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ブリタニア竜騎譚  作者: 丸い石
三章:双竜戦争(前夜)
50/107

3-5

 ハンナと一連のやりとりをしたのが、丁度一ヶ月ほど前のことだ。

 そして、今。アウロは再び亜人街の孤児院の前に立っている。

 今日はシドカムを連れて来ていない。最悪、戦闘になる可能性もあるためだ。


 アウロの隣に控えたカムリは、眠そうな顔のまま口を開いた。


「今、孤児院の中にはハンナとリコット、がきんちょたち以外にも、ドワーフ族の男が一人。フードを被った若い男が一人いるはずだよ。この二人が孤児院に来たのは、確か一週間くらい前のことだったかな」

「分かった。二人だけ、ということはこちらと戦う気はないらしいな」

「でも、なんであの二人だけ残ってるのかよく分からないんだよね。連絡員は他にいるみたいだし」

「多分、特別な立場の人間なのだろう。生き残ったキャスパリーグ隊の幹部かもしれん」


 アウロは呟きながら孤児院の扉に手を伸ばした。

 兎にも角にも、まずはハンナに会ってみなければ始まらない。

 乾いたノックの音が室内に響くと、すぐに内側から扉が開いた。


「……こんにちは、アウロさん」


 扉の隙間から顔を出したのはいつものエプロンドレスを着たネコミミの少女だ。

 硬い表情で挨拶をしたハンナだが、顔色自体は悪くない。少なくとも、一ヶ月前に比べたら幾分かマシだ。


「すまない。予想以上に式典が長引いてこちらに来るのが遅れた」

「いいえ、構いません。隊での話し合いも少し前に決着したところですし」

「結論は?」

「出ました。――が、とりあえずは中へどうぞ」


 ハンナに勧められ、アウロは孤児院の中に足を踏み入れた。


 室内は相変わらず薄暗い。小さな採光窓から差し込む細い光が、板張りの床を照らしている。

 子供たちは寝室に押し込められているらしく、広間の奥からひそひそ話が聞こえた。リコットもあの扉の向こうだろう。


「ここで話をするつもりか?」

「いえ、下に行きます」


 ハンナは暖炉の元に歩み寄ると、火かき棒で中に入っていた薪をかき出した。

 積み上げられた薪の下から現れたのは鉄の蓋である。更に、その蓋の下には縄梯子のかかった縦穴があった。


「へぇ、前に来た時は気付かなかったね。こんなところに隠し扉があったなんて」

「私たちからの結論をお伝える前に、会って頂きたい方がいるんです。その方は今、地下室にいます」

「なるほど。名前を聞いても?」

「アウロさんもご存知の方です」


 ハンナはそう答えると、縄梯子を伝って地下へと降りて行った。

 肩をすくめたアウロはすぐにその後へと続く。カムリは一番最後だ。


 地下室の中はひんやりと涼しかった。

 なにか光源があるらしく、薄ぼんやりした明かりがレンガ造りの壁を照らしている。

 ロウソクではない。魔導式ランプの光だ。地下室に到着したアウロは、そこでざっと内部を見渡した。


「……こんなに広い空間が孤児院の地下にあったのか」


 地下室の広さは孤児院とその横にある庭を足したくらいか、それより一回り小さい程度だ。

 床の上にはいくつも四角い木箱が置かれ、その内の二つに矮躯の老人と、フード付きの外套を着た人物がそれぞれ座っている。

 少なくとも、ドワーフ族の男はアウロと面識がない。となると、『アウロの知っている人間』というのはもう一人の方だろう。


「お久しぶりです、アウロさん」


 薄闇の中、涼やかな声が響く。

 聞き覚えのある声だ。それも比較的最近、耳にしているはず。

 アウロは自らの記憶を遡り、そして、とある結論に辿り着いた。


(まさか……)


 思わず、尋ねる声に緊張の色が混じる。


「その声、シルヴィア・アクスフォードか?」

「はい。こうして顔を合わせるのは三ヶ月ぶりですね」


 そう言って、シルヴィアは頭に被っていたフードを取り払った。


 汚れたフードの下から現れたのは美しい少女の顔だ。

 滑らかな頬は埃で黒ずんでいるものの、その雰囲気は明らかに一般人とは違う。

 アクスフォード侯爵家の令嬢、シルヴィア。先日、処刑されたブレア・アクスフォードの縁戚としては唯一、行方不明となっていた少女だ。


「んん? そなた、見覚えがあるぞ。確か白い仔羊亭で会った目つきの悪い子だ」

「目つきが悪い、は余計です」


 困惑するカムリの前で、シルヴィアは三白眼をまたたかせた。


 変装のつもりなのか。シルヴィアが着ているのは男物の服だった。

 肩まであった亜麻色の髪もさっぱりと短くなっている。ボーイッシュな顔立ちと相まって、成人前の少年に見えなくもない。


「だがシルヴィア嬢、何故あなたがここに」

「別におかしなトリックを使った訳ではありませんよ。ドルゲラウからこの街に逃れてきただけのことです」

「……アルヴォンの【氷竜伯ブリザード】に匿われていたのではなかったのか?」

「当初はその予定でした。ただ、アルヴォンに向かう途中で黒近衛の奇襲を受けてしまったんです。私と護衛に付いて下さったハーマンさんは散り散りになって、それぞれ違うルートで逃走しました」

「だからといって、あえて南に逃げてくるとは――しかも、ドルゲラウからカムロートまでは半月近い距離があるはずだ」

「ええ、おかげで少し疲れてしまいましたね」


 シルヴィアは優雅に微笑んだ。


(口で言うのは簡単だが……)


 本来、蝶よ花よと育てられる貴族の令嬢に一人での長旅など不可能なはずだ。

 どうもこのシルヴィア嬢、見た目に反してかなりおてんばな性格らしい。

 アウロの知る限り、ここまでバイタリティに溢れる貴族の女は、ガルバリオンの娘であるアルカーシャ、その母であるリアノン、アーセナルの技師長ソフィアくらいだろう。案外多い。


「だが、どうしてこの場所に? いつキャスパリーグ隊と合流したんだ?」

「つい一週間ほど前のことですよ。ハンナがこの街にいるのは知っていましたから」

「ん? 二人は知り合いなの?」


 カムリの質問にシルヴィアは「ええ」と頷いた。


「元々、私もハンナも北部の出身で、しかも同い年ですからね。ダグラス・キャスパリーグが貴族の位を剥奪される前は、よく二人で一緒に遊んだものです」

「私としては外に連れ回されたり、着せ替え人形にされたりした記憶しかないんですが……」

「今となってはいい思い出じゃないですか。私もめでたく反逆者の娘です。これでまた一緒に遊べますね」

「そういう笑顔で笑えない冗談を言うところは変わりませんね、シルヴィ」


 と言いつつ、ハンナもうっすら笑みを浮かべている。


 今でこそ孤児院のお姉さん兼キャスパリーグ隊の暗殺者と化しているハンナだが、彼女も元はモーン辺境伯の娘だ。

 どうやら、その辺りでシルヴィアと繋がりがあったらしい。意外と言えば意外だった。


「さて、そろそろこちらも自己紹介をしておこうかの」


 そこで、木箱の上で足をぶらぶらさせていたドワーフ族の老人が地面へと降り立った。


「わしはゴゲリフ・ゴゴゴホ。キャスパリーグ隊の整備主任じゃ」

「変な名前だね」

「わしにとってはおぬしらの名前の方が変に聞えるんじゃがのう」


 ゴゲリフはそう言って、長い顎鬚をしごいた。


「ゴゲリフ……というと、《ブラックアニス》の開発者か。かつてアーセナルにも在籍していたという」

「ほう、よく知っておるの。その通り。ナーシアの阿呆坊主が嫌になって、工房を飛び出たクソジジイがこのわしじゃ。これでもダグラスとはモーンからの付き合いで、隊の幹部としても扱われておる」

「やはり、キャスパリーグ隊に加わっていたのか。他の幹部は?」

「ケットシー族の三人組は、養成所でお前さんらと戦って死んだ。サンバイルとランティは王城から帰ってきておらん。ダグラスは……言うに及ばずじゃな。モーンからの古参兵で生き残ったのはわしだけじゃよ」


 「そうか」とアウロは呟いた。


 結局のところ、キャスパリーグ隊は今回の戦乱によって隊長を失い、幹部も大半は死亡してしまったらしい。

 考えようによっては好都合だ。隊の構成員は、大海原に投げ出された小舟のように困り果てていることだろう。

 アウロはそこに救い主として手を差し伸べてやるだけでいい。


(……が、問題が一つある)


 アウロは再びシルヴィアへと視線をやった。


「シルヴィア嬢、一つ聞きたい。あなたがここにいるということは――」

「多分、アウロさんの予想通りです。私も一時的ですが、キャスパリーグ隊に加わる形となりました」

「やはりそういうことか」


 確認を取るように隣を一瞥するとハンナは無言で頷き返した。

 この件は現在、部隊を掌握しているはずの彼女も承服済みということだ。

 アウロは厄介なことになったな、と内心で呟いた。


【えーと、主殿。これ、どういうこと?】


 念話を使って尋ねてくるカムリに、アウロは答えた。


【ハンナはキャスパリーグ隊が欲しいのなら、シルヴィアも一緒に匿えと言っているんだ。よりにもよって、反乱を起こした首謀者の娘をな……】

【なにそれめんどい。大体、こっちにメリットがないじゃん】

【いや、そうとも限らない】


 アウロはしばし思考を巡らせた。


 既にブレア・アクスフォードは謀叛の咎で処刑されている。

 つまり現状、シルヴィアはアクスフォード家の血筋を引く唯一の人間だ。

 元々、アクスフォード家は四侯爵の一角である。戦いに敗れたとはいえ、未だにその影響力は馬鹿にならないはず。


(ならば――)


 シルヴィアというカードも使えなくはない。

 ただし、しくじった場合は己の首を締める縄となってしまうのだが。


「悪い顔をしていますね、アウロさん」

「……そいつは失敬」


 見透かすようなシルヴィアの台詞に、アウロは咳を一つこぼした。


「俺は聖人君子という訳ではないのでね。あなたを仲間に引き入れた場合のメリットとデメリットを考えていた」

「そうですか。ただ、デメリットに関してはさほど考える必要がないのでは?」

「何故だ?」

「どちらにしろ、反逆者の残党を引き取ったことが世間に知られれば、アウロさんは身の破滅です。今更、お荷物の一つや二つ増えても変わらないと思いますが」

「一理あるな」


 アウロは相槌を打ち、


「だが、シルヴィア嬢。あなたはそれでいいのか? 俺の領地は南の果てにあるイクティスだ。あなたの故郷であるドルゲラウや、アクスフォード家の残党がいるアルヴォンからは遠く離れることとなる」

「構いません。どのみち、あの辺りは黒近衛の部隊に見張られています。……アウロさんは彼らが宰相モグホースの私兵と化していることはご存知ですか?」

「知っている」

「なら、わざわざご説明する必要もないでしょう。あの方々は今、血眼になって私を探しているようなのです」

「だから、一人で。それもあえて南に逃げてきたのか?」

「そうです。私はまだ宰相に捕まる訳にはいきません。少なくとも、父の――アクスフォード家の名誉を回復するまでは」


 シルヴィアはおぼろげな光の中で、ハシバミ色の瞳をうっすら輝かせた。

 顔は笑顔である。しかし、アウロはその向こうに猛烈な怒りの色を見てとった。


(無理もない、か)


 なにしろ、今回の一件で侯爵は公王暗殺に加担した逆臣となってしまった。

 背後で糸を引いているのは、ほぼ間違いなく宰相モグホースだろう。

 シルヴィアにとっては父が取った決死の行動が、王国を蝕む諸悪の根源に利用されてしまった形である。心の中では復讐の炎が燃え上がっているに違いない。


「ね、主殿。どうするの?」


 こっそり尋ねてくるカムリの前で、アウロは「そうだな」と呟いた。


「シルヴィア嬢、あなたの身柄はこちらで匿ってもいい。が、その前にキャスパリーグ隊の現状について聞かせて貰おうか」

「分かりました」


 今度はシルヴィアに代わって、ハンナが一歩前へと進み出る。


「現在、部隊は私が隊長代理という形で纏まっています。今は五十名近いメンバーがラグネルの森の内部にあるアジトに潜伏している状態です」

「まだ、そんなに生き残りがいたのか。予想以上に多いな」

「半分以上は非戦闘員なんですけどね。ただ、それもゴゲリフさんのお弟子さんたちや、街で情報収集を行っていた諜報担当者たちですから、全くの役立たずではありません」

「ならば、戦闘員は二十名ほどか。あの、ベディクとかいう男は?」


 ベディクはダグラスに匹敵する戦闘力を持った男だ。

 部下にできればこれ以上の戦力はない。


 が、アウロの質問にハンナは目を伏せ、


「……ベディクさんは隊を離れると言って、どこかへ消えてしまいました。他にも、私の下で働くことはできないと去った人が幾名かいます」

「その連中に俺の名を伝えたか?」

「いいえ。現状、アウロさんのことを知っているのは私とゴゲリフさん、リコットだけです。隊のみんなの説得は、交渉が纏まってからでも遅くはないかと」

「分かった。反対する者がいれば俺も説得に加わろう」

「お願いします。アウロさんと父のやり取りについては、隊のみんなにも知ってもらいたいんです」


 ハンナはそう言って頭を下げた。


「後はシルヴィアのことを匿ってくれるのでしたら、キャスパリーグ隊はアウロさんの傘下に加わります」

「うむ……。現状はおぬしに頼るしかなさそうじゃからのう。他のみなも時間さえかければ納得するじゃろうて」


 ハンナとゴゲリフの台詞に、アウロは「いいだろう」と首肯した。


「ならば、現時点よりキャスパリーグ隊はギネヴィウス伯爵家の直轄部隊とし、シルヴィア・アクスフォードも当家の預かりとする」

「え……伯爵家? アウロさんは確か、イクティス男爵だったのでは?」

「この前、ケルノウン伯になったんだよ。今回の戦乱における第一功としてな」

「そ、そうだったんですか。いきなり男爵から伯爵に格上げなんて、聞いたことがありませんね」


 シルヴィアは愕然とした表情を浮かべていた。

 侯爵家の人間だった彼女には事の異常さがよく分かるのだろう。

 逆にハンナとゴゲリフは驚いてはいるものの、シルヴィアほど大層な反応ではない。


「伯爵、ということはハーマンさんと同じ爵位ですね」

「フーム、零細貴族のところに逃げ込む予定が狂ってしまったか。まさか、大貴族の直轄軍に組み入れられてしまうとは」

「ご、ゴゲリフさん、そういう発言は――」

「なぁに。わしとしちゃあ、主が裕福なのは大歓迎じゃぞ。なにしろ兵器の開発には金がかかるからのう」


 遠回しな催促にアウロは小さく息をつき、


「そう釘を差さずとも、きちんと開発資金は提供するよ。こちらとしても幾つか作って欲しいものがあるしな」

「ほう! それは結構!」

「とはいえ、まずは部隊の面々を説得するのが先決だ。ハンナ、すぐにラグネルの森に潜伏しているメンバーと合流しろ。それと、シルヴィア嬢を街の外に連れ出すことはできるか?」

「可能です。連絡員たちの使っている秘密の通路があります」

「ならば、ゴゲリフとシルヴィア嬢は森で待機だ。大勢でぞろぞろ動いても目立つだけだからな。後でこちらと合流して貰う形になるだろう」

「分かりました」


 シルヴィアは答えた後で、ほっと息をついた。


「それにしても、無事に話が纏まって良かったです。私が口を挟んだせいで、厄介なことになるかとも思いましたが……」

「もし、交渉が決裂したらどうするつもりだったんだ?」

「大人しく身を引く予定でした。自分のエゴで友人を不幸にするつもりはありません」

「そうか。とはいえ、俺の下で働くことが幸せに繋がるとは限らないが」

「大丈夫ですよ。これでも私は人を見る目がある方だと思っています。アウロさんは父のような失敗をすることはないでしょう」

「ありがたい評価だな。しかし、ハンナはともかく、あなた自身はどうなんだ?」


 「どういうことです?」と怪訝そうな表情を見せるシルヴィア。

 アウロは脳裏に友人の姿を思い浮かべながら尋ねた。


「シルヴィア嬢、何故ロゼのところに行かなかった? あいつなら喜んであなたのことを匿っただろうに」

「今更過ぎますよ、そんなの。私もロゼさんも、もう……」


 シルヴィアはなにか言いかけ、しかし、途中で耐え切れなくなったかのように口をつぐんでしまう。


 アウロが初めてシルヴィアと出会った時、彼女は従兄弟であるロゼと一緒に食事をしていた。

 その時の二人はそれこそ、夫婦と見紛うほど親密な間柄に見えたものだ。アクスフォード家とブラッドレイ家が道を違える以前の話である。

 しかし、斧の反乱によって彼らは敵味方に引き裂かれてしまった。もはや、二人が元のような関係に戻るのはできないのかもしれない。


「すまない。これはあなたの問題だ。俺が口出しすることでもなかったな」

「そう言っていただけると助かります。ただ、私にご協力できることがあればおっしゃってください。三食を食いつぶすだけの居候にはなりたくありませんので」

「分かった」


 アウロは頷いたものの、さほどシルヴィアの能力には期待していなかった。

 行動力はあっても所詮は貴族の娘。任せられる仕事などたかが知れているはずだ。


「では、ハンナ。隊員の説得が終わったらすぐにでもイクティスへ移りたい。準備にはどれくらい時間がかかりそうだ?」

「一週間もあれば十分かと」

「ならば、一週間後にカムロートを発つ。連絡は……そうだな。昼ごとにカムリを孤児院へやるから、なにか問題が起きたら伝えてくれ。それと、イクティスまでは半月近い道程になる。旅に必要なものがあれば――」


 アウロは懐に手を突っ込むと、銀貨の入った袋をハンナに投げ渡した。


「適当に買え。1000サートある。余らせなくていい」

「こんなに沢山!?」

「孤児院の子供たちを含めて五十人近いメンバーがいるんだ。一人頭、銀貨二十枚と考えれば多くないと思うがな」

「わ、分かりました。では、軍資金として頂きます」


 ハンナは恐る恐る、銀貨で膨らんだ袋を両手に抱えた。

 正直、今回の戦乱における恩賞とダグラスの賞金で、四十五万ものサート銀貨を手に入れたアウロにとってははした金だ。

 が、多くの人間にとって1000サートというのは大金である。ソリダス金貨換算で百枚。平民が悠に十年以上も暮らせる額だ。


「一応、釘を差しておくが誰かに怪しまれるような金の使い方をするなよ。なにか纏めて物を買うなら……そうだな、シドレー商会で買い物をするといい」

「シドカムさんのお家ですね」

「そうだ。ひょっとしたら、あいつも旅に同行するかもしれん」

「え、あの方が? ――了解です」

「とりあえず、こちらからは以上だな。他になにか要望はあるか?」


 ハンナは「そう、ですね」と呟き、


「では、ご主人様。私からも一つお願いをしてもいいでしょうか」

「ご主人様?」


 途端、むっとした表情を浮かべたのはカムリだ。


「それはダメだよ! ご主人様なんて呼び方、なんかえっちで良くないと思います!」

「……ええっと」

「ご主人様は堅苦しすぎだ。これまで通りの呼び方でいい」

「いえ、私はもうあなたの部下です。ここはきちんとけじめを付けておきませんと」


 ハンナはおとがいに手を当て、


「そうですね。主様というのはどうでしょうか?」

「うーん……まぁ、それならいいかな」


 とカムリのお許しも出たところで、ハンナは改めて居住まいを正した。


「では、主様。私から一つお願いがあります」

「なんだ?」

「私の率いる部隊に、『キャスパリーグ』の名に代わって新たな名称を授けて頂きたいのです」


 ハンナは真剣な顔で言った。


 常識的に考えれば、悪名高いキャスパリーグ隊の名をそのまま使うのは都合が悪い。

 おまけに隊長であったダグラスは死に、組織としてもかつての部隊とは様変わりしつつあるのだ。

 アウロはハンナの発言から、彼女なりの決意を感じ取った。


「分かった。だが、いいのか?」

「はい。ダグラス・キャスパリーグはもういません。この部隊も父の名から決別して、新しく生まれ変わる必要があるんです」

「そうか。ならば――」


 アウロはしばし考え、


山猫リンクスというのはどうだろう」

「いい名前だと思います」


 ハンナは微笑んだ。どこか吹っ切れたかのような表情だ。


「では、これより私たちは山猫部隊リンクスの名で行動します。主様、なんなりとご命令を」

「頼んだぞ、ハンナ。お前たちの働きには期待している」


 アウロは本心からそう告げた。




 こうして、ハンナらキャスパリーグ隊は山猫部隊(リンクス)と名を変え、アウロの配下に加わった。

 時に、聖暦八一〇年二月。後に王国を二分する『双竜戦争』が始まる、丁度半年前のことだった。

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