日常的日常
「おっぱいって、いいよね」
直後、すぱん、と軽快な音が響いた。
目の前に、頭を押さえてうずくまっている奴がいる。
バカだ。
一瞬教室中の視線がこっちに来たが、いつものことなので皆すぐに会話を始めた。
「~~!!いったいなぁ!何するんだよ!」
床にうずくまるバカが何かを言っているが、発言が低次元過ぎて普通人である私には理解できない。
バカが何を言っても結局普通人には理解できないのだ。
「あれ?なんか失礼なこと考えてませんか?」
失礼なことではない。普通なことだ。
「それはいいとして、なんでいきなり叩いたんだよ」
バカが立ち上がった。机に座る私より、やや高い位置に顔がある。
「それが分からないからあんたはバカって言われてるの」
バカはきょとんとした顔になった。
はあ、とため息一つ。
「あのさ、こんなときにあんたは何を言ってるのよ」
わずかに、声のトーンを落として、言う。
「まだ、宮城の津波が起きたばっかりなのよ」
「宮城だけじゃなくて、福島や青森、岩手や茨城に千葉も津波を襲ったね」
「そんなことは分かってるわよ」
そうじゃなくて、と付け加え、
「たくさんの人が死んでいるのに、何がおっぱいよ。不謹慎にもほどがある」
三月十一日、午後二時四十分すぎ、地震が起きた。
プレート型とか言われるタイプの地震は数回の大きな地震を起こし、巨大な津波を発生させた。
被害は広範囲に甚大。ある町は一万人近くが連絡が取れない、という情報もある。
近くにあった原子力発電所では水素爆発やらなんやらで外壁が吹き飛んだりかんだり。
とにかく、今も被害は広がり続け、今日、関東圏では停電するしないで混乱しているらしい。
そんな最中に彼はこんなことを言った。
おっぱいって、いいよね、と。
さすがバカだ。普通人には考えもつかないようなことを平然と口にする。
だが、それをとがめるのは普通人の使命だ。だから、殴ったのだ、教科書で。
「不謹慎ねえ……。たしかに不謹慎かもなぁ」
分かってて言ったとしたら、救いようのないバカだ。死んで治るのだろうか。
「今あなたの考えてることも不謹慎じゃないでしょう……」
教科書が空を切った。
再びバカがうずくまった。
「あのさあ」
バカがこっちを見た。目じりに涙を浮かべている。
「どうして不謹慎って分かって言ったの」
バカがゆっくりと立ち上がる。頭をさすっている。
「じゃあさあ」
バカが、私を見る。目を合わせて。
「もし僕の言ったことが不謹慎だったら、こうやって学校来てる僕たちは不謹慎だよね」
「でもたぶん学校来るのって不謹慎じゃないよ。だって、これが僕らの日常なんだもん」
バカはさらに言葉を続ける。
「たしかに、向こうの方じゃあたくさんの人が死んでる。喪に服したくなるのもわかるよ。けどさ」
教室が、少しだけ静かになる。
「世界中じゃあ、毎日十万人単位で死んでいるんだよ。それに、僕たちが喪に服してどうなるんだろうね」
正論だ。けど、
「じゃあ、私たちはどうすればいいと。あんたは私に何を望むの」
そうだねえ、バカは軽く腕を組み、
「強いて言うなら……いつも通り暮らすってことかな」
「これはとある作家さんの言葉なんだけど、『俺らに出来ることは、仕事として、本を作り、いろいろな人の「日常」の一部となることなので、それは被災者の方々が今後、いつも通りの生活を取り戻す際にも必要となります』ってさ。つまりさ」
腕の組をほどき、軽く指さし言う。
「僕たちのいつも通りの日常こそが、向こうの人達にとっての、最大の支援活動ってこと」
バカの眼は、こちらを見つめ、
「僕たちの生活は巡り巡って向こうの人達とつながってる。経済的にも、いろいろと。だからこそ、僕たちが自分の日常を営むことが大切なんだと思う」
気づけば、教室はバカの言葉に夢中だ。静まり返っている。
「なるほど」
頷く。
「たぶん、向こうの人達を思うとこれだけじゃあ足りないって思ってるでしょ」
その通りだ。
「僕も、憤りを感じるよ。でもね、結局出来る事と言えば、今の段階だと募金とか、節電とかくらいなんだよ。助けに行きたいって気持ちは分かるけど、向こうは危険な状況で、プロの人達が今その状況を整理してる」
バカはそっと目をつむり、そして開いた。
「やがて、向こうから人手が欲しいってくるはず。その時に行けばいいんだよ。遅いってことは無い」
その言葉を言うと、教室に静寂が訪れた。数秒のはずが、永く、永く感じた。
「まあ、そんな感じかな」
また、静かになった。
「一つ」
忘れがちなことがあった。
「一つ、私たちにできる事がある」
たぶん、これが一番難しいことだと思う。
「忘れないこと」
この三日間で、私が見つけたやるべきこと。
「この、悲しい出来事を忘れないこと」
それは、
「この同じ時を生きた人として、私はこの事を忘れたくない。たくさんの人が死んで、町が崩れ去って、でも、生きている人がいて、その人たちを思う人がいて、そしてまた被災者たちの日常が戻ってくる。このことを、私は生きている限り覚えていたい」
窓の向こうには、青の空が広がる。広い、広い空だ。
白の雲も浮かぶ、青い空。
「それが、私の祈りだから」
ずっとずっと、青い空。
「で、なんでおっぱいなの」
話がそれてしまった。なんか、恥ずかしいセリフを言った気もするが普通人の私だからきっと普通のことだろう。
「だから、僕たちはいつまでも悲しみにくれてちゃいけない。こんな時こそ僕は平常に活動しなきゃいけない。そして、おっぱいは世界を救う。巨乳はさらにいいね!」
ぐっと、親指を突き出してくるが、何を言いたいか分からない。
普通すぎる私には分からないが、一つ、分かることがある。
「それは、薄い私に対する当てつけ?」
バカはこれ以上ないほどの笑顔を浮かべ、堂々と言った。
「貧乳の需要もないことはないんだよ!」
直後、破砕音が教室中に響いた。
Fin