1-3
朝の目覚めは爽やかとは言いがたかった。
「む……」
長袖のシャツにズボンという格好で眠りについていたアウロは、妙な気だるさを感じながら瞼を開いた。
上半身を起こそうとするも、体が重くて動けない。腕になにか柔らかな膨らみが二つ、ぎゅっと押し付けられているのだ。
首を傾けてベッドの上を見れば、アウロの右腕を抱きまくらにする形で、一人の少女が寝息を立てていた。
「むにー……」
窓から差す朝の光がシーツの上に広がる赤髪を照らしている。
少女は幸せそうな顔で口元をもごもご動かし、自分の毛先を食んでいた。
ひょっとしたら、なにかものを食べる夢でも見ているのかもしれない。長く、尖った耳がぴくぴくと震えている。
(ええと)
アウロは低血圧だ。朝はあまり頭が働かない。
だが、目の前の現実が夢ではないということは理解できた。
加えて言うなら、今の状況を誰かに見られると非常にまずい。
「よし」
アウロは意を決すると、眠ったままの少女をベッドの下へと突き落とした。
たちまち少女は頭からタイルへと激突する。ごんっと嫌な音が室内に響いた。
「ふごっ!?」
悲鳴を上げた少女はしばし体を丸め、床の上をのたうち回っていた。
が、やがて目の端に涙を浮かべたまますっくと立ち上がり、
「い、いたいじゃないかっ! いきなりなにする――」
「騒ぐな、小娘」
アウロは素早くその口元を手で塞いだ。更に体の位置を入れ替え、少女の体をベッドの上へと押し倒す。
たちまち少女はまん丸の目を見開き、アウロの拘束を解こうと手足をばたつかせて抵抗した。
「むぐー!」
「安心しろ。別にお前を襲うつもりはない」
アウロが片手を離すと、少女はげほげほ咳き込んだ後で、涙目のまま彼を睨みつけた。
「ひどい!」
「質問に答えろ。どうしてお前はまたこの部屋にいるんだ? 昨日、廊下に叩き出したと思ったんだがな」
「えっ? それは勿論、外から入ってきたからだけど」
「……ドアには鍵が掛かっていたはずだ」
「関係ないよ。まさか、あんな錠前でわらわを止められるとでも思ったの?」
にやり、と少女は笑みを浮かべる。
直後、アウロの目の前でその細い体が空気の如くかき消えた。
厳密に言うと少女は消えたのではない。一瞬で他の場所へ移動したのだ。
(転移魔術、だと?)
そうアウロが理解した時には、少女の姿はデスクの上へと移っていた。
「お前……」
「騎士たる者が狼藉を働くものではないよ。おなごを寝台に押し倒すのであれば、それなりの手続きがあるだろう?」
美しい顔に妖しげな笑みを湛えたまま、少女は机上でぶらぶらと足を揺らした。
「貴様、何者だ?」
「ふん、忘れたのか? 昨日も言ったはずだよ? わらわはこの地の守り神。カンブリアの赤き――」
直後、「竜」と名乗る声と少女の腹の音が重なって響く。
きゅるるるると尻すぼみに消えていく音の中、少女はふいに真剣な表情で言った。
「……そういえば、わらわお腹すいたよ。昨日からなにも食べてないんだ」
「そうか」
「できれば焼いた羊の肉があると嬉しいんだけど」
「お前は魔女なんだろう? 食事の一つくらい作れないのか?」
「いや、無理だってそんなの。最も偉大な魔法使いでもね、パンとワインだけは作れないんだ。それは巫女の仕事だから」
言って、少女はぴょんとデスクの上から飛び降りた。
「仕方ない。わらわはちょっとご飯を探してくるよ。続きは今度にしよう」
「は? お前、まさかまた来る気じゃ――」
尋ねかけたアウロだが、その前に少女の体はふっと消えてしまう。
しんと静まり返った室内でアウロはぽつりと呟いた。
「……なんだったんだ、今のは」
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早朝。予定外の出来事で起きてしまったアウロは、結局そのまま制服に着替えて食堂へ向かうことにした。
この養成所では基本的に三食がきちんと保証されている。
おまけに飛行科に所属する訓練生は大半が貴族であるため、料理の質(味ではない)もいい。
アウロは銅製のプレートにパン二枚と羊のベーコン、目玉焼き、キッパー(ニシンの燻製)、サラダとビーンズ、葱のスープを乗せると、木のテーブルが並ぶテラスへと出た。
今日は休日だ。しかもまだ朝六時を少し過ぎた時間とあっては、朝食を取っている人間もあまりいない。
だが、アウロは朝日に照らされたテラスに見知った人影がいるのを発見した。
「おや、アウロじゃないか。今日は早いんだね」
「……ルシウス」
テーブルに腰かけ、優雅に紅茶を傾けているのは美しい赤髪の青年だ。
一瞬、身構えかけたアウロはそこでふと眉を寄せた。
「今日はいつもの三人がいないんだな」
「流石に四六時中一緒にいる訳じゃないさ。それに今日は僕も早起きだったしね」
ルシウスはくすくすと上品な笑みを浮かべた。
私生児のアウロと違い、真性の王族である彼が一人でいることは滅多にない。
アウロ自身、こうしてルシウスと一対一で話すのは久しぶりだった。
「アウロ、君も座ったらどうだい?」
「……ああ」
笑顔で誘われ、アウロはルシウスの対面へと腰を下ろした。
大人二人分の食事をプレートに盛っているアウロとは違い、ルシウスの前に置かれているのはサンドイッチと紅茶だけの簡単な朝食だった。
基本的にこの国の人間は朝と午後で二回の食事を取る。特に週末の場合は、アウロのように大量の朝食を口にするのが普通だ。
「随分と小食だな。あまり朝は食べないのか?」
「ん? いや、そういう訳でもないんだけどね。これから王城に行こうと思ってるんだ。だから、お腹一杯になるのは良くないかと思って」
「王城?」
「そうだよ。昨日、城に竜を名乗る魔女が来たって話は君も知ってるかい?」
「そういえば、シドカムがそんな話をしていたような気もするが――」
そこでアウロはふと、自分のベッドに潜り込んでいた少女のことを思い出した。
「ルシウス、その魔女の髪や瞳の色は分かるか?」
「ええと、髪と瞳の色は真紅。体は細くて、背は平均より少し低かった気がする。ああ、あと顔がエルフみたいに綺麗で耳も尖ってたかな」
「実際に見てきたような口振りだな」
「うん。実を言うと僕の前にも現れたんだ。まぁ、その時はすぐに逃げられちゃったんだけど」
特に気にした様子もなく笑いながら、ルシウスはキュウリを挟んだサンドイッチをかじった。
「ただ一応、このことは父上に報告しておこうと思ってね。なんでもその女の子、王城に詰めていた近衛兵を薙ぎ払った挙句、王の間に乗り込んで父上に『愚物』って言い放ったらしいんだよ」
「なに? 俺の聞いた話では城の門番を吹っ飛ばして逃亡した、ということだったが」
「そりゃあ、王家にも体面ってものがあるだろ? まさか王の近辺を護る近衛兵が、たった一人の魔女に全滅させられたなんて言えないじゃないか」
「……それはそうだが」
アウロはふと考える。
恐らくアウロと王城、ルシウスの前に現れた少女は同一人物だろう。
彼女自身はカンブリアの赤き竜を名乗っていたものの、それがどこまで本当かは分からない。
とはいえ、王城の近衛兵を薙ぎ倒すほどの戦闘力は脅威だ。もし少女が他国の刺客だったなら、国王を殺すことさえできたはずだった。
「ひょっとして、アウロの前にもその子が現れたのかい?」
ふいの質問に、アウロは半ば反射的に「いや」と答えていた。
「そういう訳じゃない。ただ噂話を聞いただけだ」
「その割には、随分とあの子の容姿を気にしてたじゃないか。大体、相手はログレスの王族を尋ねてるみたいだし――」
「ならば尚のこと、赤き竜の血を引いていない俺に用はないだろう」
「ん? ああ、そういえばそうだったな。すっかり忘れてたよ」
あっさり興味を失ったらしいルシウスは、サンドイッチの最後のひとかけを口の中へ放り込んだ。
「しかし、馬鹿らしい話だとは思わないか? 未だに痣のあるなしで王を決めているなんて」
「……ルシウス、それは嫌味か?」
「違うよ。ただそう聞こえたのなら謝る。すまない」
うっすら笑って、ルシウスは左手でティーカップを傾けた。
その甲には細長い竜の形をした痣――『王紋』が浮かび上がっていた。
基本的にログレス王族の直系筋は、体のどこかに王紋と呼ばれる痣が刻まれている。
これは赤き竜の血を引いていることの証であり、王家がログレス王国の正当な支配者であることを示していた。
逆に言えば、王紋を持たない人間は王の血筋ではないとされてしまう。
そして、アウロの体にはその王紋がなかった。
「まぁ、僕はアウロのことを血の繋がった兄弟だと思ってるけどね。なにしろ君の扱いは微妙だからな」
「王家の私生児。そういった位置付けをされていると思ったが」
「それがおかしいんだよ。なんだか曖昧過ぎると思わないか? しかも、私生児という事実が秘密にもされず公に知れ渡っているなんて」
「……なにが言いたい」
「いや、別に。ただ気になるってだけさ。分からないかな? 丁度、喉に魚の骨が引っかかってるような気分なんだ」
かちゃり、とティーカップがテーブルの上へと置かれる。
ルシウスは紅茶の残りを飲み干したところで席から立ち上がった。
「それじゃ、僕は準備があるから先に失礼させて貰う。アウロ、君もたまには王城へ顔を出したらどうだい?」
「結構だ。どうせ他の貴族に罵倒されるだけだからな」
「そうか」と肩をすくめて、ルシウスはテラスから消えた。
残されたアウロは一人ぼっちのまま、もそもそと朝食を平らげた。
とはいえ、食事の味などほとんど感じない。
彼の脳内には幾つかの思考が渦巻いていた。
(ドラク・ルシウス……)
ログレス王国、第八王子。【朱色の王子】と呼ばれている男。
養成所に入ったアウロが彼と顔を合わせたのが今から三年前のことだ。
それからというものの、ルシウスは事あるごとにアウロへちょっかいをかけてきた。
ただし、正面から喧嘩を吹っかけられたことはない。ルシウスは常に自分の手を汚すことなく、周囲の人間に相手を攻撃させていた。
内心、アウロはその手法に感服していた。
嫌がらせをしてくるのは他の兄弟たちと同様だが、彼の場合は決して自分の醜さを相手に見せないのだ。
その隙の無さ。底の知れなさはアウロにとって脅威だった。
「……面倒な男だ」
アウロは一言だけ呟くと、空になったプレートを手に席から立ち上がった。