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王都カムロートには国中の書物を集めた、王立の大図書館が存在する。
一般人が利用する場合は王家の認可が必要であり、素性の不確かなものは中に入ることすらできない。
もっとも利用者が貴族の場合、基本的に出入りはフリーパスだ。
そのため、アウロは休日をこの図書館の中で過ごすことが多かった。
「カンブリアの赤き竜に関する文献ですと、この辺りが全てですね」
どさり、と音を立てて机上に羊皮紙の巻物が積み上げられる。
文献を運んできた中年の司書は大きく息をつくと、禿げかけの額に浮かぶ汗をシャツの袖で拭った。
「とはいえ、ほとんどは吟遊詩人の物語を書き取った叙事詩や伝説です。なにせアルトリウス王の時代にはまともな歴史書なんて残されていませんでしたから」
「そうか。すまない、感謝する」
アウロは礼を言って席につき、文献漁りへと取り掛かった。
アウロにはルシウスとの会話の中で一つ気にかかっている点があった。
言うまでもなくカンブリアの赤き竜を名乗り、彼の部屋に忍び込んできた少女の存在である。
しかもルシウスの話が確かなら、あの魔女は王城を突破し、王に向かって暴言まで吐き捨てているはずだ。
ただ今までアウロが見た伝記の中に、赤き竜が人に化けたという逸話はない。
だからこそ、念のため図書館の蔵書を当たってみようと思ったのだが――
「やはりないか」
幾つかの巻物に目を通したアウロは、午後三時の鐘が鳴ったところで手を止めた。
伝説における赤き竜はブルト人の守護者とされているものの、その姿は普通のドラゴンと同じだ。
知性を持っているような描写はあるが、人間に姿を変えたなどという記述は全く見当たらなかった。
(うーむ……)
しばし悩んだアウロは、とりあえず一度席を立った。
図書館に来てから半日近くが過ぎてしまっている。
朝食べた食事もすっかり消化され切った頃合いだ。
屋外に出たアウロはその足で、カムロートの大通りに広がる市場へと向かった。
休日ということも会って街には人が多く、様々な出店が軒を列ねている。
アウロはここで適当に午後の食事を済ませるつもりだった。
「……ん?」
と、そこで見知った人影が視界に映る。
真っ赤な髪を持ったそいつは出店の前を陣取って、じゅうじゅうと油を滴らせている羊肉をじっと見つめていた。
「おっちゃん、それ美味しそうだね」
「おう! 一昨日ばらした羊の肉だ。焼きたてだから旨いぞ!」
「ふーん、一個貰ってもいい?」
「おう! 銅貨二枚だ!」
「……ええと、それがお金持ってないんだけど」
「おう! じゃあ金を用意してから来るんだな!」
屋台の親父はにっこり笑って、骨付きの羊肉を焼く作業へと戻った。
一方、文無しらしい少女は口元から涎を垂らしたまま、ぐーっとお腹を鳴らしている。
憐れを誘うその後ろ姿に、アウロは声をかけた。
「おい、お前。こんなところでなにをしている」
「おっ……おおっ! その声はお兄ちゃん!」
誰がお兄ちゃんだ。
「ん? あんた、この子の兄貴か?」
「いや、そういう訳じゃ――」
「ところで羊肉買うかい? 今なら三本で五ファージンにしとくぜ」
「……頂こうか」
アウロは懐から財布を出すと、ファージン銅貨五枚を引き換えに骨付き肉を三本手に入れた。
たちまち、少女は紅玉のような瞳を輝かせてアウロを見つめた。
「お肉くれさい!」
「まともな言語を喋れ。とりあえず、一旦ここから移動するぞ」
「えー、わらわもうお腹が限界だよう。これ以上は一歩も動きたくないのに……」
「ぶつくさ言うな。お前と一緒にいるところを王宮の人間に見られるとまずいんだよ」
アウロは一方的にそう告げると、屋台の前から身を翻した。
慌てて少女もその後を追う。ワンピースの裾が風にぱたぱたとはためいた。
「で、お兄ちゃん。どこに行くの?」
「図書館だ。あそこの敷地内ならほとんど人の目に入らず食える。あとその『お兄ちゃん』というのはやめろ」
「でもわらわ、そなたの名前を聞いてないよ」
「アウロ・ギネヴィウスだ。そもそも、お前は名前も知らない人間の寝床に押しかけてきたのか?」
アウロは早足で歩きながら、ちらりと背後に振り返る。
が、少女は別の屋台の前で店頭に並べられたパンに釘付けとなっていた。
パンといっても、ただのパンではない。エールを溶かしたチーズをトーストに塗りつけ、バターとマスタードを加えた上、オーブンでこんがりと焼いたこの地方独特の食品だ。
「アウロ! アウロ! あれも欲しい!」
「ウェルシュ・ラビットか。店主、二つでいくらだ?」
「銅貨四! といいたいところだけど、可愛い彼女に免じて三ファージンでいいよ!」
「……感謝する」
アウロは複雑な気分になりつつも、代金を払ってウェルシュ・ラビットを購入した。
その後、アウロは少女を引き連れて再び図書館へと戻ってきた。
館の内部に入るためには許可証が必要だが、周りの敷地は一般にも解放されている。
とはいえその事実を知るものは少なく、結果的に図書館の近辺はある種の穴場となっていた。
「ここでいいか」
図書館の裏手に回ったアウロは右手に羊肉を、左手にウェルシュ・ラビットを持ったまま、芝生の上へと腰を降ろした。
少女もその隣にちょこんと膝をついて座る。真っ赤な瞳は湯気を立てている肉とパンを映していた。
「お肉……ごはん……お肉……ごはん……」
「お前にくれてやってもいい。だが、こっちにも色々と質問したいことがある」
「先にごはん!」
「……分かったよ。けど、後できちんと話を聞かせて貰うからな」
アウロはため息混じりにラムチョップ二本とパンを渡した。
受け取った少女はすぐさま羊肉にかぶりつき、更にはウェルシュ・ラビットをほとんど一口で呑み込んでしまう。
その豪快な食べっぷりにアウロはすっかり呆れ果ててしまった。
「お前、そこまで腹が減ってたのか?」
「もむ、にゃっへきのふからなひにもたへてなひ」
「食べてから喋れ」
「いぇあ」
それから少女はほんの数秒で羊肉とトーストを平らげてしまった。
口元は肉汁で汚れ、淡い色の唇にはトーストの欠片がくっついている。
しかもそれだけ食べたにも関わらず、少女はアウロの手元に残された肉とパンをじっと見つめていた。
「お肉……」
「やらないぞ。これは俺の分だ」
「え、ひどい。こんなにお腹を空かせてる女の子が目の前にいるっていうのに」
「たった今食べただろ。あれだけじゃ足りないってのか?」
「足りないよ! 元々、ドラゴンってのは大食らいなんだ。それにわらわはつい昨日産まれたばかりだし」
「は? お前なに言って――」
「隙あり!」
と、アウロが呆気に取られた瞬間を狙って、少女は右手に握られていた羊肉をかぷりと食いとってしまう。
アウロが気付いた時には、もう彼の手の中には白い骨だけしか残されていなかった。
「うーん、それにしてもこの国の羊肉はいつ食べても美味しい。ただ二百五十年前よりかは味が良くなってるかな? 品種改良でもしたの?」
「……お前、確か自分でカンブリアの赤き竜だと名乗っていたな。ということはまさか、アルトリウス王の時代から今日の今日まで生き続けているのか?」
「違うよ。わらわは二百五十年前に一度、死んでる」
「ならばここにいるお前はなんなんだ?」
「転生体」
一言だけ答え、少女はごろりと芝生の上に倒れ込んだ。
「ドラゴンの中には肉体が滅びても、魂だけで転生を果たす種がいるんだよ。永遠に生きる竜。神竜って言ってね。まぁ、厳密には記憶を受け継いだだけの、全く違う個体なんだけど」
「……なるほど、事情は分かった。お前は二百五十年前の戦争で死に、そしてつい昨日肉体を得て蘇ったというわけか」
「そーいうこと。思ったより理解するのが早いね」
「ドラゴンの生態については少し調べていたんだ。それにカンブリアの赤き竜はブルト人が危機に陥る度、地の底から蘇ると伝えられている」
「とはいえ」と、アウロは気持ちよさそうに日光浴している少女を見下ろした。
「今のところ、お前がカンブリアの赤き竜であるという証拠はない。そもそも、人に化けるドラゴンなんて聞いたこともないぞ」
「あー、それはそうかもしれないね。実際、この姿はわらわの本性じゃない。今のわらわは『人化の術』を使っているんだ」
「人化の術?」
「省エネ用さ。なにせ竜ってのは肉体を維持するだけで、ばかみたいな量の魔力を消費しちゃうからね」
「ならば敢えて人の姿を取っているだけで、いつでも竜に戻ることができると?」
「そゆこと。お望みとあれば本当の姿に戻ってもいいけど」
「よせ、ここは人目に付く。それに竜が魔女に化けているのか、魔女が竜に化けているのか、俺の目には分からん」
「むー、疑り深いねアウロくんは! だが王たる者、それくらいの用心深さはないといけないか!」
ぱたぱたと両足をばたつかせている少女を尻目に、アウロは手の中に残されたパンを齧った。
チーズを塗りつけられたトーストは少し冷めていたものの、かぶりつく度に兎の肉にも似た濃厚な味わいを提供してくれる。この食品がウェルシュ・ラビットの名で呼ばれている所以だ。
「……そもそも、お前は何故俺の前に現れた?」
「ん? そういえば言ってなかったな。わらわは王を探しているのさ」
と、そこで少女は芝生の上からひょいと身を起こした。
「昨日、カムロートの王城へ行って国王の顔を拝んできたけどね。ありゃあ、ひどいよ! 愚物の極み! あんなのに王冠をくれてやるなら、まだ玉座にう◯こ置いとくほうがマシだね!」
「いや、流石に人糞よりはまともだと思うが」
擁護しつつも、アウロはつい口の端に苦笑を浮かべてしまった。
現ログレス王国、公王ウォルテリスは好色かつ派手好きで知られている。
しかも性格が優柔不断で政治能力が低いため、貴族たちからは単なる都合のいい傀儡として扱われていた。
そうして地方領主の増長を招き、国内の治安を乱れさせた結果、民衆からつけられたあだ名が【暗愚王】だ。
そんな人物が自らの父親なのだからアウロとしてはもう笑うしかない。
「やはり昨日、王城の近衛兵をなぎ倒して王の間に踏み込んだ魔女というのはお前だったのか」
「そうだよ。しっかし、カムロートの騎士も軟弱になったものだね。わらわ一人に王の間まで踏み込まれてしまうなんて」
「この国の防備は機甲竜騎士に頼っている部分が大きいからな……。それよりお前、ルシウスにも会ったのだろう?」
「ルシウス? どの王子かな。髪が緋色のと、薔薇色のと、朱色のは見たけど」
「朱色の髪の男だ。線が細く、女のような顔をしている」
「ああ、あいつか。モノとしちゃあ悪くなかったよ。平和な時代ならいい王になったかもしれない」
「けどね」と竜の少女は眉を寄せ、
「わらわが目覚めたということは、近い将来この国が戦争に巻き込まれるってことでもあるんだ。今必要なのは戦に勝てる強い王なのさ」
「それがお前の探している王の姿か?」
「うん。って言っても、今の王族はほとんど期待はずれだったからね。一番マシなのがアウロだし」
「……なにか勘違いしているらしいが、俺はログレスの王族ではないぞ」
「そうなの? でも、アウロって愚王の息子なんでしょ?」
「息子といっても私生児だ。なにしろ俺の体には王紋がない」
「王紋――ああ、あの変な痣か。ふん、くだらない。この国はまだあんなものにこだわっているんだね」
呆れた様子で吐き捨てると、少女はその場から立ち上がった。
「まぁ、いいさ。わらわもまだ仕えるべき主を見定めてはいない。ただね、アウロ。そなたには王としての見込みがある」
「お前は俺の話を聞いていたか? 俺の体には王紋がない。だから王位継承権も持ってないんだよ」
「へぇ。ところで、アウロ」
「なんだ?」
「そなた、体のどこかに火傷の痕はないか? そう、幼い頃に負った火傷の痕は」
少女の言葉にアウロはしばし沈黙した。
確かに彼女の言う通り、アウロの右腕には大きな火傷の痕がある。
これは彼がまだ物心つく前、不幸な事故でつけられた傷跡だった。
「ある……が、それがどうした?」
「おいおい、分かりきった答えを聞くものではないよ」
少女はにやりと邪悪な笑みを浮かべ、
「どちらにせよ、王紋の有無など竜にとっては些細なことさ。アウロ、わらわはそなたを試したい。そなたが王の器に値するのかどうか」
「……他を当たれ。俺は王位なんかに興味はないぞ」
「まぁ、そう言わないでよ。これからなにか予定はあるの?」
「別にないが――」
「ならば、わらわについて来るといい。そなたの資質を見定めてやろう」
そう言って、少女はアウロの前から翻した。
真紅の髪をなびかせた影はやがて図書館を囲う塀の外へと出る。
残されたアウロは芝生に腰を落ちつけたまま、小休止を取っていた。
ぽかぽかと温かい陽光に照らされつつ、青い空を見上げて目を細める。
その後、数分が経過したところで少女はアウロの前へと戻ってきた。
羞恥のためだろう。細長い耳は真っ赤に染まっていた。
「こら、なにゆっくりしてるんだよ! ちゃんとついて来てってば! 胸を張って歩いてたわらわがバカみたいだろ!」
「……分かったよ」
アウロは気だるそうに芝生から立ち上がると、肩をいからせたまま歩く少女の背中を追いかけた。