぁ、子供ができない内はね」

「子供? ……あ、そう。もうやることはやってるって訳か」


 墓穴を掘ったリコットは慌てて「じょ、冗談よ」と誤魔化したが、ピンと尻尾を緊張させ、三角形の耳まで桃色に染めた状態では、説得力もなにもあったものではなかった。


「そ、それよりアウロさんのことはいいの? 探してたんでしょ?」

「あっと、そうだった。リコちんをからかうのはまた今度にしとこうか」


 カムリは残念そうに呟き、バスケットを抱え直した。


「あれ、カムリちゃん。もう行っちゃうの?」

「なんだ。今日は遊びに来たわけじゃなかったんだ」

「ところで最近、夜になるとリコちんとシドっちが二人してどっかにエスケープしちゃうんだけど――どう思う?」

「奥さん奥さん! これって『あいびき』って言うんだよね!」

「……そういうのは見て見ぬふりをしてあげなさい」


 カムリは硬直する二人をよそに、子供たちの肩へとぽんと手を乗せた。

 聞き分けの悪い彼らも、この時ばかりは『はーい』と声を揃えた。


 その後、孤児院の敷地を出たカムリは丘を下り、踏み固められた野道を辿りながら東へと向かった。

 この辺りは海が近く、水路の便が良くないので農作物の栽培は行われていない。夕陽に照らされた丘陵地帯はほとんど一面が緑の低木に覆われており、時折その間にエリカやカルーナ、ハリエニシダといった野草類が小さな花々を咲かせていた。


 ルキの住む診療所は領主邸、猫屋敷からそう遠くない位置にあった。

 外観はこじんまりした煉瓦造りのバシリカだ。元々は司祭プルーンの一団が信者たちに命じて作らせた教会であり、礼拝施設としての機能も残っている。

 また、聖堂の裏手にはローマ式の浴場が隣接していた。これはルキが衛生管理の名目のもと、シドカムたちの手を借りて建設した公衆浴場で、一部は患者以外の人間にも開放されていた。もっとも、元が火竜ゆえに水嫌いなカムリは利用したことがない。


「たっのもー!」


 カムリは半開き状態の大扉を押し開け、バシリカの内部へと踏み込んだ。

 いきなり現れた黒衣の少女を前に、屋内の神官たちは甲高い悲鳴を上げた。広間のベッドに横たわっていた患者までもが飛び起き、ぎょっと目を見開いた。


「ひぃっ、ま、魔女だ!」

「魔女が攻めてきた!」

「ルキ様! ルキ様を呼ぶのよ!」


 と、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎである。


「なんだよ、冗談の通じない連中だな。それより主殿はどこ?」


 返答はない。カムリはさっと周囲を見回した。

 屋内は薄暗かった。採光窓から差し込む光が、だだっ広い身廊をオレンジ色に照らしていた。

 ホールには患者の横たわったベッドが点々と散らばり、若い娘ばかりの神官たちは一ヶ所に身を寄せ合って戦々恐々としている。

 やがて奥の住居区へと続く扉が開き、中から人形のような風貌の少女が姿を現した。彼女は張り詰めた空気を前に、無表情のまま口を開いた。


「一体なんの騒ぎですか?」

「る、ルキ様!」


 途端、半泣きになった神官娘たちが自分より小さな少女へと群がる。

 すっかり平静さを失った彼女らを、ルキは熟練の馬丁のように諫め、なだめ、慰めた。

 カムリは空のベッドに腰掛け、それを暇そうに眺めていた。が、すぐに飽きたのでバスケット内のパンケーキを食べ始めた。ケーキはだいぶ冷めていたが、まだ十分に柔らく、甘かった。


「おっ、カムリの嬢ちゃん。そいつはなに食っとるんじゃ?」


 ふいに横合いからうめき声をかけられ、カムリは首をひねった。

 隣のベッドには、酒樽に手足をくっつけたような体型の老人が横たわっていた。顔の下半分は灰色の顎髭に覆われ、分厚く垂れた瞼の向こうにはつぶらな瞳が瞬いている。熱が出ているのか、その目はどこか淀んでいた。


 ドワーフ族の技師、ゴゲリフ。

 主にアーマーの整備と開発を担当するエンジニアだ。

 見慣れた知り合いの姿に、カムリは「あれ?」と声を漏らした。


「ゴゲリフのおっちゃんじゃない。なんでこんなところにいるのさ」

「最近、働き詰めだったせいか体調を崩してしまっての。ルキの嬢ちゃんの厄介になっておるのじゃ。まったく、無駄に歳は取りたくないものよ」

「ふーん、なんだか知らないけど大変だね。……あ、これ食べる? さっき焼いたばっかのバラ・ブリスだよ」

「頂こうか。ここの食事は悪くないが、わしらにとっては少々健康的すぎる」

「まぁ、診療所と酒場は違うからねぇ」


 カムリはバスケットから取り出したパンケーキをゴゲリフに投げ渡した。

 そこで「カムリさん」とバシリカの奥から声が上がる。ベッドから飛び降りたカムリは、神官たちに囲まれたルキの元へ歩み寄った。


「やっほう。久しぶりだけど元気してた?」

「健康です。それより、カムリさん。先ほどのような来訪の仕方はやめて下さい。彼女たちが怯えてしまいます」


 淡々とした口調で注意するルキ。その背に隠れるようにして、四、五名の神官たちがびくびくと震えていた。カムリはオオカミを前に、一塊になって震える子羊を連想した。


「こいつら、天聖教の神官? ひょっとして、ぶーちゃんたちの代わりに送られてきたの?」

「いいえ、彼女たちは元々この地域に住んでいた修道女シスターです。この診療所の存在を知って、自発的にお手伝いを申し出てくれたんですよ」

「えー、なにそれ怪しいなぁ。どっかから送り込まれたスパイじゃないの?」

「違います。シスターたちがケルノウン半島にやってきたのは、アウロさんが伯爵に昇爵するずっと前のことです。彼女たちは王都でひどい虐待を受けて、この地に逃げ込んだんですよ」

「虐待?」

「性的暴行です。カムロート司教のカシルドラは漁色家として有名ですから」

「へー、とんだ外道畜生だね。ルキのお父――」


 カムリはぱしん、と口元に手を当てた。

 危うく飛び出しかけた台詞をごくりと呑み込む。シスターと患者たちは不可解そうな顔をしていたが、カムリの言いかけた台詞には気付いていないようだった。


「えっと……ルキ、一旦あっちに行こうか」

「分かりました。皆さん、ここはお願いします」


 ルキは人々に頭を下げると、カムリを伴って居住区へと戻った。


 聖堂の奥に広がる一室は、薬草を煮詰めたような清潔な香りで満たされていた。

 ここは診察室も兼ねているらしく、背の低いスツールやぼろのベッド以外にも、鍋のくべられた竈、包帯や麻布の投げ込まれた木箱、大小様々な壷を並べた薬棚の他、全く用途の分からない魔導具の類が隙間なく配置されていた。

 カムリは巻紙の詰まったキャビネットを見下ろしながら尋ねた。


「そなたがカシルドラの娘ってこと、あのシスターたちは知ってるの?」

「もちろんです」


 ルキは机の前の椅子に腰を下ろした。


「人の口に戸は立てられません。あの場にいた方々はみな、私の出自についてよくご存知です。それでも、彼女たちは何一つ不満を言うことなく働いてくれています。ありがたいことです」

「ふーん、よかったね。ところで主殿はここへ来なかった?」

「いらっしゃいましたよ。もう外へ出てしまいましたが」

「ぶぶぅ……。なんだよ、また行き違いになったのか」

「ご用件はそれだけですか? では、私は食事に戻ります。夜は別の業務があるので、今の内に栄養補給をしておきたいんです」

「あ、ご飯中だったんだ。邪魔して悪いね」


 と謝りつつ、カムリはこそこそとルキの手元を覗きこんだ。

 机の上には二つの銅器があった。一方はオートミールのポリッジにキャベツとビーンズを加えたもの。

 もう一皿はリーキと羊肉を、セージ、カモミール、ラベンダーといったハーブ類とともに煮込んだシチューだ。琥珀色のスープには食べかけのパンが溺死体のように浮いていた。


「うーん、普通だ。感想に困るくらい普通のメニューだ。てっきり、野菜百パーセントって感じの食事かと思ってたのに」

「野菜だけで献立を組もうとするとコストがかかり過ぎます。それに人体に必要な栄養分を補給するためには、肉と穀類は必要不可欠です」

「ロジカルな言い訳だなぁ。でも、たったそんだけじゃカロリーが足りないと思うよ。ほら、おじさんがバタークリームたっぷりのパンケーキをあげよう。甘くておいしいよ?」

「はぁ」


 ルキは圧倒されるまま、カムリの手からケーキを受け取った。


「バラ・ブリスですか。こういう菓子類は苦手なのですが……」

「む、甘いものが嫌いなの?」

「いえ、甘味はむしろ好きです。ただ、私は贅肉がつきやすい体質でして、油断するとすぐに太ってしまうんですよ」

「へー。その口ぶりだと実際、痛い目にあったみたいだけど」

「……若気の至りです。あの時のことは思い出したくもありません」

「わらわ、これから毎日クッキーを焼いてきてあげる!」

「悪意のある親切はお断りします」


 冷たく言い放ったルキは、そこでふとカムリの体型を上から下まで観察した。


 カムリの身長は平均よりやや低い程度。それでもルキよりかは頭半分ほど背が高く、プロポーションに至っては比べ物にならない。

 だぶついたローブの上からでも分かる胸の膨らみ。きゅっと引き締まったウェストには無駄な脂肪など欠片もないのに、形のいいヒップはふっくらと女性的な丸みを帯びている。

 人形娘と陰口の叩かれることの多いルキだが、全体の完成度で言えばカムリの方が上だった。表情や態度に愛嬌があるせいで分かりづらいものの、絹糸のような頭髪やほくろ一つない肌はひどく人間離れしている。


「あれだけ暴飲暴食をしているというのに、この体型を維持できるというのは驚嘆に値しますね。やはり胃袋の性能が違うのですか?」

「え? わらわの体に胃袋なんてないよ?」

「……笑えない冗談ですね」

「別に冗談じゃないって。正確に言うと、わらわの体には人間でいう消化器官の代わりに変換炉って特別な臓器があるんだ。こいつは食べたものを分解して、魔力を生産してくれる器官でね。魔獣用の胃袋――って言えば分かりやすいかな」

「つまり、カムリさんはどれだけ食べても体型が変わらないということですか? 排泄行為もしないと?」

「まぁ……そだね。水、というか液体は変換効率が悪いからそのままだけど……」

「排便はしないが排尿はすると」

「……せめて大とか小とかに言い換えてくれない?」

「なにやら恐ろしい事実を知ってしまった気分です」


 ルキは俯きがちに呟くと、思いついたように手を伸ばし、カムリの腹部にぺたぺたと手を這わせた。


「どうしたの、急に? 人のお腹に触り始めて」

「触診です。本当に内臓がないのか調べようかと」

「む……脇腹くらい触るなとは言わないけど、せめて一言許可を――」

「えい」

「にゃぁう!?」


 カムリは飛び跳ねた。ふいに閃いたルキの黄金の右手が、彼女の胸をぐにゅっと鷲掴みにしてしまったためだ。

 素早く飛びのいたカムリは、両腕で身をかき抱いたまま、涙目で少女を睨みつけた。ルキは聖痕(スティグマ)を浮かばせた手の平を、緩やかに開閉させながらじっと見つめていた。


「心音と脈拍はちゃんとあるんですね。心臓は例外、ということですか」

「こ、こいつ! なんのためらいもなく人の胸を!」

「女同士で照れる必要はないでしょう。修道院ではこの程度、ちょっとした挨拶代わりでしたよ」

「……ふーん、そういうこと言っちゃう」


 カムリは引きつった笑みを作ると、すり足でルキとの間合いを詰めた。

 そして、相手を射程距離に捉えたところで一気にチャージ。姿勢を落とし、椅子に座った少女の胸部装甲を背後から奇襲する。

 ぐっと握った指先に返ってきたのは、ゼリーのような瑞々しい感触だった。小さく、柔らかな膨らみが指先に心地よい弾力を返してくる。

 敏感な場所を揉みしだかれ、流石のルキも「っ……」と息をこぼした。


「む、意外とあるな。てっきりフルフラットかと思ったのに」

「……私は着痩せする方ですので」


 無抵抗のまま、食事を続行しようとするルキ。

 そこで、唐突にばたんと音を立てて扉が押し開けられた。聖堂から飛び込んできたのは法衣に身を包んだ修道女だ。


「る、ルキ様! ゴゲリフ老の容態が――!」


 直後、修道女は凍りついた。

 部屋の状況を見ればそれも無理からぬことだった。ルキはカムリに抱きつかれたまま、今も胸のあたりをまさぐられている真っ最中だ。室内にひどく気まずい沈黙が漂った。


「あの、お二人とも一体なにを……」

「少し親睦を深めていただけです。それより、ゴゲリフさんの容態が悪化したそうですね。咳はありますか? 血痰は?」

「い、いえ、容態が悪化した訳ではありません。その逆です。急にゴゲリフ老の症状が快方へ向かっているんです」

「妙ですね。そう簡単に治る病ではないはずですが……」

「なに? ゴゲリフのおっちゃん、変な病気にでもかかってるの?」


 「ええ」とルキは口元に手を当てたまま首肯した。


「ゴゲリフさんは肺の病に侵されています。倦怠感や食欲不振などの体調不良から始まり、微熱、発汗、喀血などの症状を呈する感染症の一種です」

労咳(ろうがい)か」

「ご存知でしたか。その通りです。今、診療所内に隔離している患者さんたちは全て同様の症状に苦しんでいます。ただ、ゴゲリフさんの症状が快復したということは、そこになにがしかのヒントがあるのかもしれません」


 ルキは椅子を蹴って立ち上がった。


 二人が修道女とともに聖堂へ戻ると、既にゴゲリフはベッドから降り、短い手足をばたつかせて屈伸運動をしていた。


「ほれ、見い! もうすっかり全快しておるじゃろうが。なんならこの場で飛び跳ねてみせようかの?」

「床が痛むのでやめてください」


 ルキはゴゲリフの前へと進み出た。その肩越しに、カムリもひょいと老人の顔を覗きこむ。


「なんだ、元気そうじゃない。さっきより顔色も良くなってるみたいだし」

「そんなすぐに体調が快復するはずはありません。ゴゲリフさん、なにか心当たりはありませんか?」

「心当たり? ……ふむ、そうじゃのう。そういえば、さっきカムリの嬢ちゃんに貰ったパンケーキを食ってから急に気分が良くなったような」

「ケーキ? カムリさん、なにかおかしなものでも入れたんですか?」

「え? 別に毒は入れてないよ。紅色マンドラゴラの乾燥葉とか、ジェノサイドキラービーの蜂蜜とか、ユニコーンの角の粉末とか、ベヒーモスバターとか、紅飛竜の卵――」


 説明途中でルキはふらっとよろめいた。慌てて修道女たちがその細い体を支える。


「る、ルキ様!」

「……すみません。思わずめまいが」


 ルキは相変わらずの無表情だったが、その肌はいつも以上に青ざめていた。

 彼女は幾度か深呼吸をした後、再びカムリへと向き直った。コバルトブルーの瞳から妙なプレッシャーを感じ、カムリは思わず後ずさった。


「な、なんだよ、怖い顔して」

「……カムリさん、お願いですから患者さんに危険物を与えないで下さい。今回は良い方向に転がったようですが、病状が悪化しないとも限りません。特に紅色マンドラゴラは使い方を間違えれば毒物になるはずですよ」

「でも、正しく煎じれば薬になるよ。特にマンドラゴラの葉は労咳によく利くはずだ。その後、急に体調がよくなったのはユニコーンの角のおかげだろうし――」

「その件ですが」


 ルキはずいっとカムリに迫った。


「今、ここには十二名の患者さんたちがいます。どうやら、カムリさんの作ったパンケーキは労咳の特効薬になるようなのです。できれば、私たちの医療行為に協力してくれませんか?」

「ゔぇぇぇ。それつまりパンケーキを要求する! ってことだよね」

「強要している訳ではありません。あくまで自発的に協力して頂きたいのです」

「こいつ、断りづらい頼み方を……」


 カムリはバスケットの覆いを持ち上げ、ちらっと中身を盗み見た。

 残るパンケーキの数は十四個。患者たちに分け与えても丁度二つ残る計算だ。カムリはうむと頷いた。


「まぁ、良かろう! たまには神様らしく太っ腹なところも見せとかないとね!」

「神様らしく?」


 きょとんとした顔で尋ね返すシスターたちを、ルキは「この人ちょっと頭がおかしいんですよ」と言って丸め込んだ。


 カムリの配布したパンケーキの効能は素晴らしく、患者たちはものの数分で健康体へと戻った。聖堂は患者たちの笑いとはしゃぎ声で満たされた。シスターたちは安堵に肩を撫で下ろし、無口無表情のルキでさえほっと息をついた。

 四方八方から感謝の言葉を受けたカムリは、しかし、そわそわした様子で窓の外を見た。聖堂内を横断した夕陽の光が、煉瓦の壁を薄ぼんやりと照らしていた。


「ねー、ところでルキ。主殿がどこへ行ったか分かる?」

「アウロさんですか? 西へ戻ったようですよ」

「ってことはお屋敷か。もう日が沈みかけてるしな……」

「もしくはあの場所かもしれません」

「あの場所?」


 ルキは天を仰ぎ、呟いた。


「アウロさんのご母堂――ステラ・ギネヴィウスの墓所です」






XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX






 ルキの読み通り、アウロはまだ領主邸に戻っていなかった。


 診療所からとんぼ返りしたカムリは、屋敷の裏手から伸びた小道を辿って、切り立った崖の先へと急いだ。

 既に日は水平線の向こうに没しかけていた。吹きつける夕風に、岬に植えられたラベンダーをそよそよと揺れていた。

 アウロの姿は石塔の前にあった。錆色の頭髪が残照を浴び、メタリックな輝きを放っている。その隣には長槍を背負った隻腕の男が控えている。二人はカムリの気配に気づくと、ほぼ同時に振り返った。


「カムリか。どうした?」

「もう! それはこっちの台詞だよ!」


 カムリはぷりぷり怒りながら、大股で主との間合いを詰めた。


「主殿ったら全然一ヶ所に留まってくれないんだもん! 追いかける方の身にもなってよね!」

「追いかける? 俺になにか用事があったのか?」

「いや、用事ってほどのものじゃないけど……」


 冷静に考えてみると、カムリはただアウロに焼きたてのパンケーキを食べて欲しかっただけだ。それがあちらこちらですれ違い続けたせいで、こうして三時間近くも時間を浪費してしまった。


 少女がステラの墓前にやって来ると、入れ替わりのようにベディクはアウロの傍を離れた。寂びた声で「先に戻る」とだけ言い残し、さっさとその場を後にしようとする。

 カムリはその背を呼び止めた。次いで、バスケットから取り出したパンケーキを握り、振りかぶり、全力で投げつける。唸りを上げて迫る小麦塊を、ベディクは器用に片手で受け止めた。


「これは?」

「お駄賃のケーキだよ! 今日は主殿の護衛をしてくれたみたいだし!」


 そう告げると、ベディクはなにか奇怪なものを見るかのように少女を凝視した。

 が、結局はそれ以上なにも言わず、岬を立ち去ってしまう。カムリは遠ざかる長駆を複雑そうな顔で見送った。


「むぅ……相変わらず、うさんくさい奴だなぁ。お礼の一つくらい言えばいいのに」


 ぶつぶつ呟きつつ、カムリはバスケットの底に一個だけ残ったバラ・ブリスへと手を伸ばした。

 が、そこで彼女はようやく気付いた。長時間外気に晒され続けたパンケーキは、すっかり中まで冷えきっていた。しかも水分が失われたせいか表面はカサカサに乾き、生地自体もセメントのように固くなってしまっている。


「そ、そんな、わらわのパンケーキが……し、死んでる」


 両目をいっぱいに見開き、愕然と両膝をつくカムリ。その姿は長い闘争の果てに打ち破れた敗北者同然だ。

 アウロはやや申し訳無さそうに声をかけた。


「ひょっとして、俺を探していたのもそれを食べさせようと思ったからか?」

「そうだよ……。でも、これじゃあもう手遅れだ。パッサパサのパンケーキほど不味いものはないもの……」

「なら温め直せばいいだろう」


 平然と言い放つアウロを、カムリはむっと睨み上げた。


「無茶言わないでよ。これをまたパン焼き窯に放り込んだりしたら真っ黒に焦げちゃう。それに水分も失われてるからね。温め直せばいいって訳じゃない」

「そうか。お前の使っていた術に、再加熱用のものがあったような気がしたが」

「えっ……。あ、そっか……」


 カムリはぽんと手を打った。


 バスケットにパンを放り込み、一度地面に下ろす。

 両手をかざし、瞼を閉じ、朗々と詠唱を開始する。


「『我は炎の巫女、ベリサマの祈り手なり! ごはんよごはんよ、あったかくなーれ!』」

「相変わらず適当な呪文だな」

「でも、ちゃんとあったかくなったよ!」


 カムリは「じゃーん!」とパンケーキを掲げた。先ほどまで冷たい死体と化していたそれは黄金の輝きを取り戻し、ほかほかと温かな湯気を立てていた。

 蘇生したパンケーキにたっぷりとバタークリームを塗りつける。とろりと溶ける淡黄色の乳脂。熟れた実のように芳醇な香りを放つそれを、カムリはためらいなく主へと差し出した。


「はい、どうぞ。前みたいに『あーん』ってしてあげようか?」

「遠慮する。それよりお前の分はいいのか?」

「わらわはもう何個か食べたからいいよ。ちょっと食べ足りないけどね」


 「そうか」と言って、アウロはパンケーキを受け取った。

 そして、すぐにスポンジを二つに割り、その内の一方をカムリへと差し出す。彼女は目をぱちくりさせた。


「主殿、これ……」

「甘いものは苦手なんだ。半分でいい」

「ふふふ、素直じゃないなぁ。お母さんの前でくらい正直になればいいのに」

「……いいから早く食べろよ。また冷めるぞ」


 「はーい」とカムリは嬉しそうに微笑んだ。


 それから二人は暮れなずむ空の下、並んでパンケーキをぱくついた。

 といっても、カムリはほとんど一瞬でケーキを飲み込んでしまっている。一方、アウロはスポンジ状の生地をちまちまと齧っていた。


「これ、なんだか普通のバラ・ブリスとは違うな。口の中に残るような甘ったるさがない。隠し味が入っているのか?」

「え? むしろ、隠し味しかない感じなんだけど」

「……材料については聞かないでおこう」


 アウロは小さな吐息を漏らすと、最後に残ったひとかけを咥内に放り込んだ。


「ごちそうさま。うまかったよ。なんだか懐かしい味がした」

「こういうの、昔はよく食べてたの? 主殿のお母さんはお菓子を作るのが趣味だって聞いたけど」

「ああ、おかげで何度もひどい目にあったものさ。あの人は料理に妙な隠し味を入れる癖があったんだ。ハーブ類やシナモン、蜂蜜くらいならまだ可愛いがな。ひどい時は青色マンドラゴラの根や緑飛竜の卵、ブラックベヒーモスの乳なんてものまで料理に使おうとするんだ。本人はレシピ通りに作ったと言っていたが……」

「そういえばあのレシピ、色のことまで書いてなかったからなぁ。赤系統のだったら文句なしの逸品に仕上がったのに」

「……おい、カムリ。まさかさっき食べたパンケーキ」

「えーっと……おふくろの味完全版ってとこかな! わらわが書庫で見つけたレシピ、主殿のお母さんが書き留めたやつだったみたいだね!」

「………………」


 アウロは手の平で顔を覆った。時間差で襲ってきた不条理に、一体どう呆れていいのか困り果てている様子だった。


「カムリ、お前な――」

「あ、主殿。口元にクリームがついてるよ」

「……どの辺だ?」

「わらわが取ってあげる。ちょっと屈んでもらってもいい?」


 「分かった」とアウロは膝を屈めた。

 途端、カムリはその両肩に手を乗せると、軽く背伸びしてアウロの口の端についたクリープをぺろっと舐めとった。肌をなぶる柔らかな感触に、アウロはぴくりと眉を震わせた。


「うん! え、えっと、甘くておいしいなぁ!」

「……そいつは結構」


 アウロはカムリの頭にぽんと手をやった。

 周囲はもう宵闇に満たされつつあったが、少女の顔は夕陽を浴びたかのように真っ赤に染まっていた。


「散策は終わりだ。屋敷に帰るぞ、カムリ」

「らじゃ!」


 カムリは小気味良い応答とともに、ぴっと敬礼した。

 そうして、アウロは足早に帰路へついた。少女はその背を「待ってよー!」と呼び止めながら小走りで追いかける。


 後には、月下に佇む石造りの尖塔だけが取り残された。

 ざぁざぁと鳴り響く潮騒の中、物言わぬ石塔は一組の主従の背を、いつまでもいつまでも飽きることなく見守っていた。

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