2-1
暗く、月のない夜だった。
山岳の麓にある王都カムロートは、日が落ちると深い夕霧に包まれてしまう。
月の出ている晩ならばまだいい。だが、今日は闇夜だ。一寸先を伺うことさえ難しく、まるで街全体が雲の中に放り込まれたような有様となっている。
当然、ごく普通の市民はこの状況を歓迎しない。外を歩けば服が湿っぽくなるし、視界が悪いために他人とぶつける危険性もあるからだ。
しかし、中にはこの暗闇を好む者たちもいる。
そのほとんどは違法物の売人、奴隷商、呪術師など、あまりおおっぴらにはできない職種の人々だ。
また人目につかないのをいい事に強盗や殺人など、より暴力的な犯罪に走る者も多い。
霧の夜には多くの危険が潜んでいる。このカムロートに住む人間なら誰しもが心得ていることだ。
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「……クソッ! ジェラードの奴、ギネヴィウスの肩を持ちやがって!」
ひっそりと静まり返った路地に、荒々しい男の声がこだまする。
この日、街へと繰り出たジョンズ、ハンス、ケインの三人組はひとしきり酒をかっくらった後で、朦朧とした頭のまま亜人街へとやってきていた。
彼らはひどく苛立っていた。先日、アウロ・ギネヴィウスとの決闘の際に行った破壊工作がばれ、基地長から二週間の謹慎を食らっていたためだ。
しかも今日ようやくそれが解け、再び同輩たちと顔を合わせたわけだが、周囲の反応はおしなべて冷淡であった。
なにしろ、ジョンズたちには神聖な決闘を穢しただけでなく、亜人街で強姦紛いの所業を行った疑いまでかけられているのだ。
後者に関しては相手が亜人ということで有耶無耶になったものの、それが逆に黒い噂を助長してしまった節もある。
この騎士道精神に反する行為には僚友たちはおろか、あのルシウスまでもがあからさまに不快そうな表情を見せる始末だった。
「ふざけた話だぜ! 亜人なんざ犬畜生と同じだろうが!」
そう言って石壁を叩くのは、三人の中で最も気性の荒いジョンズである。
茶色い外套を羽織った彼の足元には、うつろな目のまま空を見つめているエルフ族の女性が倒れていた。
身に纏った服はところどころが破かれ、その下からは白い肌が露出している。
柔らかな頬は涙に濡れ、喉からこぼれる息は絶え絶えになっている。
――言うまでもなく、その姿は暴行を受けた直後のものだ。
やがて、彼女の上にのしかかっていた太り気味の男がズボンを引き上げ、
「おい、ケイン。代わるか?」
「……いや、いい」
壁際に立っていたケインは青い顔のまま小さく首を横に振った。
アウロからは十把一絡げに扱われていた三人組だが、勿論、個々の性格は微妙に異なっている。
傲慢で他人を見下す傾向の強いジョンズに、後先考えない快楽主義者のハンス。
この二人に比べるとケインはまだ良識を残している方だった。もっとも、それは吹けば飛ぶような代物でしかないのだが。
「……なぁ、ジョンズ」
ケインはそわそわと周囲を見回した。
「いい加減宿舎に戻ろうぜ。俺たちはまだ謹慎を解かれたばかりなんだ。いつまでもこうして外をうろうろしてるのはまずい」
「なんだ、ケイン。ビビってるのか?」
ジョンズはつり上げた口元からアルコール臭い息をこぼした。
が、血走ったその瞳は全く笑っていない。酒に溺れ、女を犯しても、自身の置かれた状況が変わるわけではないのだ。
「ふん、養成所のルールなんざクソ喰らえだ。大体、あそこの連中はどいつもこいつも物の道理が分かっちゃいない。薄汚いケルノウンの私生児や、開発科の穢れた家畜どもをのさばらせてるのがその証拠さ」
「いや……だが、流石に新型機やらデータバンクやらをぶっ壊したのはやり過ぎだったよ。あれで基地長やルシウス殿下もキレちまった」
「なんだと? 元はと言えば、お前らがあっさりゲロったのが悪いんだろうが。いくらジェラードの証言があろうが、こっちから自白してなければどうとでも誤魔化せたってのに――」
「おいおい、よせよ。今更どうこう言っても仕方ないだろ」
険悪になりかけた二人の間を、慌ててハンスが取り持つ。
「ま、ケインの気持ちは分かるぜ。はっきり言って今の俺たちの立場はまずい。俺だって弁償金のせいで親父から大目玉を食らったし、本来なら宿舎でおとなしくしてなきゃならないところだ」
「……おい、ハンス。酒場を出た後、亜人街に行こうなんて言い出したのはお前だろ」
「あの時はこう、なんだ。二週間の禁欲生活で色々溜まってたからな。出すもの出したら頭の中がスッキリしてきたんだよ」
ハンスは脂ぎった顔に悟りの表情を浮かべ、
「とりあえず宿舎に戻ろう。なにしろ今夜は霧が出てる。こういう日にはたいがい良くないことが起きるんだ」
「……ああ、そうだな」
ケインはちらりと打ち捨てられた女性に視線を落とした。
霧の夜は危険だ。こんな日に外を出歩いていてもろくなことにはならない。
それは、この憐れなエルフ族の女が身を持って証明していることだった。
――ヒュウゥゥゥゥ。
と、そこでふいに湿っぽい風が路地の中を吹き抜ける。
ハンスは身に纏っていた外套をつかみ、ぶるりと肩を震わせた。
「寒くなってきやがった。早くあったかいベッドで眠りたいぜ」
「ああ、ゆっくり眠るがいい」
声は、彼の背後から聞こえた。
直後、振り返ったハンスは霧の中に黒い人影が佇んでいるのを見た。
巨人である。成人男性の平均よりも頭二つ分ほど背丈が大きい。
しかも、その手には剣の形をしたシルエットが握られていた。
ひゅん、と。
空を切る刃の音が静寂の中に響く。
遅れて、ハンスの体は横向きに倒れた。
その頭部がごろりと首元から転げ落ち、石畳を真っ赤に濡らす。
たちまち辺り一面に濃厚な血の匂いが立ち込めた。
「ハン――ス?」
「な……貴様っ!!」
呆然とするケインに対し、ジョンズの反応は速かった。
彼は腰のブロードソードを引き抜くと、すかさず友人を斬殺した影めがけて切りかかったのだ。
しかし影は軽く腕を振っただけで、それこそまるで羽虫でも払うかのように、ジョンズの体を石壁へと叩きつけてしまった。
「ご……ふっ!?」
みしり、と男の肩が嫌な音を漏らす。
相手はただ手の平でジョンズをはたいただけに過ぎない。にも関わらず、彼の肩甲骨は壁にぶつかった衝撃で粉砕されていた。
次いで、その手から落ちた刀剣が石畳の上でカツーンと乾いた音を響かせる。
あまりの出来事に、ケインはへたりとその場に尻餅をついてしまった。
「あ――あ――」
「……ふん。王国の次代を担う養成所の騎士がこの有様か」
相手はジョンズたちの着ている茜色の制服を見て、落胆の息を漏らした。
暗く、野太い壮年の男の声だ。恐らく年齢は三十から四十程度だろう。
霧の中に浮かび上がった体格は、まるで岩塊のように筋骨隆々としている。
また、その頭部からは三角形の耳がピンと空に向かって伸ばされていた。
「きさ……ま。ケットシー族……か……」
口元から血の泡を吹きながら、ジョンズは影を睨みつけた。
「そうか……分かったぞ。貴様はあのキャスパリーグ隊……カムロートを荒らす盗賊の一派だな……」
「いかにも、俺は法に背いた人間だ。腐り果てたこの国を正す義賊だ」
「腐り果てた――だと? ハッ、おかしなことを! 貴様らはただ、己の置かれた現状が気に入らんだけだろうが!」
威勢よく吠えたてるジョンズだが、それも長くは続かなかった。
影はおもむろに壁際へと歩み寄ると、喘ぐジョンズめがけて剣を振り上げた。
刃が空を裂く。ピッと音を立て、石畳に赤い斑点が刻まれる。
途端にジョンズはかっと目を見開いた。
「ふぎ……ああああああ!?」
「豚のような悲鳴だな。聞くに耐えん」
影は感情の消え失せた声で呟いた。
遅れて、空中からぽたりと肉の塊が落ちてくる。
ジョンズは顔の中央を押さえたまま地面にうずくまった。
指の間から滴り落ちているのは、どろりとした鮮血だ。
「……ぐ、お、おのれぇ」
「頭を垂れ、許しを請え。そうすれば命だけは助けてやる」
赤く濡れた剣先が男の眉間へと向けられる。
文字通り鼻っ柱をへし折られ、ジョンズの顔は怒りと屈辱で青黒く染まっていた。
それでも彼は居丈高な態度を崩すことはなかった。ジョンズは激痛に苛まれながらも、歯をむき出しにして吐き捨てた。
「舐めるなよ、亜人風情が! 貴族はな……媚びぬから貴族なのだ! このジョンズ・ハーキア、例え死のうが言いなりにはならん! 貴様らのような、下賎の民の言いなりにはな!」
「――そうか」
ゆらり、と漆黒に染まった刀身が持ち上がる。
「ならば死ね」
影の台詞は簡潔だった。その行動はもっと分かりやすかった。
振り下ろされた刀刃はジョンズの頭蓋骨を割り、その脳髄を粉々に砕いた。
頭部をいびつに変形させた青年は、たちまち前のめりに倒れ伏す。
周囲に血と脳漿をまき散らしたそれは、もはや単なる肉の袋だった。
「ひ……ひあ……」
眼前に広がる惨たらしい光景に、ケインはガチガチと歯を鳴らす。
その下半身を覆うズボンから、みるみる生温かいシミが広がり始めた。
悪夢だった。夢なら早く覚めて欲しかった。しかし、これは紛れもない現実だ。……現実なのだ。
やがて、影は二つの死体から溢れ出た血を踏みにじりながら、全身を震わせているケインの元へと歩み寄った。
「お前はさっきの奴より賢そうだ。自分がどうすればいいか――分かるな?」
「は、はひっ!」
ケインは一も二もなく頭を垂れた。
「こっ、こんなことはもう二度としないと神に誓います! だ、だからどうか命だけは!」
「……待て。謝る相手が違うだろう?」
影は自身とは真逆の方角を顎でしゃくった。
一連のやり取りの間に意識を取り戻したのだろう。石畳の上にへたりこんでいるのは、先ほど暴行を受けていたエルフの女性だ。
彼女ははだけた衣服を胸元に手繰り寄せたまま、青ざめきった表情で血だまりに沈む男たちを見つめていた。
「これは……」
「罪人を裁いただけだ。この国の法に代わってな」
ぶっきらぼうに言い放つ黒いシルエット。
その眼前で膝立ちになったケインは、胸の前で両手を組むと、女性に向かって深々と頭を下げた。
「ゆ、許して……許して下さい」
「え、あ、あの……」
困惑する彼女に影は低い声で尋ねた。
「こいつをどうして欲しい?」
「……ええと」
エルフの女性は一度、気を落ち着けるかの如く深呼吸した。
どこか淀んだような色の双眸がケインへと向けられる。
男は相変わらず小刻みに肩を震わせていた。恐怖のあまり目からは涙が溢れ、鼻水が点々と石畳の上に滴り落ちている。
彼女はしばしその無様な姿を観察した。
それから数秒の間を置いた後で言った。
「見逃してあげて下さい。私、この人からは乱暴をされていません」
「だが、止めもしなかったのだろう?」
「……はい」
女性は頷いた。しかし、その声に怒りはない。
彼女の表情にはただ、深い諦観の色だけが浮かんでいた。
影はそれを見てどう思ったのか。抜き身の剣を鞘へと仕舞った。
そして未だに震えているケインに一瞥をくれると、
「失せろ、小僧。今日のところは見逃してやる」
「ひ、ひぃ!」
ケインはたちどころに、蹴り飛ばされた犬のような勢いで路地裏を走り去った。
後に残されたのは長身の影と、エルフの女性と、二つの死体だけだ。
女は吹きつける寒風に目をすがめつつ影に声をかけた。
「ありがとうございます。助かりました」
「礼は必要ない。種族こそ違えど、我らはともに王国の民だ。助け合うべき存在だ」
「……ええ、そうですね」
女はあいまいに首肯した後で、「お名前を聞いてもいいですか?」と尋ねた。
影は重苦しい声で告げた。
「ダグラス――ダグラス・キャスパリーグ」




