断定できないことがある
考えるのに多くあることの大半が断定できないことだ、文字や文章を綴っていると見えて、実質として拒否感しかない、いつだって不在に感じている。
文字の書き出しの大半が不在に面しているもので、こうしたらいいのかもしれないというのの大半はあまりに意味を持たないしなさない、十年、二十年、三十年、考えても答えがない、不明瞭で弱い存在の自己だけがある。
決め事もいくつかできた、本が嫌いだということだけが分かった。
じゃあ何をしていればいいのかという話にもなるが、本が嫌いだと、信じられることの幅は驚くほど狭くなる、その情報源もものすごく狭い、けれど何故に本が嫌いなのかというと、それは本にいい思い出が無いからである、全部、外部にあって、自分の想いでになっていない、本というものの想いで、本が自分に馴染むまでの時間がなにもうまく乗せられなかった、本に馴染めなかったのだ、それは僕個人が悪いのだろう、本というものがあるからには本に馴染んで人間として本を紡ぐ意図や意味を知らなければならなかったのだ。
けれど僕は本が嫌いだ、理由はなんでもいい、本が嫌いということさえ分かっていればそれでいいのかもしれない、本の中にある話が嫌いというのもそうだが、本というのは閉ざしていて見えないのだ、けど昔に描いた物語の中にぼーっと埋没してる時は、ああそういうこともあったか、と思い出して描くこともある、僕はそういう意味の中に根差している部分もあって、たまに他者の視点が欲しくなることもあるが、実際に言うと、自分が紡いだものの中に思考が埋没していて、それによって本が嫌いなのかもしれない、本が嫌いない理由を探しに行くのもいいかもしれない、今はただ、指で紡いで。




