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ブリタニア竜騎譚  作者: 丸い石
三章:双竜戦争(前夜)
48/107

3-3

 アウロはそれからしばらくの間、モグホースと話し込んだ。

 話の種となったのは主に母ステラのこと。それから城内における裏話、領地経営の秘訣、商売での失敗や成功――

 人生経験豊富な老人の話術は、他人を飽きさせなかった。普通の人間だったら、これだけで宰相に好印象を抱いてしまうだろう。


 が、アウロの中には、モグホースに対する策謀家としてのイメージがある。

 人のいい笑顔など上っ面だけだ。腹の中ではなにを考えているのか分からない。

 やがて、銀のテーブルに盛られた料理がすっかり冷め切るに至って、モグホースはようやく話を打ち切った。


「では、アウロ殿。なにか入り用になったら、是非とも我が商会を頼ってくれたまえ。君相手なら割引価格で提供させてもらおう」


 そんな商人らしい台詞を残して、モグホースはアウロの元を離れた。


 デュバンもその後を追い、ようやく周囲は静けさを取り戻す。

 壁際に寄りかかったソフィアは疲れきった顔で言った。


「あの、なんというか。すいません、アウロさん」

「謝る必要はない。だが、ソフィアもなかなか厄介な立場にいるな」

「……どうなんでしょうか。正直に言えば、兄さんが私を結婚させようとする気持ちもよく分かるんです。今のままでは、サミュエル家は兄さんの代で断絶してしまいますから」

「断絶? 何故だ?」


 アウロの質問に、ソフィアは一呼吸置いてから答えた。


「デュバン・サミュエルは最初から王国最高の魔術師だった訳ではありません。兄さんは幾つかの代償を支払った上で、膨大な魔力を手に入れたんです。その中には生殖能力の欠如も含まれています」

「つまり、【魔導伯ソーサラー】には子を成す力がないと」

「ええと……はい。まぁ、そういうことです」


 ソフィアはあいまいに頷きながらも、テーブルの上へと手を伸ばし、羊肉の腸詰めを口の中に放り込んだ。


「アウロ。貴様、随分宰相と仲良くなったらしいな」


 再び二人の横合いから声がかけられたのはその時だ。

 振り返ったアウロの前に立っていたのは、大陸風の薄上衣を着た、けばけばしい顔立ちの青年だった。


 機甲竜騎士団(ロイヤルエアナイツ)の団長、ドラク・ナーシアだ。

 今日も香水をつけているのか。きつい薔薇の芳香がこちらまで漂ってきている。

 ソフィアは幾度か目をしばたかせた後で、口の中のソーセージをごくりと嚥下した。


「あれ、ナーシア様?」

「ソフィアか。相変わらずガキ臭い格好をしているな」

「し、仕方ないじゃないですか。私の体格じゃ、大人っぽい服を着ても似合わないんですよ」


 むくれるソフィアだが、ナーシアはそんな彼女を石ころのように無視してアウロに向き直った。


「ところで、アウロ。貴様、モグホースとなにを話していた?」

「大したことではありません。領地経営の件に関して少しお話を伺っておりました」

「ふん、あの男め。早速、お前に唾をつけようとしたらしいな。価値のつり上がりそうな商品には先んじて投資する。いかにも商売人らしい抜け目の無さだ」


 ナーシアは広間の一角に佇む老人を見て、小さく舌打ちを漏らした。


「全く嫌になる。この体にあの男と同列の血が流れているとはな。それ以上に屈辱的なのは、あんな薄汚い商人が王宮を牛耳っているという事実だ」

「だ、駄目ですよ、ナーシア様。そんなこと言ってたら、他の人たちに聞こえちゃいます」

「それがどうした。私の宰相嫌いなど、とうに知られていることだ。大体、あの老いた豚のような外見が気に入らん。私の美的センスからするとあれは零点だな」

「手厳しいですね」


 アウロは吹き出しそうになるのをこらえて言った。


 ほんの一ヶ月ほど前まで、ナーシアの口調には明確な敵意が込められていた。

 しかし、カムロート上空で共に戦ってからというものの、この男の態度は以前に比べて格段に軟化している。

 それはアウロの側も同じだ。いつの間にか、ナーシアに対する苦手意識は綺麗にかき消えてしまっていた。


「ところで、アウロ」


 そこでふいにナーシアは真剣な表情を浮かべた。


「『斧の反乱』は終わった。これで王国内にも平和が戻るだろう。だが、お前はこれからどうするつもりだ?」

「ひとまずイクティスに戻ります。与えられた領地の管理をしなくては」

「その後は?」

「考えていません」


 「ならば」と褐色の瞳がアウロを見据え、


「アウロ、お前は自らの果たすべき仕事を終えた後、再び王都に戻ってくるがいい。その時はお前を機甲竜騎士団(ロイヤルエアナイツ)の幹部に推薦してやろう」

「ナーシア殿、それは――」

「今この場で結論を出す必要はない。時間はあるんだ。領地に戻ってじっくり考えろ」

「……分かりました」


 アウロはそう頷くしかなかった。


 正直に言えば、今のアウロは竜騎士団に所属する気など欠片もない。

 なにしろ、王城はもはやモグホースのお膝元だ。竜騎士団自体は未だナーシアの指揮下にあるものの、あの狡猾な老人はあれこれ手段を講じて自らの勢力を広げようとするだろう。


 アウロはそんな政争に巻き込まれることなど御免だった。


「そういえば、ナーシア様。さっきルシウス殿下ともお話ししてたようですけど、ひょっとして――」

「ああ……あれも元々、竜騎士団への入団を希望していたからな。その件で少し声をかけていたのだ」


 「ただ」とナーシアはしかめっ面で言葉を続け、


「今のルシウスは私と同じく王弟の立場にある。奴自身、自由に所属先を決めることはできんだろう。全く、王族というのも面倒なものだよ」


 ナーシアはそこで給仕の娘を呼び止めると、銀のテーブルから取り上げた酒杯にワインを注いだ。

 アウロはその横顔に、深い懊悩の色が滲んでいるのを見た。


 現在、王国内におけるナーシアの立場は極めて微妙だ。

 竜騎士団団長のポストを任せられているものの、彼自身は宰相派やガルバリオンの一派に所属していない。その上、武官であるナーシアに政治的な権力は皆無だ。

 だからこそ、今は少しでも有能な部下が欲しいのだろう。この男も自分なりに部隊を守ろうと必死なのだった。


「ナーシア殿、ルシウスの扱いはどうなりそうなのですか?」


 尋ねたアウロの前で、ナーシアはワインをあおり、

 一呼吸置いた後、再び口を開いた。


「ランドルフ侯爵を中心に、空席となった近衛騎士団団長の座をルシウスに任せようという話が出ている。が、宰相が黒近衛のベルンを推しているからな。これもまた厄介な問題だよ」

「ランドルフ侯爵、ですか」


 【盾の侯爵】ランドルフ家。

 現在の当主は確か、カーシェン・ランドルフという男だったはずだ。


 アウロは随分前に、ルシウスがランドルフ侯爵家の令嬢とお見合いしていたことを思い出した。

 どうやら、ランドルフ家はルシウスに接近するつもりらしい。他の王族がモグホースの傀儡であるマルゴンや偏屈な性格のナーシア、頭のいかれた戦闘狂であることを考えると妥当な選択である。


「今回の戦争で、アクスフォード家は消滅したが――」


 ナーシアは手に持った杯の中で、ゆっくりとワインを回し、


「四侯爵の残りの御三家は、全て宰相と対立する姿勢を打ち出している。ランドルフ家が欲しいのはルシウスではなく、王族という旗頭だろう」

「ってことは、ナーシア様のところにもそういうお誘いが来てるんですか?」

「来ていない。そもそも、私は王国に反旗を翻すつもりなどないしな」

「なら、ガーグラー殿下は……」


 続けて尋ねるソフィアに、ナーシアは言った。「あれは論外だ」


「賊を撃退した功で謹慎が解ける予定とはいえ、あの男の性格は以前となんら変わっていない。まともな人間なら兄上と組むはずがなかろう」

「えと、ガーグラー殿下ってどんな方なんです? 私、よく知らないんですけど」

「好意的に言えば少し頭のおかしな男だ。悪く言えば狂人だ」

「な、ナーシア様、それどっちも悪く言ってるような……」

「仕方あるまい。私の辞書には、あの男を褒めちぎる言葉が載っていないのだ」


 ナーシアはわざとらしい嘆息をこぼし、銀の杯をテーブルへと置く。


 その肩に、後ろからぽんと手が乗せられたのは直後のことだ。


「よう、クソ坊主。随分と景気のいい台詞をぶっ放してくれるじゃないか」


 その瞬間、アウロとナーシアは全身を硬直させた。


 ナーシアの背後には、白い薄上衣ブリオーを着た背の高い女が立っていた。

 瞳の色は濁った赤。端正な顔の左半分を、波打つ金髪が覆い隠している。

 朱を引かれた口元に浮かぶのは、氷のように冷たい笑みだ。

 美しいが、どこか猟奇的な印象を感じさせる女だった。


「あ、兄上……」


 ナーシアはぎぎぎ、と音が出そうな動きで振り返った。


 女は、正確には女ではなかった。

 かつらを被り、化粧で誤魔化しているが、元は男性のはずである。

 が、広間の中でこの事実に気づいているのはアウロとナーシアの二人だけだった。

 アウロは頬を引きつらせ、男の名を呼んだ。


「……ガーグラー殿、何故ここに」

「肉を食いにきたんだ」


 ドラク・ガーグラーは吹っ切れたような笑顔で告げると、片手に持っていた皿をどんとテーブルの上に置いた。


 銀の大皿に山と盛られているのは、羊肉とローズマリーの蜂蜜焼き、鶏肉とベーコンとリーキのプディング、ローストダックの林檎添え、ラムチョップ・ステーキなどなどの、ひどく肉々しいメニューだ。

 おまけに量が五人分以上ある。見ているだけで胃が持たれそうだった。


「久しぶりにこういう料理にありつけるのでな。ついはしゃいでしまった」


 いたずらっぽく笑うガーグラーの前で、ナーシアは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。


「お久しぶりです、兄上」

「どうした、ナーシア。便所でネズミとエンゲージしたような顔をしているぞ」

「兄上こそどうしたのですか。そんな格好で祝宴に顔を出すなど」

「仕方ないだろ。俺はまだ謹慎中ってことになってるんだ。好きで女装なんかしてる訳じゃない」

「好きでしていたら、ただでさえ薄い兄弟の縁をたたっ斬りたくなりますよ。一応聞きますが、我慢するという選択肢は?」

「ないね」


 ガーグラーは短く答えると、大皿に盛られた料理を次々と口の中に放り込み、ろくに咀嚼もせず嚥下してしまった。どこかのドラゴン少女を彷彿とさせる食いっぷりである。


「え、ええと、アウロさん、ひょっとしてこの美しい女性は……」


 そっと小声で耳打ちしてくるソフィアに、アウロは答えた。


「王弟ドラク・ガーグラー。女の格好をしているが、中身は勿論男だ」

「なんというか、色々想像と違いますね」


 ソフィアは困惑の声を漏らしつつも、スカートの裾をつまんで頭を下げた。


「お初お目にかかります、ガーグラー殿下。アベルテイビ伯爵デュバンの妹、ソフィア・サミュエルと申します」

「んっ?」


 ガーグラーは食事の手を止めると、視線を横に向けた。


「ソフィア・サミュエル、王立航空兵器工廠アーセナルの技師長か。小さいな」

「よく言われます」

「まぁ、気にすることはない。これから背も伸びるし胸も大きくなるだろう」

「……あの、ガーグラー殿下。私、アウロさんと同い年なんです」

「そうなのか。そいつは不憫だな。俺も兄弟たちと比べて背が低いから、その気持ちはよく分かる」


 ガーグラーは羊の腸詰めを、ぽんと口の中に放り込んだ。

 確かにガーグラーの背は長身のルシウスやナーシアはもとより、平均的な体格のアウロよりもやや低い。

 そもそも、この男は今年で二十九だ。にも関わらず、その外見はせいぜい十代後半にしか見えなかった。


 ――カムロートの王家には、ごく稀に忌子と呼ばれる存在が生まれる。


 忌子とはすなわち、真紅の『凶眼(ドルッグ・アビス)』を持った赤子のことだ。

 彼らは成長が遅い代わりに長寿で、人間離れした肉体を持っている。

 怪猫キャスパリーグの末裔であるダグラスとは同種の生き物だ。


 ただ、ガーグラーの体に顕れているのは魔獣ではなく竜の特性だった。

 この男の肉体はミスリルより硬く、生半可な武器や魔術では傷一つつかない。

 また、膂力や瞬発力も人間離れしている。言うなれば、人の形をしたドラゴンと同じだ。


「そういえば、アウロ。お前、あのダグラス・キャスパリーグを空戦で撃ち落としたそうだな」


 ガーグラーは鋭く尖った犬歯でラムチョップを噛み切り、


「どうだった、アレは。歯ごたえのある相手だったか?」

「はい。自分が勝てたのは紙一重の差でした」

「そういった台詞が吐けるのも勝者の特権だな。しかし、あの小僧が【モーンの怪猫】を倒すまでに育つとは驚いたぞ」


 赤く燃える隻眼がアウロの顔を見据えた。


 アウロがこの男と最後に顔を合わせたのは、今から五年以上前のことだ。

 横暴で知られるガーグラーだが、何故かアウロの母であるステラ・ギネヴィウスとは仲が良く、アウロら親子がイクティスの田舎町に移った後もなにかと理由を付けては遊びに来ていた。


 とはいえ、アウロ自身はガーグラーに対して全くいい思い出がない。

 稽古と称してボコボコに叩きのめされたり、狩りに行くと言って丸一日山の中を連れ回されたりと、面倒な親戚以外の何者でもなかったためだ。


「あの男に勝てたのも、ガーグラー殿に鍛えていただいたおかげですよ。ただ、前々から疑問に思っていたのですが、何故ガーグラー殿は母をよく訪ねていたのですか?」

「別に大した理由じゃないさ。それよりお前、これからどうするんだ?」

「というと?」

「まさか、このまま領地に大人しく引っ込んでいる訳ではなかろう。機甲竜騎士団(ロイヤルエアナイツ)に加わるつもりか? それならそれで構わん。だが、手っ取り早く出世したいのなら東方軍も悪くないぞ」

「東方軍……ですか」


 ログレス王国は東部の山岳地帯を境に、サクス人の支配する王国と対峙している。

 東部方面軍――通称、東方軍はこの異民族国家に対処するための軍団だ。毎日のように小競り合いを繰り返している分、練度が高く、保有する権限も大きい。


「そういえば、兄上は今年中に東方軍の司令官としてスランゴスレンに派遣されるそうですな」

「体のいい厄介払いだよ。マルゴンの陰険野郎はよほど俺を自分から遠ざけたいらしい」


 吐き捨てるガーグラーの前で、ナーシアは呆れたように言った。


「仮にも一国の王に対して、そのような口をきくから疎まれるのです」

「仕方なかろう。そういう性分なんだ」

「知っています。しかし、兄上も今の内に優秀な手駒を確保しておく狙いなのですか?」

「なんだ、ナーシア。お前もこいつを釣り上げようとしていたのか」

「先の戦争で、我が竜騎士団のメンバーにも欠員が出てしまったのですよ。私は団長としてその穴を補填する必要がある」

「相変わらず、ひねた言い回しが好きだね。欲しいものははっきり欲しいと言えばいいだろうに。だからその歳にもなって独り身なんだ」

「それを兄上に言われる筋合いはありません」


 ナーシアは手の中のワインを一息に飲み干し、


「ともかく、アウロはできれば竜騎士団の戦力として使いたい。せっかくの有能な機竜乗り(ドラグナー)を東方軍ごときにはやれませんな」

「おいおい、早い者勝ちってか? 手が足りないのは東も同じだ。団長殿はいささか強引でいらっしゃる」

「強引なのはそちらでしょう。わざわざ女装してまで宴会に出てきたのも、本当は人材確保が狙いだったのではないですか?」

「なにィ? ちょっと見ない間にでかい口を叩くようになったじゃないか、坊や」


 ガーグラーとナーシアの二人は、隣り合ったまま互いを睨んだ。

 この二人の仲はお世辞にも良いとは言えない。どちらもアクの強い性格なので、頻繁にぶつかり合ってしまうのだ。

 こそこそとアウロの隣に逃げてきたソフィアは小声でささやいた。


「モテモテですね、アウロさん!」

「男にもてても嬉しくないがな」


 アウロはひっそり嘆いた後で、ガーグラーに声をかけた。


「ええと、ガーグラー殿」

「うん? なんだ?」

「申し出はありがたいのですが、自分はしばらくの間、与えられた領地の管理に専念するつもりです。その後の身の振り方は、自分の置かれている状況に応じて変えることとなるでしょう」

「ほーん、回答保留ってことか。まぁ、いいさ。俺も今すぐ返事が欲しかった訳じゃないからな」


 ガーグラーは「ただ」と言葉を続け、


「今のうちに、一つ確かめたいことがあるんだ」

「確かめたいこと? なんですか?」

「こういうことさ」


 言って、ガーグラーは自らの顔の左半分を隠していた長髪をかき上げた。


 露わとなったのは、顎先からこめかみにかけて走る真っ赤な紋様だ。

 竜の頭部に似た形の痣。ドラク・ガーグラーの体に刻まれた『王紋』である。

 そして、丁度開かれた口の間に当たる位置には、縦長の瞳孔を宿した真紅の瞳が輝いていた。


「どうも、俺の目にはすてきな効果があるらしくてね。普通の人間がこのトカゲの瞳に見つめられると、まるで石みたいに動かなくなっちまう。小心者なら一発で気絶だ。しかし――」


 ガーグラーは幾度か瞬きを繰り返し、


「アウロ、お前はなんともないらしいな」

「そうですね」


 アウロは表面上は平静を装いつつも、内心で冷や汗をかいていた。


 アウロもガーグラーの瞳に宿る力については知っている。

 あの真紅の魔眼は見据えた相手に、強烈なプレッシャーを与えるのだ。

 今も背筋の産毛がちりちりと逆立つ感覚がある。胃がもたれ、動悸が激しくなっているのを感じる。


 ただ、逆に言えばその程度だ。

 昔から、アウロにはガーグラーの凶眼の効果がほとんどなかった。

 と言うよりも、あの瞳はガーグラーと同じ竜公家――すなわち、赤き竜の血を引く人間には効かないのだ。事実、アウロの向かいに佇むナーシアも平然としていた。


「兄上、その目は人前に晒さない方がいい。普通の人間には刺激が強すぎる」

「言われんでも分かってるよ。――おい、アウロ」

「なんです?」

「そこのお嬢ちゃんが起きたら、俺の代わりにこう言っといてくれ。悪かった、と」


 ガーグラーがそう告げるのと、ソフィアがぐらりと体勢を崩すのはほぼ同時だった。


 ガーグラーの向かいにいた彼女は凶眼の直撃を受けていたのだ。

 アウロは慌てて、倒れかけたソフィアの体を抱きとめた。

 触れた肌が異常に冷たい。ソフィアの顔からは完全に血の気が失せ、唇まで紫色に変わっていた。


「す、すみません、アウロさん」


 ソフィアはかすれた声で謝った。


「な、なんだかおかしいんです。急に気分が悪く……」

「それがあの瞳の効果だ。意識をしっかり保て」

「む、難しそうです。兄さん、兄さんに――」


 なにか言いかけたソフィアだが、結局は言い切る前にがくりと失神してしまう。

 アウロは片腕でその体を支えたまま、ガーグラーの顔を睨みつけた。


「ガーグラー殿」

「怒るなよ。まさか、本当に気絶するとは思わなかったんだ」

「相変わらず無思慮ですな。普通の人間にその瞳を使えば、どうなるかは分かっていたでしょうに」

「ふーん、普通の人間ねぇ」


 左目を閉じたガーグラーは、残った右目をアウロへと向けた。


 なにか物言いたげだが、それを口にしないのはこの場にナーシアがいるためだろう。

 アウロは気絶しているソフィアの体を抱え直すと、血の繋がった兄二人に小さく頭を下げた。


「すみません、自分は一度失礼します。デュバン殿にソフィアを預けてきますので」

「待て、アウロ。あの男はともかく、モグホースに事情を説明するとまたややこしいことになる。ソフィアは第七ハンガーの工房にでも放り込んでおけ」

「……分かりました」


 アウロはちらりと広間の中央を一瞥した。

 先ほどからデュバンは太鼓持ちよろしくモグホースの傍におり、こちらの様子に気付いている気配はない。

 確かに、ガーグラーの存在を話せばちょっとした騒ぎになってしまうだろう。アウロはソフィアを抱きかかえたまま、その場を後にしようとした。


「アウロ」


 その背に愉快そうな声がかけられたのは、直後のことだ。


「どうやらお前もレースに参加する権利があるらしい。いつまでも田舎町に引っ込んでいるなよ。戦争はまだ始まったばかりなのだから」

「………………」


 ガーグラーの挑発的な台詞には答えず、アウロは大広間を辞した。






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 王城を出たアウロは、ソフィアを抱きかかえたまま第七ハンガーへと向かった。


 カムリには別の用事を頼んでいるため、今この場所にはいない。

 アウロは顔見知りの技術者たちに挨拶をし、工房内に踏み込むと、仮眠用のベッドにソフィアの細い体を横たえた。

 それなりに時間が経ったためか、青白くなっていた顔色も徐々に血色を取り戻しつつある。放っておけばじきに目を覚ますだろう。


(さて――)


 外はまだ日が沈んでいない。

 一日の終わりまではかなりの時間がある。


 とはいえ、再び宴会に戻る気にもなれず、アウロは王城の中庭へと向かった。

 理由は単なる暇つぶし、というのが一つ。

 だが、もう一つはここであの男に会える気がしたからだ。


 果たして、夕日に照らされた花壇の前には二つの影が佇んでいた。

 一人は朱色のワンピースを着た紅髪の少女。もう一人は、赤金色の長髪を風に揺らした大男。

 アウロはその背に声をかけた。


「ガルバリオン」

「おう」


 ガルバリオンはこちらを向かずに答えた。


「え……アウロ?」


 逆に驚きの表情で振り返ったのはアルカーシャだ。

 紅色の瞳を瞬かせた少女は、アウロの元へと一歩詰め寄った。


「お前、どうしてここに? 大広間にいたんじゃないのか?」

「抜け出てきたんだ。アルカたちこそ、どうしてここに」

「私は父上についてきただけだよ」


 ちら、とアルカーシャは父親の背に視線を向けた。


 ガルバリオンは相変わらず、花壇の中で揺れる水仙をぼうっと眺めている。

 以前、アウロがこの場所でガルバリオンと出会った時、その隣には公王ウォルテリスの姿があった。

 しかし、今ウォルテリスはここにいない。あの男は死に、遺体は王家の石室墓へと埋葬されてしまっている。


「ガルバリオン、先王のことを思い出していたのですか?」

「まぁな。一応、実の兄弟だったんだ。色々と考えさせられることがあるのさ」


 ガルバリオンは深々と息をこぼすと、そこで初めてアウロに向き直った。

 その彫りの深い顔立ちは、いつもと同じ自信に満ち満ちている。

 ただ、身に纏っていた飄々とした雰囲気だけは消えていた。その立ち姿からはどこか影のようなものを感じる。


「それでも、今はおめでとうと言っておくか。まさかお前がケルノウン伯とはな。正直なところ、あのダグラスを倒すとは思っていなかったよ」

「偶然です。相手はナーシア殿との戦いで消耗していましたし」

「そんな理屈で勝てるほど、あれは甘い相手だったか?」


 アウロは即座に答えた。「いいえ」


「ダグラス・キャスパリーグは強かった。本物のエースドラグナーとは、ああいう男のことを言うのでしょう」

「ふふん、そういう台詞が出てくるってことは本当にダグラスの野郎を倒したらしいな。奴の死体が出てこないから少し疑っていたんだが……ああ、待て。ひょっとして、あいつの死体を焼いたのはお前か?」

「そうです」

「なるほど、強敵への敬意というやつか」


 満足そうに頷くガルバリオンの隣で、アルカーシャはアウロの顔を仰いだ。こちらは怪訝そうな表情である。


「死体を焼いた……? なぜだ。晒し者にしないためか? しかし、あの男は公王殺しの首謀者だろう」

「そうとも限らん。公王の死にはいくつか腑に落ちない点がある」

「キャスパリーグ隊が犯人ではないと?」

「それは分からない。ただ、彼らに陛下を殺す理由はなかったはずだ」

「でも、ちょっとした弾みって可能性も――」


 食い下がるアルカーシャにアウロは淡々と告げた。


「黒近衛のベルンの見立てでは、陛下は背後からの不意討ち、もしくは親しい相手に殺害されたそうだ。おまけに事件当時、王の寝室へと続く玉座の間にはガーグラーが陣取っていた」

「……ふぅん?」


 話を聞いていたガルバリオンは軽く首をかしげ、


「アウロ、お前は公王殺しの真犯人をガーグラーの奴と踏んでるのか?」

「容疑者の一人ではあります。でも、あの男が犯人というのもしっくり来ない。そもそも、公王の死によって一番の利益を得ているのは宰相モグホースだ」

「なんだ、分かっているじゃあないか。兄貴を殺したのはあいつだよ」

「何故、そんなにあっさりと断言できるんです」

「フーム、そうさな。一応、理由はあるんだが」


 ガルバリオンはしばしの間、両腕を組んだまま逡巡した。

 が、やがて自分の娘にちらりと視線をやり、


「おい、アルカ」

「なんです?」

「ちょっと外せ。アウロに話しておきたいことがある」


 途端、アルカーシャはむっとした表情を浮かべた。

 仲間はずれにするようなガルバリオンの台詞である。プライドの高い彼女には、ひどく癇に障ったはずだ。


「っ……分かりました! なら、部屋に戻っています!」


 アルカーシャは明確な反発こそしなかったものの、肩を怒らせながらその場を後にしてしまった。


「やれやれ、あの小娘め。リアノンと同じ怒り方をしやがる」

「ガルバリオン、話とはなんです?」

「んで、お前はせっかち過ぎだ。物事には順序ってもんがあるだろう?」


 ガルバリオンは苦笑一つこぼすと、懐から折り畳まれた紙片を取り出した。

 色の黄ばんでいない、質のいい羊皮紙だ。表面には赤い封蝋がしてあるが、印璽は押されていなかった。


「これは?」


 アウロは受け取った紙片をしげしげと眺めた。

 僅かに膨らみがある。中になにか入っているらしい。

 夕陽に透かして見えるのは細い毛糸玉のような代物だ。これは髪、だろうか。


「アウロ、任命式の日のことを覚えているか?」

「はい」

「あの日、兄貴から預かった手紙だよ。まぁ、遺書みたいなもんだ」

「遺書? 陛下は自分が死ぬことを予期していたのですか?」

「多分な。その手紙も自分が死んだらアウロに渡して欲しい、って頼まれていたものだ」

「……そうですか」


 アウロは神妙な面持ちで、ウォルテリスの遺書に視線を落とした。


「しかし、これを渡すだけならアルカーシャを追いやる必要はなかったのでは?」

「そうだな。だから、まぁ、こっからが本題だ」


 ガルバリオンは居住まいを正し、


「実はな、アウロ。俺はブレアの奴が投降した後、あいつが処刑される前に一対一サシで話したんだ。だから、奴の計画についてはほとんど全貌を把握している」

「ブレア・アクスフォードと? しかし、その話が真実とは限らないのでは?」

「ブレアは死に際に嘘をつくような、往生際の悪い男じゃあない。それにわざわざ嘘をつくメリットもない……」

「侯爵の計画というのは、どのような内容だったのです?」


 「多分、お前が予想している通りだよ」とガルバリオンは言った。


「俺の率いる王国軍を北におびき寄せ、その隙に王都を狙う。公王ウォルテリスを拉致し、モグホースを殺害。あわよくば兄貴の身柄を盾に、俺やマルゴンと交渉するつもりだったらしい」

「アクスフォード側としてはむしろ公王に死なれては困る、という訳ですね」

「その通りだ。方法は分からんが、モグホースの野郎が先手を打って兄貴を殺したのは間違いない」

「ガーグラーが犯人という可能性は?」

「ありえんね。あいつが本気で父親殺しをするつもりだったのなら、兄貴はもっと早くに死んでいるよ」


 それもそうか、とアウロは内心で頷いた。

 ガーグラーはアンプロジウスの塔に幽閉されたとはいえ、本人がその気になれば簡単に脱獄できた。

 それにもし、ガーグラーがウォルテリスの死をキャスパリーグ隊の仕業に偽装する気だったのなら、その動きを妨害する必要はなかったはずだ。公王を連れ去らせた後、纏めて葬ってしまえばいい。


「あとな、アウロ」


 そこでガルバリオンはうっすら口元に笑みを浮かべ、


「俺は来年のうちに『こと』を起こそうと思ってる」

「こと? あいまいな表現ですね。モグホースに闇討ちでもしかけるつもりですか?」

「いや、今の王家に反旗を翻す」


 その言葉にアウロはしばし沈黙した。


 不思議と驚きはなかった。

 アウロは知っていたのだ。ガルバリオンが今まで、王家に唯々諾々と従っていたのは実の兄の存在があったためだと。

 が、ウォルテリスは死んだ。【モンマスの獅子】を縛るものはもはやなにも存在しない。アウロは冷たい声で尋ねた。


「――反乱を起こすのか、ガルバリオン」

「そうだ。お前も気付いただろ? 今回の論功行賞じゃあ、王都にこもったままろくに手柄を上げていない貴族が莫大な恩賞を手にしている」

「宰相派の貴族たちですね。あまり騒ぎにはなっていませんが」

「モグホースが怖くて口に出せないだけさ。お前の出世ばかりに目が行っている連中も多いがね」


 「それに」とガルバリオンは夕焼け空を見上げ、


「これ以上、モグホースの野郎をのさばらせてはおけない。奴の操り人形になっているマルゴンも同じだ。このまま行けば、王国はモグホースの野郎に牛耳られちまう。武器を取って戦うなら今しかない」

「理屈は分かります。しかし、勝てるんですか?」

「さぁね。兵隊を集めるのはこれからさ。この国の貴族が臆病者チキンばかりだったら、俺はブレアの二の舞になる訳だが、さてどうなるか」


 ガルバリオンは愉快そうに笑いながら、手の平で顎を撫でた。

 アウロはその横顔を眺めながら、しばし考えにふける。


(もし、ガルバリオンが動くとしたら……)


 ガルバリオンと縁戚関係にあるガーランド家は、間違いなく共に蜂起するだろう。

 更に、この男は幾度も王国軍の総大将を務めている。他の貴族たちとの繋がりも深い。

 ひとたびガルバリオンが号令をかければ、王国の東部を中心に、『斧の反乱』を越える規模の戦火が燃え広がるはずだ。


「ん? お前、ひょっとしてどちらの側につくか迷っているのか?」


 黙り込むアウロを見てどう思ったのか。

 振り返ったガルバリオンは、ふいに真剣な顔になって言った。


「別に無理をする必要はない。自分で考えて好きな側につけばいい――なんて、甘いことは言わねぇよ。いいか、アウロ。絶対に俺の味方につけ。もし敵に回るというのなら、お前であろうと容赦はしない。分かったな?」

「……ああ」


 脅迫じみた台詞に、アウロは一度だけ頷いた。

 それを見たガルバリオンは、「よし」と呟いて花壇の前から身を翻した。


「それじゃあ、俺はそろそろ広間に戻るよ。へそを曲げたうちの姫さまをなだめなきゃならんしな」

「待ってくれ、ガルバリオン。一つだけ聞かせて欲しい」

「なんだ?」

「何故、この話を俺にだけ伝えたんだ。実の娘にさえ秘密にしたことを」

「ふふん、ろくに驚いてもいなかった癖によく言うぜ」


 足を止めたガルバリオンは再び口の端に笑みを浮かべ、


「これでもな、俺はお前が思っている以上にお前の実力を評価しているんだ。マルゴンよりも、ナーシアよりも、ルシウスよりも、お前の方が敵に回ると厄介な存在だと思っている」

「ガーグラーの名は挙げないんですね」

「当然だろ? そもそも、あの男は誰の味方にもならないよ。あいつはあいつで独自に動こうとしている。モグホースの奴は東方軍にガーグラーを派遣するつもりらしいが、それも……」


 ガルバリオンはなにか言いかけ、だが、その言葉を呑み込み、

 代わりに、正面からアウロの目を見据えて告げた。


「いいか、アウロ。もしお前がお前自身の目的のために戦うんだとしたら、最後に立ちはだかるのはあいつだ。ドラク・ガーグラーだ。よく覚えておけ」

「……? ガルバリオン、それはどういう意味です?」

「自分で考えろよ。もう一人前の男の子だろう?」


 最後に冗談めかした台詞を残して、ガルバリオンは花壇の前を後にした。


 残されたアウロはしばし、その場に突っ立ったまま今の会話の内容を吟味した。

 アクスフォード侯爵の計画に関して真新しいことはない。ただ、推測の裏付けが取れただけだ。

 重要なのはこれからのガルバリオンの動向である。あの男が動くと言った以上、間違いなく再び戦争が起きるはずだ。


「今度は王国を二分する戦い、か……」


 アウロはため息一つこぼして、手に持った遺書を懐へと仕舞いこんだ。

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