2-19
「雨が強くなってきましたね」
音を立てて降り注ぐ豪雨を前に、ハンナはぽつりと呟いた。
彼女がいるのは木と獣の皮で作られた仮設テントの中だ。
外は暴風雨に見舞われており、先ほどから頭上の枝葉がひっきりなしにざわめいている。
しかし、森の中を通り抜ける風は穏やかだった。バケツをひっくり返したようなどしゃ降りも、大樹の傍にいればそれほどひどく感じない。
「カラム・ブラッドレイは仕事を果たしたようだ。ドルゲラウでの戦いも終わったらしい」
ダグラス・キャスパリーグは低い声で言って、片手に持っていた通信機を手放した。
円盤状のレシーバーから伸びるケーブルは、男の真横に佇む漆黒の騎士甲冑に繋がっていた。
明らかに空戦型と分かる、四本腕のアーマーだ。機体のベースは陸戦型の《グレムリン》と全く同じだが、その外観は全くの別物である。
鬼のような面貌をしたヘルム。肩から突き出たスパイク。
そして、プレートアーマーに近いデザインの前面装甲――
だが、なによりの違いはその大きさだ。通常の騎士甲冑と比べても、このアーマーは二回りほど大きい。
なにしろ、これはダグラス・キャスパリーグのために作られた、彼専用の戦装束なのだから。
「父さん。その、カラムさんは?」
遠慮がちに尋ねるハンナに、ダグラスは淡々と告げた。
「死んだよ。機甲竜騎士団団長のドラク・ナーシアと戦って、武人らしい最後を遂げたらしい」
「……そうですか」
「あまりしょげ返るな。あの小僧にとって、戦いの中で果てることはむしろ本望だったのかもしれん」
「まさか、父さんも同じような考えを?」
「カラムの気持ちはわかる。が、俺はまだ死ねない。生きてこの国の変革を見届けるのが俺の使命だからな」
ダグラスは濡れた大地に見つめたままぼそりと呟いた。
丁度そこで天幕の中に一人の男がやってくる。
ぼろのマントを身に纏い、右目を眼帯で覆ったエルフ族の男だ。
キャスパリーグ隊の副隊長サンバイルである。くすんだ金色の髪は雨でしっとり濡れていた。
「おはようございます、隊長。それとハンナのお嬢も」
「サンバイルさん? もう動いて大丈夫なんですか?」
「ええ、まぁ。とりあえず、体力は回復しました」
と言いつつも男の顔はまだ青い。本調子でないのは明らかだ。
「そういえば、隊長。ランティの様子はどうでした?」
「頭はいかれている。だが、戦力としては問題ない」
「まぁ、ここに残しておくこともできませんしね。……他の連中は?」
「もうランティと共に街の集合場所で待機しているはずだ。お前とハンナ、それとベディクには今から合流してもらうことになるが――」
「分かりました。この雨の中を街まで戻らなきゃならないってのは、ちょっとばかし憂鬱ですがね」
サンバイルはちらりと外の様子を伺った。
冬の嵐はますます激しさを増している。今夜は一晩中、雨が止まないだろう。
ハンナは身を切るような寒さに、一度だけぶるりと肩を震わせた。
「父さん、街の拠点にはどれだけの人がいるんですか?」
「こちらの全兵力だ。キャスパリーグ隊の同胞たちが百名強。アクスフォード側の騎士たちが二十三……そして、《グレムリンⅡ》も十機用意できている」
「《グレムリン》の強化改良版、でしたっけ。騎士甲冑のことはよく知らないんですけど」
「元々、《グレムリン》自体が五年以上前の機体だからな。そこに現行機の要素を取り込んだらしい。詳しいことはゴゲリフに聞いてくれ。出資者はブレアだが、機体を作ったのは奴だ」
ぶっきらぼうに言うダグラスの前で、サンバイルは長駆のアーマーを仰いだ。
「そういえば、この《スパンデュール》と例の機竜もゴゲリフ老が作ったんでしたっけ」
「《スパンデュール》はそうだ。が、アニスの方は元々、王立航空兵器工廠で作られた代物だ」
言って、ダグラスは背後へと振り返った。
大樹の傍に作られた仮設テントの真横には、同じく皮の天幕を被せられた一機の機竜が鎮座していた。
夜間戦闘攻撃機《ブラックアニス》――またの名を【メナイの死神】。
五年前に起きたモーンの乱において、二十機近い機甲竜騎士を撃墜したダグラスの相棒である。
キャスパリーグ隊は機竜を持っていないとされるがそれは誤りだ。
かつての反乱の際も、そして、今回の戦争においても、この《ブラックアニス》だけはダグラスたちと共にある。
養成所襲撃の際、王都から出た追撃部隊を始末したのもこの機体だ。
キャスパリーグ隊にとっては唯一にして最強の切り札だった。
「こいつは元々、竜の骸を素材として作られた機竜なんだ。ところが、製造途中で問題が起きて廃棄されてしまった。それを当時、工廠で働いていたゴゲリフの奴が極秘裏に引き取ったんだよ」
「竜の骸……。なら、この機体は《エクリプス》と同じ骸装機なんですか?」
尋ねるハンナに、ダグラスは「ああ」と短く言葉を返した。
「とはいえ、こいつに《エクリプス》ほどの速度はない。骸装機といっても炎嚢と飛行石が搭載されているだけで、その性能は最低レベルだ。だからこそ、工廠の技術者たちに見捨てられた訳だが」
「でも、隊長。そもそも骸装機ってのは、他の機竜より圧倒的に高い性能を持ってるんですよね」
「まぁな。しかし、量産機が骸装機に勝てぬ訳ではない。カラムを落としたのはドラク・ナーシアの駆る《ラムレイ》だが、その前に王国の新型が《エクリプス》の武装を破壊したそうだ」
「王国の新型? ってことは、《ワイバーン》の次世代機ですか?」
「いいや、養成所の訓練生たちが作った試作機だ。なんでもパイロットはあのアウロ・ギネヴィウスらしい」
その言葉にハンナはしばし沈黙した。
アウロは養成所の訓練生だ。だから、まだ空戦に参加することはないと思っていた。
しかし、現実には彼も機竜を駆り、あの《エクリプス》を倒すのに一役買ったという。
アウロ・ギネヴィウスは既に、一人の機竜乗りとして戦に加わっている。そうするだけの理由が、王都カムロートを守るという正義が、彼にはあるのだ。
「ハンナ」
ふいに呼びかけられ、ハンナはびくりと両のネコミミを揺らした。
「もし城内であの男と出会ったら、容赦なく叩きのめせ」
「……殺せ、とは言わないのですね」
「むやみに死人を増やすのは俺の趣味じゃない。それに生身の人間が相手なら、お前の力で大抵はどうにかなるはずだ」
「けれど、王城内にはアーマーも配備されているのでは?」
「その通りだ。だがな、警備を行っているのは近衛騎士団の連中だ。奴らの動きは既に封じている」
「どういうことです?」
首を傾げるハンナにダグラスは言った。
「王城に搬入される酒に薬を混ぜたんだ。といっても毒薬じゃない。せいぜい、夜の間ぐっすり眠って朝まで起きられなくなるだけだ」
「酒に薬、ですか? でも、近衛騎士団の兵士が今晩お酒を飲むとは限りませんよ?」
「飲むさ。今頃、連中は前線での勝利を知って、沸き立っている頃だろう。団長であるパルハノン・モンシリウスの性格を考えると、宴会の一つや二つ開いていてもおかしくない」
「……なるほど。そこまで見越しているんですね」
今回の計画は主に、ドルゲラウ候ブレア・アクスフォードを中心としたメンバーによって立案されていた。
そのため、末端であるハンナは全貌を知らない。今日、父の口から聞かされたのが初めてだ。
(でも、こんな作戦が今まで動いていたなんて……)
今日ここに至るまで、ダグラスたちの計画は幾つかの段階を経ている。
まずキャスパリーグ隊が王都で義賊としての活動を行い、民衆たちの支持と協力を得る。
次に養成所に襲撃をかけ、航空戦力を奪取。こちらの狙いが機竜を用いた王都攻略にあると王国側に錯覚させる。
更にはアクスフォード側からの宣戦布告。これによって、ガルバリオンを中心とした王国側の主力をカムロートから遠ざける。
以上が計画の第一段階。
あくまで仕込みの段階だ。
計画の第二段階としては、まず実際にカラム・ブラッドレイを中心とした航空部隊が王都に奇襲をかける。
そして、奇襲が失敗に終わった直後、前線にいるドルゲラウ候が王国側に降伏を申し入れるのだ。
これにより王国側を油断させる。後は街中に潜んでいる地上部隊の出番だ。
彼らが直接城内へ乗り込み、標的を抹殺するのである。
「そういや隊長」
そこでサンバイルは周囲を見回し、
「ベディク殿はどこに行ったんです? あの人もここに残ってるはずですが……」
「ここにいる」
質問に対する答えは彼の頭上から来た。
直後、大樹の枝葉がざわざわと音を立て、その間から黒い塊が落ちてきた。
降り注ぐ雨の中、ゆらりと立ち上がったのは丈の長いコートを着た隻腕の男だ。
水を吸った前髪が額に張り付き、まるで幽鬼のような外見になっている。サンバイルは思わず一歩後ずさってしまった。
「ベ、ベディク殿、そんなところで一体なにを?」
「祈りを捧げていたのだ。戦士たちの魂に。それは空に近いほどいい」
ベディクは濡れた全身を気にした様子もなく、天幕の中へと入ってきた。
片手には相変わらず古びた槍を抱えている。ハンナはこの男が武器を手放したところを、ほとんど見たことがなかった。
「我らの出立の時間が来たようだな。ダグラス、ここに残るのはお前だけか?」
「ああ。一応、万が一に備えてゴゲリフが残っているがな。他の連中はもう王都の中にいる。詳しい場所はサンバイルが知っているから教わってくれ」
「分かった。では、行こう」
あっさり頷き、再び天幕の外へ出て行こうとするベディク。
ダグラスはその背中を「待て」と呼び止めた。
「ベディクよ、最後に聞かせてくれないか?」
「なんだ?」
振り返った男にダグラスは尋ねた。
「お前は何故この戦に参加した? ブレアの奴はお前を、今のログレスを憂える戦士だと言っていた。しかし、俺にはお前がもっと、別の目的を持って動いているように思える」
「そうか。だが、それは見当違いだ」
「見当違い?」
「私は既に自らの目的を失っている。お前たちに協力するのは、在りし日の夢にすがりつくこの身の愚かさ故だ。私は美しき過去を穢されるのが許せない。だから今の政権を潰す。それだけの理由だ」
ベディクは珍しく長々と語った。
その言葉には、どこか自己嫌悪の色が滲んでいた。
男の独白はあいまいで、全くと言っていいほど掴み所がない。
しかし、ダグラスはそこに含まれているものを全て真実だと判断した。
この男にはこの男なりの戦う理由があるのだ。
互いに目的は違えど、その方向性は同じである。
「ベディク、お前とは引き分けのまま決着が付いていない。必ず生きて帰って来い」
「……ダグラスよ、そういう台詞はまず自分の娘に言ってやれ」
ベディクはやや呆れたような口調で言った。
ぐっと口ごもったダグラスは、色の異なる双眸で娘を見下ろし、
「ハンナ」
「はい」
「死ぬな」
その短い言葉にハンナは「はい」と力強く頷いた。
それから、ハンナはテーブルに置かれていたフード付きのマントを羽織ると、愛用の短剣を両の腰に差して雨の中へと出た。
同じくサンバイルも雨よけのマントを着込み、自らのワンドを持って天幕の外へと駆け出す。
最後にコートの襟を口元に寄せたベディクが、一人残ったダグラスへ告げた。
「武運を祈る、ダグラス・キャスパリーグ」
「ああ、三人ともまた会おう」
ダグラスは旅立つ戦友にうっすらと笑みを返す。
そうして、三つの影がラグネルの森を抜け、王都へと向かった。
戦士たちの背を追って稲妻が空を引き裂く。豪雨と暴風の中を雷音が木霊する。
日が沈み、冬の嵐はますます酷くなっている。だが、時刻はようやく午後六時を回った頃――
カムロートの夜はこれからだ。
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この日の彼はついていなかった。
まず一つ目の不幸は近衛騎士団の担当する警備の中で、最も辛いとされる第一城郭の見張りに配属されてしまったことだ。
カムロートの王城を取り巻く城郭は三つあり、それぞれ役割が異なる。
最外縁部に当たる第一城郭は、中枢区画と市街の境ともなっている重要な場所だ。
なにより賊が王城へ到達するためには、まずもってこの第一城郭を突破しなくてはならない。
そのため警備も厳重だ。警備担当者が城郭の出入口を、夜通し監視しているのである。
「クソッ。今頃、非番の連中は飲んで騒いで好き勝手やってるってのに……」
彼は悪態をつきつつ、城壁の上から夜の街を見下ろす。
彼にとっての二つ目の不幸は、この日のカムロートが激しい雷雨にさらされていたことだ。
先程から降り注ぐ雨粒が猛烈な勢いで顔を打っている。身に纏った皮のマントルも、気休め程度にしか役立っていない。
一方、近衛騎士団の宿舎では戦勝を祝って団長のパルハノン自ら宴会を開いていた。
兵士たちには温かいパンと羊肉が振る舞われ、酒庫からは上等なワインが顔をのぞかせている頃だろう。
にも関わらず、彼らは一晩中ここで目を光らせておかなくてはならない。任務とはいえ、愚痴の一つも言いたくなる。
「隊長、あっちは見てきましたよ。そろそろ下に戻りましょうや」
そこで雨に濡れた同僚が城壁の反対方向からやってくる。
「今日は詰め所でゆっくりしましょう。こんな日に巡回を続けるなんて馬鹿げてますぜ」
「ま、それもそうだな。なにしろこの暴風雨だ。我々も城壁の上から吹っ飛ばされかねん」
「竜騎士団のナーシア様は怒りそうですがね。この非常時に職務放棄とは何事だ、って」
「あの方はパルハノン様ほど物分かりが良くない。大体、賊が来たところでこの三重の城壁を抜くことはできんさ」
言って、男は背後を振り返った。
彼らの後ろには山麓にそびえ立つ城郭がまだ二つ残っている。
王城を取り囲む壁は、それぞれ内部にアダマントのプレートを埋め込んだ特別製だ。
おまけにそれが三つ。例え攻城兵器を持ってこようが、突破できるのはせいぜいこの第一城郭までだろう。
「よし、では下に戻るぞ。我らも少しばかり、勝利の美酒を堪能させて貰おう」
「ハッ! ご相伴させて頂きます!」
軽口を交わして、二人は突き出た塔から城壁の下へ降りようとした。
男の視界にきらりと光るものがよぎったのは直後のことだ。
だが、それがなにかを理解する前に、三つ目の――彼にとって最悪の不幸が二人の身を襲った。
彼の眼球が認識した物体は、大口径の対地砲から発射された魔導弾だった。
紅蓮の弾丸はそびえ立つ城壁を内部のプレートごと粉砕し、巡回していた警備兵たちを一瞬で蒸発させた。
雨の中、湿った大気を爆音が震わせ、夜の闇を閃光が切り裂く。
――それは戦の始まりを告げる合図だった。
遅れて、街中から泥のように染み出てきた黒い影が、破壊された城壁を乗り越えて進軍を開始する。
その数およそ百五十。ただし、軍勢の中には人の形をしたアーマーも含まれている。
彼らの目標は城壁の先。この国の中枢である王の居城だ。
こうして王都カムロートを巡る戦いが幕を開けようとしていた。




