七度目の王冠(クラウン)
血の味がした。鉄錆のような、生温い味。
レイン・フォン・シュタルクは、舌先で自分の歯茎をなぞった。崩れた感触。呼吸を三度繰り返す間の沈黙。視界の端で、かつて銀だった髪が灰白色に揺れる。
左手の甲。王冠の紋章。七つの宝玉があったが、今は中央の一粒だけが残る。その唯一の宝石も、表面に無数の亀裂を走らせ、ピキリ、ピキリと音を立てて削れていく。
未来の自分が、削れていく音。
丘の上に、破滅の魔女が立つ。漆黒のローブ。赤い髪。彼女の周囲で紫黒の靄が渦を巻き、触れた草花が瞬時に枯れる。
遠く、王都の方角から軍勢を進める太鼓の音が聞こえる。猶予はない。
「……また来たの、レイン」
七度目の対峙でようやく、彼女は彼の名を呼んだ。
「ああ」
「どうして——殺さないの」
「最後に、聞いてほしいことがある」
レインは剣を構える。右手の震えを、左手で押さえるようにして。この身体は十四歳だ。しかし今この瞬間に彼の腕を流れる技術は、四十年後のものだった。未来の自分が血を吐くような努力で積み重ねた、剣術のすべて。
借り物の才能で、彼は七度目の朝を迎えている。
「答えは、戦ってからにする」
踏み出す。甲の紋章が、鋭い光を放った。
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三日前——まだ白髪など一本もなかった頃。
王都シュタルクバーグの第三王子の私室。埃っぽい空気。窓は閉ざされ、笑い声は聞こえない。
レインは窓辺に立ち、中庭で剣の稽古に励む兄たちを眺めていた。二人の動きは鋭く、周囲には笑い声と歓声があった。
自分の周囲はいつも静かだった。
「才能がない」
物心ついた頃から聞かされ続けてきた言葉だ。剣を取れば兄たちの足元にも及ばず、魔法の適性検査では水晶球が一片も光らなかった。
父王はため息をつき、背を向けた。振り返らなかった。足音が遠ざかる。
廊下で足音を殺し、通ろうとした使用人の少年が、運んでいた荷物を落としそうになった。レインは咄嗟に駆け寄り、落下する陶器の壺を受け止めた。重みで腕が痺れる。
「殿下……! すみません……」
少年が青ざめて平伏する。瞳孔が開いている。視線が下を向いている。
「怪我はないか?」
レインは壺を置き、少年の手を見た。荷物の紐で指が切れている。レインは自分のハンカチを少年の手に巻いてやった。その時、背後から声がした。
「殿下は、ご自身を過小評価しすぎています」
振り返ると、シエル・フォン・リヒテンが立っていた。十六歳の少女。王都最高の戦略学者から「十年に一人の天才」と評された頭脳の持ち主だ。ただし、「平民出身」「女性」という理由で表立った活躍の場を与えられていない。
「才能の有無と、価値の有無は別です」
彼女は続ける。書類を抱えた腕の筋肉が、わずかに隆起する。
「殿下は——誰よりも人を想うことができる」
それは剣の腕前や魔法の適性の代わりにはならなかった。レインは剣の柄から手を離した。指先の痺れが消えるのを待った。呼吸を三度繰り返す。
「ありがとう。でも、想うだけでは誰も救えないんだ」
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その夜、レインは夢を見た。
焼け落ちる王都。死体の山。空は赤黒く染まり、大地は割れ、海は沸騰していた。その中心に立つ一人の魔女。彼女は泣いていた。
飛び起きたレインの額に冷たい汗が流れた。
左手の甲が灼けた。
「が……っ!」
痛みにのたうち回る。灼熱の痛みが走る。声も出せない。見たことのない剣の型、経験したことのない魔法の回路——それらが、彼の神経を通過する。拒絶反応はない。
痛みが引いたとき、彼は鏡の前に立っていた。映っているのは十四歳の少年だ。なのに、脳裏によぎる記憶——皺だらけの手で剣を握っている自分。その記憶の中で、誰かの名を呼ぶ声が聞こえた。声の主はわからない。ただ、その声が、自分に向けられたものだけは確かだった。
鏡の中の少年は、見知らぬ他人だった。
レイン・フォン・シュタルク。第三王子。十四歳。
唇が動く。『レイン・フォン・シュタルク』。声に出して初めて、身体が輪郭を取り戻した。
気がつくと夜明けだった。全身が汗でびっしょりだ。しかし、手のひらに、「何か」の感触があった。
未来の自分。四十年後の自分が、この力を送ってきたのだ。
レインは剣の柄を握った。未来の技術と、自身の修練の記憶が、腕の中で混濁する。剣が、『自分のもの』になった。
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馬車が辺境領へ続く街道を進む。出立から三日目の朝だ。
シエルは向かいの席で書類に目を落としている。彼女の手元には魔女に関する最新の資料——目撃情報、被害状況、眷属の生態——書類は束ねられ、見出しが付いている。
「魔女の眷属の目撃情報が、この先の村で増えている」
「我々の進路からは外れています。寄らなければ問題ありません」
「もし、その村が今も襲われているなら?」
シエルが顔を上げた。瞳孔が収縮と拡大を繰り返す。
「……我々にできることは限られています。殿下の警備はたったの五名。魔女の眷属——中級以上の使い魔には、太刀打ちできません」
「わかってる」
レインは窓の外を見た。手は剣の柄を握っている。
その日、馬車は街道を外れた。
「正気ですか!」シエルの声の周波数が高い。
「俺の領地になる村だ。見捨てるわけにはいかない」
「まだ決定したわけでは——」
「シエル」
レインは振り返った。
「想うだけでは誰も救えない。それが嫌なんだ」
シエルは口を閉じた。書類を握る手の関節が白くなる。
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村だった。
家々は崩れ、道には血痕が残る。村の中心で、四本腕の黒い甲殻獣が——十匹以上——うごめいていた。
騎士隊長が叫んだ。次の瞬間、彼の胴体は眷属の腕に貫かれた。
レインは剣を抜いた。未来の技術が腕に流れ込む。剣の重量を感じない。指先の感覚が研ぎ澄まされ、眷属の筋肉の動きが「見える」。
一閃。甲殻の継ぎ目を両断する。群れの統率が乱れる。
五匹を倒したところで、右肩に激痛が走った。
十四歳の筋肉が、未来の技術に耐えられない。握力が落ちる。
——もっと力が必要だ。
その考えが、致命的だった。
未来の魔法制御。広範囲焼却術式。十四歳の身体で無理やり発動させる。術式が暴走する。眷属が燃え上がる。
眷属が燃え上がる。灰になって崩れ落ちる。レインの視界が、暗転した。
地面に崩れ落ちながら、最後に見たのは、シエルが駆け寄ってくる姿だった。彼女の表情が、歪んでいた。
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気がつくと、三日前の朝に戻っていた。
左手の甲の紋章から、宝玉が一つ欠けていた。
シエルが部屋に入ってくる。シエルは、殿下を見つめた。
「シエル。出発前に、あるものを準備してほしい」
「……殿下?」
声が震えていた。死んだ直後なのだから。
「眷属の生態資料を全部。それと——魔力を安定させる装具があれば」
シエルは瞬き一度分の間、瞳孔が収縮と拡大を繰り返す。そして、何も聞かずにうなずいた。
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二度目の人生。
資料を読み込み、魔力安定の装具を身につけたレインは、再び村へ向かった。今回は未来の技術のうち、三年分の剣術だけを借りる。派手さはない。しかし、必要な動きに無駄がない。
眷属と対峙する。指揮役を落とす。七匹。群れが逃げ散る。
息を切らしながら、レインは呟いた。「……できた」
しかし、シエルが指さした先——村の外れに、異様な暗闇が広がる領域があった。紫黒の靄が渦を巻き、脈打つように膨らんでは縮む。
その奥から、音量は小さいが、音が聞こえた。子供の泣き声——助けを求める声だ。
「近づかないでください」
シエルの口調は命令に近かった。
「あの結界に触れれば——」
「わかってる」
知っている。しかし——声がする。泣いている。
「殿下。もし中に誰かがいたとしても、今の状態では——」
「シエル」
レインは振り返った。
「君は、兄が撤退しなかったことを責めていると言った。でも——本当は、違うんじゃないか」
シエルが言葉を失う。
「君は羨ましかったんだ。兄は最後まで、自分の信じたものを守れた。君は、それができなかった。だから——」
「だから、私の代わりに死のうと?」
「死ぬつもりはない」
「無謀です」
「ああ」
レインは結界に向かって歩き出した。
一歩目で皮膚が焼けた。二歩目で鼻から血が垂れる。三歩目——全身の毛穴から血が滲み出す。靄を吸い込むたびに肺が焼ける。呼吸ができない。
それでも——声がする。助けて、と。
——力ではなく、制御の方法を借りるべきだった。
指先が動いた。言葉にならなかった。視界が、白い縁取りで囲まれた。
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二日前に戻ったとき、こめかみに白い筋が入っていた。宝玉が、もう一つ欠けている。
シエルはその白髪を、瞬き一度分見つめ、口を開いた。
「……殿下。説明してください」
「信じてくれるか?」
「証拠が必要です」
「……今夜、北の街道で魔獣の群れが通りかかる。未明だ。俺は知らないはずだ。でも、わかる」
シエルはレインをじっと見つめた。瞳孔が収縮と拡大を繰り返す。そして、首を、縦に一度動かす。
「確認します。もし事実なら——私は、殿下の『何か』に命を預けます」
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三度目の人生。
レインは結界の隙間を探ることに集中した。シエルの解析を待たず、自身の感覚で魔力の流れを読む。未来の知識が、わずかながら道筋を示す。
結界の外周を半周したところで、魔力の流れが一瞬途切れるのを感じた。三時間に一度、七秒だけ。
その隙間を狙って、レインは結界に踏み込んだ。
一歩。二歩。三歩。
皮膚が焼ける。しかし、以前より深くまで進める。四歩。五歩。六歩——
七歩目。
背後で空気が裂けた。振り返る間もなく、何かが背中に激突した。脊椎が砕ける音が聞こえた。意識が途切れた。
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気がつくと、二日前に戻っていた。白髪が、さらに増えている。紋章には、四つの宝玉が残っていた。
シエルが部屋に入ってくる。彼女の手には、徹夜で書き上げた解析図がある。
「殿下。結界の解析が完了しました。三時間に一度、七秒だけ魔力の流れが途切れます。しかし——」
彼女は図を広げる。
「結界内部には、さらに七層の防御障壁があります。これらを突破するには、別の方法が必要です」
「三度目は、背後を取られた」
「……背後?」
「七歩目で。何かがいた」
シエルはペンを走らせた。三十秒の沈黙。彼女の瞳孔が、わずかに縮む。
「……眷属です。結界内に、少なくとも一匹は潜んでいる。おそらく——見張りとして」
「倒し方は?」
「それがわかれば、私も戦略家では——」
「シエル」
レインの声が、彼女の言葉を遮る。その口調は、これまでになかった。
「お前の頭脳が必要だ。俺の命は、残り少ない」
シエルはペンを握る手を止めた。瞬きを、三度繰り返す。
「……承知しました。徹夜します」
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四度目の人生。
シエルの解析により、結界内部の構造が明らかになった。七層の防御障壁。それぞれが異なる原理で動作している。
一層目:風圧。二層目:振動。三層目:連動——一か所に力を加えると別の場所に跳ね返される。四層目:掌底——押し返す力。
「五層目から六層目の切り替わりに、0.3秒の隙間があります」
シエルは図を指さす。
「ただし——これは魔女が『防御に集中している』ときのみ発生します。彼女が攻撃動作に移行した瞬間、この隙間は消えます」
「逆に言えば、彼女が攻撃を躊躇した瞬間にのみ、この隙間は開く」
「そうです」
レインはうなずいた。
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結界の隙間を通り抜ける。一層目、二層目、三層目——連動に惑わされず、まっすぐに進む。四層目——押し返される力を、体ごと受け流す。
五層目。ここからが勝負だ。
六層目への切り替わりを待つ。呼吸を止める。待つ。待つ——
0.3秒。
レインはその隙間に飛び込んだ。
六層目を突破する。七層目——
七層目は、防御ではなかった。攻撃だった。
全身に衝撃が走る。内臓が逆流する感覚。血を吐いた。意識が途切れた。
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一週間前に戻った。白髪は全体の半分を超えた。紋章には、三つの宝玉が残っていた。
「七層目は攻撃でした。想定外です」
シエルの声に焦りが混じる。
「……六層目までしか、解析できていませんでした。私の——」
「いい。次がある」
レインは立ち上がった。その動作だけで、息が切れる。
「今度は、七層目を突破する。それだけだ」
「無理です。七層目の攻撃を解析するには、少なくともあと三度——」
「三度も残っていない」
沈黙が落ちる。
シエルは机に両手をついた。指の関節が白くなっている。
「……では、私が考えます。殿下が生き残る方法を。それが私の——」
「シエル」
レインは彼女の肩に手を置いた。その手は、わずかに震えている。
「一緒に考える。三人でな」
「三人?」
「ああ。魔女も含めてだ」
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五度目の人生。
レインは防御七層を外側から順に剥がしていった。一層目から六層目まで。シエルの解析が示した0.3秒の隙間——彼女の瞳孔が収縮を止めている間、隙間は生まれない。
刃が、アリシアの肩をかすめた。二度目の血。
「止めてほしいんだろ?」
アリシアの動きが止まった。赤い瞳が、激しく揺れた。
「なにを——」
「お前は、誰かに止めてほしい。一人でこの力に押し潰されそうになっている。違うか?」
アリシアは言葉を失った。
彼女の目から涙がこぼれ落ちた。ぽたり、ぽたりと。長年溜め込んできたものが、止まらない。
「……どうして、それを」
「俺も同じだからだ。一人で抱え込んで、誰にも言えなくて——でも、誰かにわかってほしかった」
アリシアは泣きながら、首を振った。
「この力はね——生まれたときから、ずっとここにあるの。ある日突然目覚めた。目覚めたときには、もう——周りのもの全部を、消してしまっていた」
声が幼くなっていく。
「家族も、家も、村も——何もかも。私が触れたから、消えたんだ。私が触れると——何もかもが灰になるから。ずっと、ずっと一人で——誰も来てくれなかった。誰にも、触れられなかった」
彼女はレインを見上げた。涙で滲んだ虹彩が、細かく振動している。
「ルカがね……」
「隣の家の男の子。ルカ。ある日、摘みたてのタンポポを持ってきてくれたの。泥だらけの指で、『アリシアちゃん、これ』って。笑って、受け取って……抱きしめたかったのに。私が触れた瞬間、ルカだけじゃなくて、ルカのお母さんも、家も、全部……灰になった」
涙が止まらない。
「名前を覚えている唯一の人。ルカ。ごめんね、ルカ。ごめんね……」
彼女は崩れ落ちるように座り込んだ。
「それから、私は一人で歩き続けた。誰にも近づけず、何も触れず。食べ物も、水も——誰かが置いてくれたものを、遠くから見て、その人が去ってから、手を触れずに口に運ぶ。それが何年も続いた」
声が途切れる。
「ある時、気がついたんだ。私が触れるものは全部消える。なら——私が触れる前に、全部消えてしまえばいい。世界が、私の前に、何もなくなればいい。そうすれば、もう誰も傷つけなくて済む」
彼女の周囲の紫黒の靄が、彼女の動揺に呼応するように渦を巻き始めた。
「それで、魔女になったの?」
「……うん。破滅の魔女って、みんなが呼ぶ。私は世界を滅ぼそうとしている。でも——本当は」
彼女は自分の手のひらを見つめた。
「もう、疲れただけなんだよ」
靄が炸裂した。空間そのものが歪む。レインの身体が、周囲の大気ごと——消し飛ばされた。
最後に見えたのは、アリシアが自分自身の口元を両手で押さえている姿だった。
その瞬間、彼女の防御に、呼吸一度分の「隙」があった。レインの瞳孔が収縮する。
---
一週間前に戻ったとき、白髪はほぼ全てになっていた。鏡の中の自分は、十四歳には見えなかった。肌の張りを失い、頬はこけ、指先は震えている。
紋章には、最後の一粒が残る。亀裂が走っている。
シエルが部屋に入ってくる。彼女の手には、五度分の戦闘データを統合した最終解析図がある。
「殿下。六度目です」
「ああ」
「最終解析が完了しました」
彼女は机の上に一枚の羊皮紙を置いた。赤いインクで確率が記されている。
「魔女アリシアを『殺害』した場合、世界破滅阻止の成功率は 100%。殿下の生存確率は 82%」
「対して、『殺さずに封印』する場合。成功率は 12%。殿下の生存確率は 3% 未満です」
レインは黙って数字を見つめた。
「殿下は六度目です。宝玉は残り一つ。この失敗は、許されません。論理的に選択すべきは明白です」
「殺してください。私が指揮します。殿下は後方で待機し、魔力供給のみ行えばいい。それなら、殿下は生き残れる」
「シエル」
「はい」
「お前は、俺に彼女を殺せと言っているのか」
「はい」
シエルの瞳孔は、一点を捉えたまま動かない。彼女の喉元が、鳴った。
「世界を救うためです。そして——」
彼女は机を叩いた。立ち上がり、レインの胸倉を掴んだ。冷たい手が、布越しに熱を伝える。指先が白くなっている。
「殿下が死ぬくらいなら、世界なんてどうでもいいんです」
喉元が鳴った。握られた胸倉の布が、細かく振動している。
「私がどれだけ戦略を練っても、殿下がいなければ意味がない。戦略家として——殿下を失うくらいなら、私は——」
彼女は言葉を飲み込んだ。唇を噛みしめる。
「だから……殺してください。彼女を。殿下が生き残る方を選んでください。それが、私の『最適解』です」
レインは、彼女の手を優しく外し、握り返した。
「……ありがとう、シエル。お前の言っていることは、正しい」
「なら——」
「だが、俺は拒否する」
シエルの目が見開かれた。
「俺は、彼女も救いたい。お前も失いたくない。世界も壊したくない。全部、俺の手に収めたいんだ」
「欲張りです」
「ああ、最高にな」
レインは笑った。血まみれの、ぼろぼろの笑顔だった。
「これが俺のエゴだ。正しいかどうかはわからない。でも、俺はそれを選ぶ。お前を一人にしないために、俺も死なないために」
シエルは唇を噛みしめた。涙をこらえるように、深く息を吸った。
「……無謀です。愚策です」
「ああ。でも、俺の人生だ」
「……承知しました。行ってらっしゃいませ、殿下」
シエルは背を向け、書類に向かった。その肩が、わずかに震えている。
「王都の軍勢が、あと半日で到着する。それまでに決着をつけること。それが条件です」
「ああ」
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結界の継ぎ目を通り抜ける。防御五層を剥がす。
六層目の前で——レインは剣を下ろした。
アリシアが、その動きに反応できなかった。
「……何を?」
「止めてほしいんだろ?」
「なにを——」
「ルカのこと。お前はまだ、彼を背負っている」
アリシアの動きが止まった。
「ルカがくれた花。抱きしめたかった。でもできなかった。それで全部、灰になった。違うか?」
「……なんで、それを」
「俺も同じだからだ」
レインは一歩踏み出した。靄が彼に向かう。皮膚が焼ける。
「近づいたら——!」
「わかってる」
また一歩。靄が服を溶かす。視界が滲む。
「なんで——なんで、来るの」
「お前が泣いているから」
靄が——呼吸を一度止める間、止まった。
「疲れただけだって、言ったな」
レインは言う。皮膚が焼ける音が聞こえる。
「俺も疲れた。六度も死んだんだ。そのたびに戻ってきて、また戦って、また死んで——」
声が掠れる。
「三度目は、背中を取られた。それ以降、無意識に背後を確認するようになった。四度目は、防御の壁に全身を叩き潰された。あの衝撃は、今も指先に残っている。五度目は、お前の力に消し飛ばされた——でも、お前がルカのことを話した時、思ったんだ。お前は七年間、一人でこれを背負ってきた。誰にも話せず、誰にも触れられず、誰にも助けを求められなかった」
アリシアの涙が止まらない。
「俺は六度の死で、それを知った。だから——」
レインは踏み込んだ。剣ではなく、身体ごと彼女の力に飛び込むために。
左手の甲の紋章が灼けた。
『——使うな、過去の俺』
未来の自分の声が脳裏に響く。声が震えている。
『俺はな、一人でこれを背負った。誰にも言えず、誰にも助けてもらえず、ただ力を制御するために四十年を生きた。孤独だったよ。だから——お前には、同じ思いをしてほしくない』
『俺は孤独の中で死んだ。お前には、誰かと共に死ぬ選択肢を与えたかった。力を送るしかなかったんだ。寿命が削れても、誰かの傍で消える方が……俺はマシだと思った』
『このループが最後だ。未来は、お前のものだ』
「ああ」
レインは呟いた。
最後の宝玉から「全て」を引き出した。剣術でも魔法でもない——紫黒の靄を、自身の身体に取り込むために。拒絶するのではなく、受け入れるために。
アリシアの涙が溢れた瞬間、彼女の防御意識が揺らぐ。
0.3秒。
レインはその隙間へ、自身の存在ごと飛び込んだ。
宝玉が砕ける。四十年分の生命密度が解放される。
焼ける。細胞が死んでいく。意識が端から崩れる。
それでも——
掠れた声で、レインは言った。「お前の力は、お前のものだ。誰かを消すためにあるんじゃない。お前が——生きるために、あるんだ」
アリシアは何も言えなかった。ただ、両手で自分の顔を覆い、声を殺して泣いていた。
紋章が最後の輝きを放ち——砕け散った。
世界が、白くなった。
---
気がついたとき、彼は戻っていなかった。
丘の上に倒れている。関節の動きはない。
遠く、王都軍の旗印が見える。彼らはまだ、こちらに向かっている。太鼓の音が近づいている。
「……殿下!」
シエルの声がする。走ってくる足音。
「起きてください!」
「……大丈夫だ」
声が出た。掠れて、ほとんど聞こえない。
「魔女は——」
「封じました。殿下の身体が封印の核になっています。ですが、殿下の——」
「寿命は、もうほとんど残っていない。わかってる」
レインは空を見上げた。空は青い。
立ち上がろうとして、身体が大きく揺れた。シエルが黙って肩を支える。
「……アリシアは?」
「……ここにいる」
声がすぐ近くから聞こえた。
彼女は地面に座り込んでいた。黒いローブはぼろぼろで、赤い髪は乱れている。でも——彼女の周囲に、あの紫黒の靄はなかった。ただの、一人の少女だった。
その時、馬蹄の音が止まった。
王都軍の先遣隊だ。騎士団長が馬から降り、剣を抜いて二人——いや、三人を睨みつける。
「第三王子レイン。そちらの女は破滅の魔女だ。直ちに処刑せよ。さもなくば、叛逆とみなす」
騎士団長の剣先が、アリシアの喉元を指す。
アリシアが震える。レインは足音を区切って、アリシアの前に立った。ふらつく足元を、剣を杖のようにして支える。
「処刑はしない」
「殿下、正気ですか!あの女がどれほどの被害を——」
「被害は止めた。俺がな」
レインは左手の甲を示した。紋章は砕け、跡形もない。そして、指先が袖口を掴む。布が捲れ上がる。
皮膚の下、血管ではなく、血管の太さほどの光が流れているのが見える。指先は半透明になり、向こうの景色が透けていた。
「この身体が封印の中枢だ。俺が死ねば、王都ごと消滅する。リスクは取れるか」
騎士団長の瞳孔が開いた。剣先が、指の幅ほど揺れる。
彼は目配せをした。部下たちの手が刀柄に掛かる。しかし、レインの透けた手は、嘘をついていなかった。
シエルが一歩前に出る。手には——レインが事前に預けた、王族の緊急権限を示す印章が握られている。
「これは父王からの預かりものです。第三王子の領地における全権委任を認めています。魔女の管理責任は、シュタルク家が負います」
騎士団長は印章を見つめ、歯噛みした。
遠くから本隊を進める太鼓の音。猶予はない。
「……監視官を置きます。常時十名。殿下の寝所も監視します。何かあれば、殿下の首を頂きます」
「ああ。それでいい」
騎士団は撤退した。残された三人の間に、重い沈黙が落ちる。
「……なんで——なんで、私を殺さなかったの」
アリシアが呟く。
「君が望んでいなかったからだ」
「望んで——」
「君は望んでいなかった。誰かを傷つけることも、世界を滅ぼすことも。ただ——止めてほしかっただけだ」
アリシアの目から涙がこぼれ落ちる。
「でも、私は——ルカも——たくさんの人も——」
「もういい。終わったんだ」
レインは笑った。血まみれの、ぼろぼろの笑顔だった。
「これから、どうする?」
「……これから?」
「生きるんだよ。君も、俺も。まだ——残ってるんだから」
膝に手をつく。体重を乗せる。立ち上がる。関節がきしむ。筋肉が痙攣する。それでも、立った。
シエルが黙って肩を支える。
「殿下、無理を——」
「まだ、やることがあるからな」
「やること?」
「生きることだよ」
彼はアリシアに手を差し伸べた。
アリシアはその手を見つめていた。震える手で顔を覆う。涙が止まらない。でも——指が一本ずつ閉じていく。
冷たい手だった。レインの手も、同じくらい冷たかった。
シエルはその様子を黙って見ていた。
「……では、帰りましょう。殿下の領地に」
「ああ。三人でな」
---
それから、季節は巡った。
辺境の小さな領地。賑わいはない。煙突から煙が立ち、鉈を研ぐ音が聞こえる。
王都からの監視官は屋敷の門前に立つ。十名の騎士は交代制で、レインの動向を記録している。騎士たちは動かない。槍の先は地面を向いたまま。
アリシアは、毎朝パンを焼くようになった。最初は硬いパンだったが、今ではそれなりに食べられる。
「……今日も焼き過ぎかな」
焦げた端を眺めながら首を傾げる。
「焼き加減が均一ではない。ここは焦げているが、ここは生だ」
シエルが書類から顔も上げずに言う。
「うるさいなあ。私は魔女であって料理人じゃないんだから」
「言い訳は結構です。今日の魔法制御訓練の時間です。先週の『ちょっとした失敗』で畑が半壊しましたからね。今週は毎日です」
アリシアの肩が落ちる。
「……私、またやらかすかもしれないよ」
シエルは顔を上げた。
「そのために訓練するんです。やらかしたらそのときに考えればいい。今度は畑だけではありませんから、領地の皆で対処します」
「……シエル」
アリシアの目が潤んだ。
そのとき、扉をノックする音がした。農夫の妻、マルタだった。摘みたての野草を手に持っている。
「アリシアさんが前に教えてくれた薬草、また採ってきました。今日はどれがどれだか、もう少し教えてもらえませんか?」
「あ、ありがとう——」
戸惑いながら受け取るアリシアに、マルタはにこにこと笑う。
「最初は、怖かったんですよ。魔女様が隣に住むなんて。でも——アリシアさんはアリシアさんですからね」
軽く手を振って、彼女は去っていった。
アリシアはその野草の束を、掌で三度撫でてから。
「……私、この人たちに何かしてあげられたのかな」
「してるよ」
レインが入り口から声をかける。白い髪が揺れる。歩くたびに、時折立ち止まる。
「あんたが教えた薬草の知識で、マルタさんの旦那さんの咳が治まったって聞いたぞ。『魔女様のおかげだ』って笑っていた」
「それは——ただ知ってたから教えただけで——」
「それでいいんだよ」
レインは席に着く。茶碗を持ち上げようとして、指先が震える。こぼさないよう、もう片方の手で支える。
その手は、半透明になり始めていた。光が透過し、向こうの景色が透けて見える。骨の輪郭が、薄く浮き上がっていた。
シエルはそれを見た。何も言わない。ただ、レインの手元に自分の手を重ねた。
レインは咳き込んだ。拳を口元に当て、素早くポケットに隠す。
ポケットから引き抜いたハンカチには、鮮やかな赤が滲んでいた。
シエルは視線を逸らし、アリシアのパンを手に取り、焦げた端を丁寧に切り落とした。
「……この部分は食べられる。今日は、私が食べます」
アリシアは唇を噛みしめた。視線を落とす。
「……ありがとう」
---
食事が終わると、レインは窓を開けた。夕暮れの風が流れ込む。
「散歩でもしないか。三人で」
三人で外に出た。道端に野花が咲き、風に揺れている。
二十歩後方、鎧の音がしないよう歩みを殺した足音。ペンを走らせる乾いた音が、風に乗って届いた。
アリシアが先に歩き出す。時々、自分の手のひらを見つめて立ち止まる。かつてあった紫黒の靄の名残を——掌の上で。
「……まだ、怖いの?」
レインが隣に並ぶ。声は低く抑えられている。
「うん。たまに、またあの力が溢れ出しそうになる。なくならないよ、きっと。ずっと、私の中に残る」
「そのときは、また止める」
「私を?」
「いや。お前の力を、だ。シエルが解析を進めてくれている。制御の方法も、きっと見つかる」
後ろからシエルの声。
「解析は順調です。あと半年もすれば、ある程度の目処は立つでしょう。それまでは——」
「私を縛っておくってわけね」
アリシアが口元の筋肉を、横に引けた。
風が赤い髪を揺らす。
歩みが止まる。アリシアは空を見上げた。
「……これから、どうやってこの力と付き合っていけばいいのかな」
レインは空を見上げた。夕日が雲の端を赤く染める。
「その答えは、これから見つければいい」
彼は一歩先に進み、振り返る。
「シエルは戦略家として、多くの命の重さを背負っている。俺はこの身体の残り時間を背負っている。お前も、そうだ。一人で背負うんじゃなくて——三人で、少しずつ」
アリシアは黙ってうなずいた。
「……もう少し、ここにいてもいいかな」
「ああ。もう少し、一緒にいてくれ」
三人は再び歩き出す。農夫が帰っていく姿が見える。彼らはレインたちを見つけると、手を振ってきた。アリシアの手が、瞬き一度分の間、止まった。そして、小さく手を振り返した。
遠く、鎧を光らせた監視兵が、ペンを走らせる音が聞こえる。
夕日が三人を照らす。長く伸びた影が、一つに重なる。
「レイン」
アリシアが振り返らずに言った。
「なんだ」
「私、あなたに殺されなくてよかった。あなたに——止めてもらえてよかった」
レインは答えなかった。代わりに、歩調を、半歩速めた。白い髪が夕風に舞う。
シエルはその背中を見て、口元の角度が、変化した。彼女の視線の先、レインの透けた手が、夕日を透過して赤く輝いていた。
彼女はそっと歩み寄った。何も言わずに、その透けた手を握った。
光が、指の隙間から漏れていた。
三人の影が、緩やかな坂道を伸びていく。領地の灯りが、一つ、また一つと点き始めた。
背後から、足音は、歩幅分の間隔で鳴る。
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