3-17
ガルバリオンの本拠地モンマスの西には、緑と黄金の多層に彩られた農地が広がっている。
平時には小麦の栽培が行われ、牧歌的な雰囲気を漂わせているこの場所も、王国軍との戦端が開かれた途端、猛々しい面構えをした騎士たちの集う戦闘陣地へと早変わりしていた。
ガルバリオンの対応は素早かった。王国軍がカムロートを出立したと情報が伝わるやいなや、諸侯に号令をかけて兵の召集を行い、工兵たちを使って塹壕と防御柵を構築し、本拠であるモンマス城に大量の補給物資を運び込ませたのだ。
撤退などまるで考えていない。籠城も論外。
この段階で、ガルバリオンは甥と――新王ドラク・マルゴンと一戦を交える覚悟だった。
元より、陸攻型機竜による戦略爆撃の前では石造りの城など無意味だ。
ならば防御を固めるのではなく、迫りつつある王国軍を迎え撃ち、野戦でこれを掃討してしまおうという狙いである。
幸い、魔獣や蛮族の脅威を受けることが多いモンマスには千名を超える騎士と、その倍以上の数の民兵たちが常駐していた。加えて、機竜とアーマーの頭数も十分過ぎるほど揃っていた。
これら明確な勝算の元、ガルバリオンは王国軍との決戦に臨んだのである。
彼に付き従う戦士たちはみな、常勝不敗の【モンマスの獅子】がいつも通り敵を粉砕するのだと確信していた。
その確信が霞のように消え失せたのは、モンマス城を脱出した兵によって急報が届けられた直後のことだった。
「謀叛だと?」
険しい表情で尋ね返したのは背の低い中年の男だ。
明らかに武人と分かる、巌のようにがっしりした肉体の持ち主である。
腰の左右には鞘に込められた剣。藍染めのチュニックの上から年代物の鎧を着込み、背中には深い青のマントルを羽織っている。刻まれた図柄は交差した槍と盾――ガーランド侯爵家の紋章だ。
四侯爵の一人、ウィリアム・ガーランド。
【槍の候爵】の名で知られる、ガルバリオンの腹心中の腹心である。
「誤報ではないのか。あのモーディアが易々と反乱を許すとは思えんが」
ウィリアムは鷹のように鋭い眼差しを伝令へと向けた。
今、彼らがいるのはモンマス西の平原に仮設された大型天幕の中だった。
天幕の中央にはオーク樹のテーブルが置かれている。大の男が四人がかりで、ようやく持ち運びすることのできる大円卓だ。
卓の上にはモンマス一帯の詳細な地図が広げられ、その周囲にはモンマス公の陣営に属する諸侯がずらりと雁首を並べていた。
具体的には総大将であるガルバリオンを筆頭に、その妻リアノン、娘のアルカーシャ。
ガーランド家の当主ウィリアムと、彼に仕える【赤槍】、【青槍】と呼ばれる二人の騎士。
それに数名の中堅貴族たちだ。現在、本拠であるモンマス城は兵糧、弾薬を保管するための物資集積所として扱われており、ウィリアムの弟モーディアが城主の名代に据えられていた。
「ウィリアム様」
兵は青白い顔のまま告げた。
「謀叛を起こしたのはそのモーディア様でございます。あの方は城の指揮官を殺し、自らに反抗する者たちの首を切り、川にかかる跳ね橋を焼き払ってしまいました。もはや、モーディア様は王国側にお味方すると公言してはばかりません。……ウィリアム様、これは裏切りでございます」
伝令のこめかみから溢れた赤黒い血が、汗ばんだ頬を伝って地面へと落ちる。
ウィリアムは信じられん、という表情でうめき声を漏らした。
無論、この報告に顔色を変えたのは他の面々も同じだ。
天幕内は一瞬でざわめきに包まれた。多くの者は平静さを失い、周章狼狽するばかりとなってしまっている。
なにしろ、モーディア・ガーランドはガルバリオンに付き従う将の中でも最古参の一人だったのだ。
【槍の候爵】ウィリアムがガルバリオンの右腕だとしたら、その弟であるモーディアは左腕の役割を果たしていた。
城の守護という大役を与えられたのも、彼が昔からの重臣であり、単なる上司と部下以上の友誼をガルバリオンと結んでいたためだ。
しかし、今やその信頼は背徳の汚泥へと投げ捨てられた。ガルバリオンはしばし瞑目した後、無表情のまま伝令に言った。
「確認しろ。一刻も早くだ」
「はっ!」
兵は息を整える間もなく、弾かれたように天幕を後にする。
だが、数分後。再び天幕内に届いた報告は先ほどと一字一句変わらなかった。
更に、王都カムロートからは陸攻型機竜部隊を含む、機甲竜騎士団が出撃したという続報までもが入ってくる。
謀叛を起こしたモーディアが、あらかじめ敵と内通していたのは明らかだ。事ここに至って、ウィリアムは弟の翻心を認めざるを得なかった。
「何故。何故だ、モーディア。何故、殿下を裏切るような真似を――」
「おい、ウィリアム。ぼけっとしてる場合じゃあないぜ」
ガルバリオンは呆然自失に陥っているウィリアムの背中を手の平で叩いた。
その表情はいつも通り、サバンナに棲む獅子のような余裕に満ち満ちている。
実際、ガルバリオンは動揺していなかった。モグホースがこちらの陣営に働きかけ、反乱を誘発させる可能性は十分考慮していたのだ。
問題はそれがよりにもよって、城の守りを任せたモーディアだったことである。ガルバリオンは人選を誤ったな、と冷めた気持ちで思った。
「起きちまったことを後悔しても仕方がない。ひとまず、兵たちを下げるぞ」
「しかし、下げると言っても城は奪われています。奪還するのですか?」
そう尋ねたのはガルバリオンの右手に立った、亜麻色の髪の女性である。
絵の具で描かれたようにはっきりした顔立ちと、すらりと高い身長が特徴の麗人だ。ただ、そのしなやかな肢体を包んでいるのはミスリル製の鎧だった。
ガルバリオンの妻リアノン。自身も機竜に乗って戦う女傑である。ガーランド家の出身で、血縁的にはウィリアムとモーディアの妹に当たる。
「城を奪い返すのは難しいな。敵も黙って後ろから見守ってくれちゃあいないだろう。ここは一旦、南へ逃れるしかあるまい」
「南? となると、ブランドル家ですか?」
「ああ、リカルドの奴なら俺たちの味方をしてくれるはずだ。しかし、問題はこっちに来てる機竜どもだな」
「編隊に陸攻機が含まれているのが厄介です。放置すれば兵たちが犠牲になってしまいます」
リアノンは一拍の間を置くと、炯々たる眼で夫を見据えた。
「幸い、私たちの機竜はこの陣にあります。私が空でナーシアくんを迎え撃ちましょう」
「いや、リアノン。お前はアルカを連れて先にブリストルへ逃れろ。ナーシアの迎撃には俺が当たる」
その一言に、それまで黙っていたアルカーシャはむっとした表情を浮かべた。
「父上、私も戦えます。いえ、戦わせて下さい」
「ダメだ」
が、ガルバリオンは娘の懇願を一言で切って捨てる。
ぐっと口ごもったアルカーシャはなおも言い募ろうとしたが、彼女の母はそれを片腕で制した。
「旦那様、少しよろしいですか?」
「どうした、リアノン」
「私はあなたのお考えに異は唱えません。その代わり、一つ約束して下さい」
「必ず生きて帰って来いと? その約束ももう何回目だったかな」
「五回目です」
リアノンは微笑みを浮かべた。
彼女とガルバリオンの付き合いは、娘であるアルカーシャよりずっと長い。
だから、この男の気性もよく理解している。ガルバリオンは一度こうと決めたことは絶対に曲げないたちなのだ。
「でも、納得が行きません。父上たちが戦っているのに私だけ逃げるなんて……」
一方、アルカーシャは未だにぶつぶつと腐っている。
ガルバリオンは「仕方ねぇな」と呟くと、腰に佩いていた剣を娘に投げ渡した。
抜き身の状態ではないとはいえ、刀身と鞘とを合わせればかなりの重さだ。危ういところで剣を受け止めたアルカーシャは、思わず足元をふらつかせてしまった。
「きゃっ……!? って、いきなり何をするんですか!」
「アルカ、お前にそいつを預ける。南にいる連中に届けてやってくれ」
「南? でも、父上――」
アルカーシャは困惑気味に手中の剣を見下ろした。
白塗りの鞘に込められた宝剣である。武器に詳しくない彼女でも、明らかに普通の剣とは違うことは分かる。
アルカーシャは恐る恐る柄に手をかけ、刀身の根元部分をわずかに鞘から露出させた。金属の擦れる音に次いで、太陽光にも似た黄金の輝きが少女の頬を照らした。
「これは先王から賜った〝ガラティーン〟では? この剣は父上にこそ必要なものでしょう」
「陸ならともかく空の戦いじゃあ、高価なお荷物にしかならんよ。アルカ、そいつを持ってブリストルへ向かえ。それがお前の任務だ」
「任務といっても、ただのお使いではないですか」
「お使いだって大切な仕事だぜ?」
ガルバリオンはいつものように冗談めかした口調で言った。
「それに、俺の身に万が一ということもある。アルトリウス王の魔剣にはだいぶ見劣りするが、〝ガラティーン〟も王家の三宝の一つだ。人望集めの小道具くらいにはなってくれるだろう」
「不吉なことを言わないで下さい。父上が負ける未来など想像できません」
「ありがとよ。お前みたいな可愛い娘がいて俺は幸せだ」
ガルバリオンは幼子をあやすように、少女の頭をぽんぽんと撫でた。
いつもと同じ温かな手の平だ。
それでも、アルカーシャの胸の内には漠然とした不安感が渦巻いていた。
モーディアの裏切りによって城が落とされたとはいえ、まだ王国軍本体は西の平原に留まっている。少なくとも、『最悪』と言うほどの状況ではない。
にも関わらず、なにか良くないことが起きるような気がするのだ。不吉な予感だった。思わず、剣を抱えた腕に力がこもる。
「父上――」
「さぁ、もう時間がない。まごまごしてると、ナーシアの野郎が俺たちの頭上に素敵なプレゼントを落としちまう」
「行きましょう、アルカ。今、私たちがすべきは旦那様の足手まといにならないことです」
「……分かりました」
母に袖を引かれ、アルカーシャは渋々その場を後にした。
天幕内から妻子の姿が消えると、ガルバリオンはすぐさま表情を引き締めた。
普段はなまくらの如く緩んだ雰囲気が、研ぎ澄まされた刃のそれへと豹変する。
男はもはや、娘の身を案じる父親ではなくなった。今のガルバリオンは戦士だ。数千の兵を纏める将だ。ただ冷徹に敵を駆逐する戦争兵器だ。
「ウィリアム、ジュトー、お前たちは俺と一緒に空へ上がれ」
「了解」
「オリヴァン、お前は地上で撤退の指揮だ。手勢を集めて武器と弾薬、物資を可能な限りブリストルへ移送しろ」
「了解です。しかし、アーマーの運搬はどういたしましょうか」
河川や山岳を楽々飛び越えることのできる機甲竜騎士とは違い、鈍重な陸戦型騎士甲冑は戦場から動かすだけで、莫大な時間と兵員を使い果たしてしまう。
だが、ガルバリオンは卓上に広げられた地図、そのモンマス西を通る河の下流を指差して言った。
「こんなこともあろうかと、東の川べりに浮揚魔導船を用意してあるんだ。場所はこの辺り。偽装が施されてるから適当に引っ剥がせ」
「なんと、相変わらずのご慧眼ですな。確かに、船を使えばモノウ川から一気にワイ川、ブリストル海峡を抜けて、ブランドル家の領内を目指せます」
「その通り。本当はもっと後に使う予定だったんだが、ここで出し惜しみしている余裕はなさそうだ。虎の子の一隻だから沈めるんじゃあないぞ」
「はっ」
「他の者も急ぐ必要はない。軍律を維持したままブリストルを目指すんだ」
ガルバリオンは矢継ぎ早に命令を下すと、すぐに自身も空へ飛び立つべく、天幕に隣接された飛行場へと向かった。
後に続くのは【槍の候爵】ウィリアム・ガーランドとその配下、【赤槍】ジュトー・アプ・マシスである。ガルバリオンと肩を並べたウィリアムは、ボイラーのように頭から湯気を吹き上げていた。
「おのれ、おのれ、おのれっ! モーディアめ。あの救いがたい愚弟め。殿下を裏切ってモグホースの側に付くとは恥知らずな真似を……!」
「ウィリアム、あまりカリカリするな。冷静さを失ったまま空へ出れば死ぬぞ」
ガルバリオンの警告に、ウィリアムは「申し訳ありません」と顔を真っ赤にしたまま答えた。
「しかし、モーディアの奴には我慢なりませぬ。あの人の形をした排泄物は我が槍で滅多刺しにして、モンマス城の大扉に晒してやりたいところです」
「おいおい、俺は汚物を飾りつける趣味なんてないぞ。お前の意見には同感だがな」
「では、縛り首で我慢しておきましょう」
「奴の処刑方法を考えるのは後でいい。今は尻尾を巻いて逃げる方が先だ」
「仕切り直し、ということですな。今の王国軍は傭兵が主体で、騎士甲冑の数もそう多くはありません。ブランドル家の助力を得られれば、反撃に転じるのも難しくはないでしょう」
「その通りだ」
ガルバリオンは頷いた。が、その眉間にはかすかに皺が刻まれている。
一点、不可解な部分があるのだ。王国軍がモーディアと内応してこちらに打撃を与えるつもりだったのなら、両軍の先鋒が対峙した、正にその瞬間に旗色を変える方が良かったはず。
その場合、彼らは逃げるガルバリオンたちを追撃し、その背に容赦なく砲弾を撃ち込むことができただろう。モーディアの部隊と足並みを揃え、挟撃を仕掛けることも可能だったに違いない。
(王国側の狙いはなんだ? ブランドル家が動く前に先手を打ったつもりなのか……。いや、それとも俺を空に引きずり出すのが狙いか?)
ガルバリオンは歩きながら、頭の中で幾つかの推論を戦わせる。
ただ、どの可能性にも確信が持てなかった。分かるのは、自分が後手後手に回りつつあるという事実だけだ。
そうこうしている内に、彼らは飛行場へとたどり着いた。
既に戦闘駐機場の中。固く踏みしめられた大地の上には、三十名以上の機竜乗りたちがその乗機である《ワイバーン》共々緊急発進の準備を終えていた。
それでも、この地に配備された機甲竜騎士はガルバリオンに忠誠を誓う騎士たちの半分にも満たない。王国側の動きが急であり、開戦から日数も経っていないため、兵の召集が不十分なのだ。
「殿下、リアノン様とアルカーシャ様は既にブリストル方面へ脱しました。念のため、腕利きの騎士を二人護衛に付けております」
「分かった。俺たちも空へ出るぞ」
手短に命令を下すと、ガルバリオンは身につけていた鎧を無造作に脱ぎ去った。
彼らは敵の奇襲に対応できるよう、あらかじめ鎧の下にインナーを着込んでいた。
雲間から差す光が、スーツ越しに盛り上がった筋骨を照らす。今年で四十になるガルバリオンだが、その贅肉のそぎ落とされた体に衰えの色は見えない。
ガルバリオンは自らのアーマーに乗り込むと、ガンランスとシールドを両腕甲に装備し、駐機場の一角に鎮座する機竜の元へ歩み寄った。
「よう、相棒。今日もよろしく頼むぜ」
ガルバリオンは十年来の友人に接するかの如く、親愛に満ちた笑みを浮かべた。
燃焼する炎そのままの色。紅の装甲を持った複翼の機甲竜だ。
広いメインウィングの前には小さな前翼が備え付けられ、更にテールの両脇からは二枚の垂直尾翼が突き出ている。合計六枚にも及ぶウィングは、機体の安定性と運動性を向上させるための補助翼だ。
ただし、機体設計そのものは《エクリプス》のような、機動力一辺倒のデザインではなかった。竜鱗を張り巡らせた装甲は鉄の城壁よりも隙がなく、その構造強度は骸装機の中でも突出している。
――王族専用機の一、火竜の骸装機《ヘングロイン》。
火力、装甲、機動力。
その全てが高い次元で纏まった、王国最強の機甲竜である。
「ようし。ウィリアム、ジュトー、用意はいいな? 出撃するぞ!」
ガルバリオンの号令に、騎士たちは『了解!』の一声で応じた。
全機出撃。
《ヘングロイン》を先頭とした三十六機もの機竜が、次々と滑走路を駆け抜け、機首を持ち上げ、オレンジ色の排気炎を噴かせながら西の空へと飛び立った。
翻るマントル。蒼天を彩る幾つもの紋章。日の光を浴びたアダマント鋼の甲冑が、ガラス細工のようにキラキラと輝く。
出撃の角笛が高らかに鳴らされる。男たちの覚悟と決意が、空に細長い航跡を刻んでいる。吟遊詩人の歌さえ霞むような壮観な光景だ。
戦場はモンマス西部。
目標、ドラク・ナーシア率いる機甲竜騎士団。
蒼の外套を身に着けた『槍の騎士』たちは、招かれざる客人を歓待すべく颯爽と虚空を駆け抜けた。
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耳元を吹き抜ける風音が妙に大きく聞こえる。
『どうやら旦那様も出撃したようですね』
「……父上、無事だといいんだが」
アルカーシャは鬱々とした気分のまま、ヘッドアップディスプレイに表示された平面位置表示機をじっと睨んでいた。
今、彼女たちがいるのは高度15000フィートの上空だ。
アルカーシャは父の言いつけ通り、一路ブリストルを目指していた。
傍らには母リアノンの駆る《ワイバーン》だけではなく、二機の護衛機もいる。アルカーシャはおもりなんて必要ないと言ったのだが、押し問答している暇もなく結局は押し切られてしまった。
『リアノン様、アルカーシャ様。そろそろ、モンマスから10マイルの位置です』
『ここまで来ればもう安全でしょう。《ワイバーン》の足では我らに追いつけません』
護衛二人の口調からはどこかほっとしたような気配を感じる。
機甲竜騎士団の運用している機竜は、アルカーシャたちの《ワイバーン》と同じだ。
十分な速度が出ている今、同型機に追いつかれることはほぼありえない。ひとまずは安全空域まで離脱した、と見ていいだろう。
「くそっ、歯がゆいな。私だって空で戦うための訓練はしてきたのに」
『アルカ、女の子が「くそ」なんて言葉を使ってはいけませんよ』
「……母上は冷静ですね。父上のことが心配ではないのですか?」
『心配です。だから、今は自分のできることに全力を尽くしているのです』
悟りきったような母の台詞に、アルカーシャはそれ以上なにも言えなくなってしまう。
アルカーシャとて父の、ガルバリオンの気持ちを理解できない訳ではない。
ただ、彼女は若かった。親心を知ったところで、それを受け入れられるかどうかはまた別の話だ。
思わず、行き場のない焦燥感がため息となって漏れる。アルカーシャは目を伏せると、再びディスプレイの端に表示されたスコープを見た。
「……ん? なんだこれ、レーダーに妙な反応が」
そして、彼女は異変に気付いた。
スコープの端をじりじりと移動している光点。
北西からこちらの編隊に向けて、猛烈な勢いで迫ってくる機体があるのだ。
その速度は一般的な機竜の二倍以上。地上の索敵装置が誤作動しているのでなければ、このスピードは恐らく――
『アルカ、これは骸装機です』
いつになく切羽詰まった母の声に、アルカーシャは息をのんだ。
「カーケス……って、父上の《ヘングロイン》と同じような?」
『ええ、機種は分かりませんが間違いないでしょう。私たちを追撃しに来たようですね』
「ふぅん。たった一機で四倍の相手に挑むなんていい度胸ですね」
『数の有利などなんの頼みにもなりませんよ。量産機で骸装機に挑むのであれば、せめて飛行中隊規模の戦力が必要です』
「そんなに?」とアルカーシャはつい聞き返してしまった。
普通、一個中隊は小隊三つから五つ。
すなわち、十二から二十機程度の機竜で構成される。
アルカーシャも骸装機の飛び抜けた性能は耳にしていた。が、彼女には肝心の交戦経験がなかった。
そもそも、アルカーシャが今まで相手取っていたのは、モンマス近郊に出没する飛竜やグリフォンなどの空飛ぶ魔獣だ。対人戦の経験は模擬戦レベルに留まっている。
「どちらにしろ、このままでは追いつかれます。反転して敵機を迎え撃ちましょう。逃げられないのなら戦うまでです」
『いえ、それは……』
アルカーシャの言葉に、リアノンはためらうような気配を見せる。
と、そこで二人の左右に控えていた二機の《ワイバーン》が、編隊を解いて後方へと引き下がった。
『リアノン様、アルカーシャ様、ここは我々が殿を務めます。お二人は速くブリストルに!』
「え、おい!? 無茶だ! たった二機で挑むなんて!」
『無茶は承知です! しかし、ここでお二人を失ってしまえば殿下に合わせる顔がありません!』
『どうかお早く! 我ら、命に代えても奴を足止めしてみせます!』
勇ましい誓いの言葉と共に、二人は転進して迫る敵機へと挑みかかっていった。
――その直後。
分厚い雲を抉り、極細の閃光が空を引き裂いた。
それはアフターバーナーを噴かしつつあった《ワイバーン》の胴部を貫通すると、一瞬で鈍色の機体を光の華へと変えた。
敵の先制攻撃。針の穴を通すような精密狙撃である。僚機の爆発に煽られた護衛機は、体勢を崩しながらも咄嗟にシールドを構えた。
『なっ、超長距離射撃!? ま、まずい! これは――!』
動揺の声が漏れる前に、収束砲の三連射が彼の身を襲う。
一閃、アーマーの腕甲からシールドがもぎ取られる。
二閃、がら空きの胸部装甲がまるでバターのように溶かされる。
三閃、バイザーを嵌め込んだヘルムが燐光を散らしながら吹き飛ばされる。
頭部を失った護衛は、乗機ごと真っ逆さまになって墜落した。
アルカーシャは声を失った。ほんのまたたき一つの合間に、腕利きであるはずの護衛たちが瞬殺されてしまったのだ。
「そんな……あの閃光。まさか、ナーシア兄さんの《ラムレイ》!?」
『いえ、〝ファイアブレス〟にしては次弾発射までの速度が速過ぎます。それに、あれが《ラムレイ》の収束砲なら一撃で機体が蒸発しているはず』
淡々と告げるリアノンだが、その声にも焦りが滲んでいる。
敵機との距離はまだ1マイル以上離れているはずだ。
しかし、敵はこれだけのロングレンジを物ともせずに狙撃を成功させた。
機竜の性能だけではない。その搭乗者も相当な腕利きである。アルカーシャは背中にじっとりした汗が伝うのを感じた。
「母さん、あれは一体――」
尋ねかけたアルカーシャだが、その前にヘルム内に第三者の声が響いた。
『おっと、つい立ち向かってくるものだから落としてしまった。まさか、今のが叔母上とアルカーシャ……では、なかろうな?』
どこかおどけたような、芝居がかったような口調である。
途端、アルカーシャははっとなった。男の声に聞き覚えがあったのだ。
「その声、ヴェスター・ガーランドか!?」
『おお、ちゃんと生きていたか。久しぶりだな、アルカーシャ。こんな形で再会するとは実に、うむ、残念だ』
男は――ヴェスター・ガーランドはそう言って、こちらを小馬鹿にしたように笑った。
ヴェスターはガーランド家当主ウィリアムの甥。
つまり、今回謀叛を起こしたモーディア・ガーランドの息子だ。
血縁的にはアルカーシャの従兄弟に当たる彼だが、その所属はナーシアと同じ機甲竜騎士団だった。
今のポストはボルテクス中隊――通称、『蒼い旋風』とも呼ばれる精鋭部隊の隊長だったはずだ。斧の反乱の際、総大将を務めたガルバリオンに竜騎士団の半数を率いて同行したのもこの男である。
「ヴェスター! 貴様も父上を裏切ったのか!」
『裏切る? おかしなことを言わないでくれないかね。私は最初から王国側の立場でこの戦いに臨んでいるつもりだが』
アルカーシャの糾弾に、ヴェスターはわざとらしい困惑の吐息を漏らした。
『しかし、父上もなかなかの策士だよ。ガルバリオンがこうして、妻子を南へ逃すことまで読み切るとはな』
「なんだと? まさか、お前たちは最初から共謀して――」
『それがどうしたというのかね。作戦を立てる時は常に二手、三手先のことまで考慮に入れるものだ。お前たちは我々の手のひらの上で踊っていただけに過ぎん』
「ヴェスター……貴様ぁ!」
アルカーシャは激昂の叫び声を上げると、急旋回して迫る敵機に向かっていった。
『アルカ、待ちなさい!』
「待ちません! どのみち逃げられないなら、ここで返り討ちにしてやる!」
母の制止を振り切り、アルカーシャはハーネスを限界まで絞り上げた。
途端に加速する機体。全身を襲うG。苦々しい胆汁の味が口の中いっぱいに広がる。
反射的に乗機を走らせたアルカーシャだが、彼女もただ闇雲に突撃している訳ではなかった。
アルカーシャの脳内にはきちんと氷室のように冷静な部分があって、それが独自に機械的な計算を働かせていたのだ。
(あいつの機竜は――)
極めて攻撃範囲が広い。なにしろ1マイル先の標的を射貫くほどだ。
だが、ここまで十分な時間的猶予があったにも関わらず、ヴェスターは自分とリアノンを攻撃してこなかった。
その判断をアルカーシャは慢心と思わない。恐らく、あの男は自分たちを生け捕りにするように命じられているのだ。
奴は本気を出せない。ならば、例え相手が骸装機だろうとやりようがあるはず。
アルカーシャは一度、深呼吸をした。
機甲竜騎士同士の戦いにおいて重要なのは、闘志を燃やしつつも思考は冷たく保つこと。
父、ガルバリオンから教わった空戦の鉄則である。彼女はそれを忠実に実行していた。
『勇ましいことだ! 流石に戦姫と呼ばれるだけはある! しかし、そんな量産型でこの《ハイフライヤー》と張り合う気かね!?』
「やってみなければ……!」
アルカーシャは正面を睨み据えたまま、ガンランスのトリガーに指をかけた。
ヘルム越しの視界には、既に敵機の影がおぼろげに見えつつある。
追って、ディスプレイに表示されたターゲットボックスがその姿を捉えた。
バイザーの補正が自動的に映像を拡大。しかし、機体のディテールまでは判別できない。分かるのはせいぜいカラーリングだけだ。
ヴェスターの乗機は空に溶けこむような色をした、青白い骸装機だった。まるで溺死体のようだとアルカーシャは思う。
(――彼我の戦力差を確認しよう)
自身の記憶が確かなら、ガーランド家の保有する《ハイフライヤー》は射撃特化型の機竜だったはず。
武装は右腕甲に装備した収束魔導砲と、左腕甲に構えたシールド内蔵式機関砲。《ラムレイ》と同じく、ランスの類は保有していない。
先ほど、護衛機を撃ち落としたのは右腕の収束砲だろう。貫通力が高く、速射性にも優れた強力な魔導兵装だ。直撃を食らえば、間違いなく操縦不能状態まで持っていかれてしまう。
一方、アルカーシャの《ワイバーン》は独自のカスタマイズが施されており、他の同型機よりかは優秀なポテンシャルを持つ。
が、所詮は量産型に色を付けた程度だ。竜の遺骸を生体素材として用いた骸装機とは、比べることさえおこがましい。
『くっ、こうなっては仕方ありません! アルカ、私も援護します!』
やや遅れて、リアノンの《ワイバーン》もアルカーシャに続いた。
編隊を組んだまま迫る二機の機竜を前に、しかし、ヴェスターは余裕の態度を崩さない。
『全く、ガルバリオンには敵わんね。男として尊敬するよ。こんなじゃじゃ馬を二頭も飼いならしているのだから!』
「貴様、父上の悪口をっ!」
『それがどうした! 理解が足りんようだな、小娘! モンマス公はもはや反逆者なのだよ!』
「ふざけるな! 一方的に攻め込んでおいて、言うべき台詞がそれか!」
『分からんか。分からんらしいな。よろしい、ならば教育してやろう! 正義という言葉の意味を……その身で味わうがいい!』
瞬間、ヴェスターの操る《ハイフライヤー》は、青い排気炎を噴かせてアルカーシャへと肉薄してきた。
敵機との相対距離を示す数値が一瞬でゼロに近付く。
数秒前まで小さな点に過ぎなかった機影が、たちまち視界一杯に広がる。
アルカーシャは慌ててガンランスのトリガーを引いたものの、やや反応が遅れた。
放たれた弾丸は敵機の真横をすり抜け、逆にヴェスターはすれ違いざま、左腕甲の機関砲で反撃してくる。側面から迫る星屑のようなきらめきに、アルカーシャははっと息を呑んだ。
「しまっ……」
『アルカ!』
そこで、視界の端を灰色の塊が横切った。
母リアノンが乗機ごとアルカーシャの眼前に身を挺したのだ。
突き出すように構えられたシールドの上で、小さな光芒が幾度も弾ける。
機関砲の一発一発に大した威力はない。それでも、さばききれなかった弾丸は《ワイバーン》のウィングに細かい穴を開けていた。雨だれの音にも似た爆発音が、通信機越しにアルカーシャの鼓膜を震わせる。
「母さん!」
『かすり傷です! ヴェスターはもう一度来ます! 決して、後ろを取られないように!』
「了解!」とアルカーシャは不安を押し殺しつつ叫んだ。
見れば、《ハイフライヤー》は急旋回してこちらの追尾可能領域に潜り込もうとしている。
ウィングの先端から延びる糸のような蒸気線跡。敵機は雲塊をぶち抜きながら、猛烈なスピードでこちらに接近しつつある。
『遅い! まるで亀の歩みだ! それで全力か、アルカーシャ!」
「なにを……!」
『見たまえ、この圧倒的加速力! 量産機には決して越えられぬ速度の壁を易々と飛び越えて行く! しかも、この《ハイフライヤー》は既に十分な空戦エネルギーを獲得している!』
「言いたいことはそれだけか!」
アルカーシャは手綱を胸元まで引き上げ、乗機を縦方向に転回させた。
インメルマンターンを敢行した《ワイバーン》は再び敵機と真っ向から対峙する。
そこで、アルカーシャはヴェスターが収束砲を構えるのを見た。こちらを見据える二連装の砲身に、全身が震え上がりそうになる。
(いや……奴は当ててこない!)
もはや冷静とは言い難い、博打同然の判断である。
しかし、彼女はその賭けに勝った。
収束砲から放たれた二条の閃光は、《ワイバーン》の右翼をかすめるだけに終わったのだ。
最初からヴェスターにアルカーシャを撃墜する意志はなかった。今のも単なる牽制射撃である。
『怯まんだと!? ええい、クソ度胸だけは一人前だな!』
「見誤ったな、ヴェスター! 貴様が誰から命令を受けているのかは知らないが――!」
アルカーシャは両ペダルを踏みしめ、機体の正面にランスを構えた。
ランスチャージの体勢。敵機の高度、方位、相対距離を確認。
震えそうになる切っ先を調整し、狙いが定まったところでぴしゃりと手綱を打つ。
アフターバーナー点火。全身にかかる圧力が倍増する。ノズルから炎を噴き出した《ワイバーン》は、一時的に敵機と同等の推力を絞り出した。
『来るか、売女め! だが、その程度の加速力で!』
対する《ハイフライヤー》は再び空中で高速水平旋回を行いつつあった。
ヴェスターの反応は機敏だ。攻撃を外したと見るなり、すかさずこちらから距離を取ろうとしている。
このままでは逃げられる――そう諦めかけた矢先、敵機の横っ腹に後方から飛来した弾丸が突き刺さった。たまらず、ヴェスターは飛行姿勢を崩す。
『なんだ、援護射撃!? リアノンか!?』
『アルカ、今の内に!』
「っ……了解!」
間髪入れず、アルカーシャは槍突撃を敢行した。
鈍色に輝くガンランスの穂先が、獰猛な一角獣のように敵機へと襲いかかる。
骸装機の装甲は極めて強固だ。なにしろ、魔導砲の直撃に耐えるほどである。
それでも、ランスチャージの直撃を食らえば墜落は免れない。この瞬間、アルカーシャはヴェスターに対して確かに優位に立っていた。
「これで!」
『舐めるな、小娘が!』
一方のヴェスターは素早く機体を立て直し、《ワイバーン》の突撃をかわそうとする。
が、アルカーシャの方がわずかに速い。彼女は突き出されたランスの尖端が、敵機の翼端を削り取るのを見た。
火花が散り、剥離した装甲が宙を舞う。直後、急接近した二機の機竜は弾かれるようにして距離を離した。
「当たった! でも……!」
後ろを振り返ったアルカーシャは思わず臍を噛んだ。
ヴェスターの《ハイフライヤー》は特に堪えた様子もなく飛行を続けている。
彼女の繰り出したランスは、紛れもなく敵機のウィングを捉えていた。
が、逆に言ってしまえばそれだけだ。頑強な装甲に阻まれ、致命傷を与えるには至らなかったのである。
(かすめただけ! なら、今のやり方でもう一度……!)
アルカーシャは意気込みを新たに、ガンランスを握り直す。
直後、ヘルム内にヴェスターの楽しそうな笑い声が響いた。
『くっ……ふふっ、猪突猛進だけが取り柄の小娘かと思えば、案外ものを考えている。謝罪しよう。私は君のことを過小評価していたらしい!』
「黙れ、ヴェスター! 父上を裏切ったこと、後悔させてやる!」
『後悔するのは貴様の方だよ! 私が新王から受けた命令はガルバリオンの妻子を「可能な限り」生きて捕えることだ! もし、それが不可能ならば……!』
言って、ヴェスターは再びライフルを構えた。
来るか、とアルカーシャは内心で呟く。
先ほどの一撃は機甲竜騎士団のエース、ヴェスター・ガーランドのプライドに火をつけてしまったらしい。
アルカーシャは敵機の纏う雰囲気が一変したのを悟った。《ハイフライヤー》から放たれる強烈な殺気が、アーマー越しに彼女の柔肌をチリチリと焦がす。
『遊んでやるぞ、アルカーシャ! 今度は本気でな!』
「火遊びをするなら一人でやれ!」
アルカーシャは魔導砲のトリガーを引いた。
閃光と衝撃。立て続けに放たれた砲弾が、側面から回り込もうとする敵機を急襲する。
が、ヴェスターは迫る弾雨を強引に突破した。避けきれなかった光条が装甲の上で炸裂するも、蒼白の鱗には傷一つつかない。
思わず、アルカーシャは舌打ちしてしまう。あの竜鱗装甲を貫くのに、《ワイバーン》の武装では火力不足なのだ。
「ちっ、なんて硬さ!」
『だろう! 重装甲に大火力、そして、高機動力というのがこの《ハイフライヤー》のウリさ! つまりは正真正銘、エースパイロットのための機体! 護衛がいなければなにもできんような射撃機とは違うのだよ!』
ヴェスターはお返しとばかりに収束砲を三連射した。
平行配置された銃身がポンプのように前後し、絞り込まれた白炎を発射する。
視界の端で光が瞬くと同時に、アルカーシャは回避行動に移った。機体を急旋回と同時に降下させ、敵の攻撃をかわそうとする。
スパイラルダイブと呼ばれる防御機動だ。しかし、ここでもスペックの差が出た。ヴェスターの《ハイフライヤー》は、運動性の面でもこちらを凌駕しているのだ。
(ダメだ。振り切れない……!)
アルカーシャは歯噛みすると、すぐにシールドを構えた。
直後、棍棒で殴られたような衝撃が彼女の全身を襲った。
熱線の一発目は機体をかすめるだけに留まったものの、二発目が盾に直撃。
白光が重層アダマント鋼のシールドを粉砕し、更に三発目がアーマーの左腕甲を根本から引きちぎった。
たまらず、アルカーシャは乗機ごと吹き飛ばされる。回転する視界の中、甲冑を固定するワイヤーがギシギシと軋んだ。
「ぐうっ……!」
『ヒット! ヒット! しかし、一発は外したか。しぶとく生き延びているようで嬉しいぞ!』
歓喜の声を上げながら、ヴェスターは更に機関砲を《ワイバーン》へと叩き込んだ。
《ハイフライヤー》が装備しているシールド内蔵式機関砲は、口径の小さな低火力の魔導兵装である。
が、至近距離での被弾は《ワイバーン》のウィングを、穴開きチーズの如くズタズタにしてしまった。
途端、揚力を失った機体ががくりと沈み込む。アルカーシャはたまらず悲鳴をこぼした。
「う、あああっ!」
『おっと、これ以上は墜落してしまうか。ふむ、搭乗者を殺さずに敵機を撃墜するのは難しいな。卵の中から黄身だけを取り出すようなものだ』
ヴェスターはギリギリのタイミングを見計らい、攻撃を停止した。
寒々しい浮遊感の中。やはり、この男は自分たちを生け捕りにするつもりなのか、とアルカーシャは思った。
ただ、それが分かったところでもはやどうしようもない。彼女の《ワイバーン》は大破し、かろうじて空を飛んでいるだけの状態である。戦闘続行は不可能。後は調理されるのを待つばかりの存在だ。
しかし、この空域にはもう一機だけ友軍機がいた。
アルカーシャの母リアノンだ。彼女は娘の危機を前に、槍を構えて《ハイフライヤー》へと突撃を仕掛けた。
『ヴェスター・ガーランド!』
『ん、次は親鳥が来たか。しかし、今更――!』
ヴェスターは鞍上で体をひねり、これを迎撃する。
元々、リアノンの《ワイバーン》は先ほどアルカーシャを庇ったことで機動力が低下していた。
そこに強烈な収束砲による連射が襲いかかる。火を噴く砲口。ヴェスターの狙撃は、アーマーの両腕甲を正確に吹き飛ばした。
『意気込みは買うさ、意気込みはぁ! だが、勘違いしているんじゃないかね!? 気合いだけで勝てるほど戦場は甘くないのだよ!』
『ぐっ……』
武器とシールドを失い、リアノンの《ワイバーン》はふらふらと失速した。
こうなってしまうと、空の王者である機甲竜騎士も案山子同然だ。アルカーシャは思わず眦を決した。
「ヴェスター、よくも母さんを!」
『ふふん、小娘がわめきおる。で、お前たちになにができるというのだ?』
「こいつ……!」
『はははっ! 己の力もわきまえずに空へ出るからこうなるのさ! 圧倒的な性能差というものに絶望するがいい!』
哄笑と共に、ヴェスターは収束砲をアルカーシャへと向けた。
最後に、唯一残ったこちらの右腕甲を撃ち抜く気だろう。
武器とガントレットを失えば、彼女たちに抗うための手段はない。
いや、そもそも現状でさえ打つ手が皆無なのだ。ヴェスターにしてみれば、単なるダメ押しの一発に過ぎなかった。
(くそっ! このまま生け捕りにされるくらいなら、いっそ――!)
アルカーシャは悲壮な決意を固めた。
彼女がもっとも恐れるのは、自身の惰弱さが父の足を引っ張ってしまうことだ。それに比べれば、このまま地面に激突して死ぬことなどなんの恐怖も感じない。
……いや、流石にそれは嘘だ。
アルカーシャも死ぬのは怖い。
気丈に振る舞っていても彼女はまだ十七の小娘だ。
思わず、つんと鼻の奥が痛くなる。目から涙がこぼれそうになる。
だが、アルカーシャは決壊しそうになる涙腺を気力でねじ伏せた。
自分はモンマス公ガルバリオンの娘だ。死に際に無様は晒したくない。
『落ちろ、アルカーシャ! 木の葉のようにゆるりとな! 地上では黒近衛の連中がお前たちを待ちわびているぞ!』
「くっ……!」
ヴェスターのせせら笑う声。
構えられた収束砲に光が集まる。
アルカーシャは薄暗い砲口を睨みつけた。そうして手も足も出ない風を装いつつ、右ペダルに重心を移す。
彼女は敵機の攻撃と同時に、機体を横方向へスライドさせるつもりだった。
そうすればアダマント鋼を薄紙の如くぶち抜く熱線が、一瞬で自分の命を焼き尽くしてくれる。
(ごめんなさい、父上。先立つ不孝をお許し下さい……!)
ぐっと全身に力を込め、アルカーシャはその時を待った。
――だが、
結局、彼女が覚悟していた瞬間は訪れなかった。
ヴェスターの収束砲が発射されるより先に、その側面から飛来した弾丸が《ハイフライヤー》の胴部に突き刺さったのだ。
たまらず、敵機はぐらりと姿勢を崩した。一拍遅れて放たれた閃光は、まるで見当違いの方角へと飛んでいってしまう。
『ええい、今度はなんだ! 敵の増援か!?』
トドメの一撃を妨害され、苛立ちの声を漏らすヴェスター。
その鼻先を錆色の影が突っ切ったのは直後のことだ。
アルカーシャの目が捉えたのは、赤黒い装甲に身を包んだ一機の機甲竜騎士だった。
そのスピードは彗星のように速い。《ハイフライヤー》に匹敵するほどの加速力。骸装機だ、とアルカーシャは内心で呟いた。
『まさか援軍? でも、あんな機体……』
通信機越しに母の戸惑う声が聴こえる。
こちらを庇ったことから見るに、あれが味方なのは間違いない。
とはいえ、不可解だった。アルカーシャはあんな機甲竜に見覚えがなかった。
ただ、悠然と空を舞う姿からは強い意志と、信念を感じる。それは彼女の知っている男の雰囲気によく似ていた。
(……あれは)
アルカーシャはふと昔の記憶を思い出した。
自分がまだ幼い頃。魔獣の跋扈するデーナの森に迷い込んだところを、己の身も顧みず助けに来てくれた男がいたのだ。
錆色のマントを翻す背中。それはあの時、振り下ろされた黒妖犬の爪から彼女を守ってくれたものとよく似ていた。いや、全く同じだった。
――まさか。
思考が白く染まったまま停止する。
心臓が早鐘を打ち、かっと体中が熱くなる。
次いで、ヘルム内にどこか懐かしい声が響いた。
『久しぶりだな。助けに来たぞ、アルカーシャ』
途端、彼女はせっかく我慢したはずの涙が目尻からあふれ出るのを感じた。




