第8話 【過去編】Rebirth<後編>
久是の家は一民間人の家とは思えぬ程、充実した研究施設を保有しており、真一郎はそこでの研究を強要された。
目的は遺伝子研究から新たな生命体を創りだし、最強の兵と最高の頭脳を得ること。当然断る真一郎に、久是の一族は容赦無い暴力を振るった。
「先生?」
天井からの鎖に両腕を繋がれた真一郎は、膝をついたまま気を失っていた。
上裸にされた背中には、鞭で打たれ裂けた傷が夥しい血を流していた。声をかけても目を覚まさない真一郎に、久是の指示で水がかけられる。
「っ!!」
「先生、思ったより強情なのね。もう三日経つのに、このままじゃ死ぬわよ?」
「……ゴホッ、僕は、みんなを幸せに、したくて…生物学者に…君たちの狂った野望に手を貸すくらいなら…っ」
滴り落ちる水に赤い血が混じり、石造りの床を冷たく濡らしていく。
汚れた眼鏡越しに、それでも真一郎は久是を強く睨みつけた。
「…じゃあ”お願い”の方法を変えましょうか。紗耶、優太、直樹……昔の友人が殺されてしまったら、悲しいわよねえ?」
「……君はっ、なんてことを…!」
暴力にも首を縦に振らない真一郎に、彼らは真一郎の知人の命を人質に取った。自分を拉致した時の鮮やかな手段から、それが嘘ではないと痛感している真一郎は、研究せざるを得なかった。
実験動物のように管理された食事や運動。研究を行うようになった真一郎は、打って変わって過剰なほど手厚く扱われ、発狂することも許されなかった。
「先生は頑張ってくれてるけど、機材が追いついてないわね」
「…当然だよ。今やってる事自体、二十年は先の技術だ。僕をずっと監禁するつもりかもしれないけど、僕だって歳を取るんだ。いずれ…」
「何百年も待ち続けた私たちに、時間なんて問題じゃないわ」
久是の言葉と共に首に小さな痛みが走り、真一郎は昏倒した。
気がついた時には真一郎の四肢は鎖に引き伸ばされ、ベッドに磔にされていた。何か盛られたのか、服を脱がされた体の中心に耐え難い熱が渦巻き、真一郎は苦しげに息をつく。
「苦しい? 安心して、すぐ楽にしてあげる」
「やめ、ろ…! こんなの駄目…んん!」
冷ややかな目で真一郎を見下ろしながら、久是はその唇を重ねた。
「いつまでも手を出してくれないんですもの。今どき純粋すぎるわ先生は」
「や、め…っ!!」
「何で嫌がるの先生? こんなに愛しているのに」
磔にされた四肢をあらん限りの力で動かそうとするが、鎖が音を立てるだけだった。意志に背く身体に真一郎の絶望に見開かれた瞳から、止めどなく涙が溢れていった。
次の日から何事も無かったかのように研究は続いたが、久是の姿がふっつりと消えた。
真一郎は嫌な予感で胸が締め付けられるようだった。
「…その、子は…」
「先生と私の子どもよ」
一年近くが過ぎた頃、一人の赤ん坊を抱いて久是は真一郎の前に現れた。
赤ん坊はすやすやと寝息を立てている。
「君は命を何だと思ってるんだ!!」
「あなただけじゃ時間が足りないもの。私の血族と先生の子どもは、きっといい道具になるわ」
「…!!」
真一郎だけでは満足しなかった久是は、その才能を継ぐ者を自身の道具とすることを選んだ。
「道具にいちいちかかずらわっている暇はないのよ。先生と同じで才能に用があるんだから。跡目はこれから作らないとね」
「僕が育てる…君なんかに僕の子どもを渡すもんか!!」
「最初からそのつもりよ先生、早く使い物になるよう育ててちょうだい。名前も好きにしていいわ」
道具としてしか我が子を見ようとしない久是を見かね、真一郎はその子を代わりに育て始める。自分が不在の時は久是の母親が世話していた。
「君の名前は…しんたろうだよ」
大人しい男の子だった。
地獄のようなこの場所で、いつしかしんたろうは真一郎の心の支えとなっていた。
「こんな父親で…ごめんよ…」
真一郎は赤ん坊を抱き寄せると、静かに涙を零した。
すやすやと寝息を立てるその顔に、どうしようもないほど愛情が溢れる。真一郎の腕の中で、赤ん坊は安心しきったように眠っていた。
格子の隙間から見える夜空に大きな満月がかかり、辺りの山々をぼんやり照らしているのが見えた。
「…いつか君が、大きくなったら…」
研究を強いられる自分の姿が重なり、真一郎は言葉を飲み込んだ。
この状況が変わらぬ限り、息子に自由な未来は訪れない。外の世界も知らずに成長し、久是の道具となる未来しかない。
「…!」
恐ろしい考えが脳裏を過り、真一郎は体を震わせる。
自分はどうなってもいい。だがこの子だけは。
「しんたろうを…僕と同じ目に遭わせるわけにはいかない…!」
明かりの松明が、蛾を弾いて火の粉を散らした。
真一郎は薄い毛布で赤ん坊を包むと、唇を固く引き結んだ。争いらしい争いを一度もしたことがない真一郎の、初めての戦い。
自分のためではない。息子のためにこの屋敷を脱走する。たとえ全てを失うことになろうとも。
真一郎はコンセントを裂き、火花を起こして火事を誘発した。
見張りを殴り倒すと、鎖を引きずったまま真一郎は地下牢から飛び出した。
「火事だ! 早く水を!!」
「あの男はどこだ!? 見張りに行った奴はどうなってる!?」
地下牢から始まった火炎の勢いは、とどまるところを知らず、木造の旧家に燃え移っていく。
煙に巻かれながら、真一郎は裏手の山を素早く駆け上がる。胸の中のしんたろうを見ると、にこりと微笑まれて目頭が熱くなる。
「先生!! 逃げられると思っているの!?」
鋭い声で呼び止められ、真一郎は足を止めた。
燃え盛る炎を背に、久是が般若のような形相で真一郎を睨みつけていた。もう自分の愛した女はいないのだと、真一郎は唇を噛み締めた。
「この子は僕が守る…!」
「…っ」
真一郎は久是を強く睨みつける。初めて見る表情に久是は思わず後ずさる。
赤ん坊を強く抱きしめ、真一郎は山の中に紛れた。
「…今は見逃してあげるわ先生。時期が来るまでは」
ひと目を避けて何とか山を降り、やっと地元に戻った真一郎は、その足で直樹の家へ向かったのだった。
***
「直樹に中学生の頃聞いた顎狙うやつ、初めて使ったよ」
「お前、筋トレはずっと続けてたもんな。使う機会がないのが一番だがよかった」
中学生の頃、喧嘩に巻き込まれて何もできなかった真一郎に、直樹は一つだけ喧嘩で使える方法を教えていた。
火事で慌てて近づいてきた見張りを一発で沈められたのは、直樹の助言のおかげだったのだ。
それでも直樹に会うのは、正直怖かった。
直樹まで久是のように変わってしまっていたら。
「お前さっき”俺まで変わってたら”とか言ってたな。俺ァそんなに信用ねえのかよ?」
「な、なお…」
直樹は真一郎の顔を掴み上げると、鋭い目で真一郎を覗き込む。
その目にじわじわと涙が溢れ、頬を流れ落ちていく。その様子に、真一郎も涙が溢れた。
「何十年も一緒にいたのに、クソみてぇな女と一緒にすんじゃねえよ!! 俺は……っ」
「ごめん直樹…ごめ……」
「うるせぇっもう謝んな!」
「あのぉ、いい歳の男二人に泣かれても困るんでぇ、鼻かんでもらっていいですかあ」
泣きながら向かい合う二人に、全く空気を読まない龍己の間延びした声が響く。
直樹は差し出されたティッシュを箱ごと奪うと、鼻をかみながら龍己を睨む。
「あのなあ…お前じゃなかったら俺はとっくに殴ってんぞ」
「んな顔で言われてもぉ」
「ぷっなんかすごい懐かしいよ、このやり取り」
張り詰めていた空気が一気に霧散し、掛け合いをする直樹と龍己を見た真一郎は泣きながら笑い始めた。
「二人とも全然変わってない…本当に良かった。僕は何を心配してたんだろう」
「…愛した女が化物になったら、誰だってそうなるだろ……怒鳴ってすまなかった」
「ううん、こっちこそごめんね」
ようやく落ち着いた二人を後目に、龍己はコーヒーを入れにキッチンへ引っ込んだ。あまりのマイペースぶりに、闇医者も呆れたような目を向ける。
「…で、これからどうする? 報復するなら手ェ貸すぞ」
「そんなつもりはないよ…僕はしんたろうと普通に暮らしたいだけだから」
しんたろうにミルクを飲ませながら、真一郎は淡々と答えた。
これまでの話を聞き、直樹は拳を握り締める。優しいこの男から全てを奪った女が憎くて仕方なかった。
「そこまでやる女が、そう簡単に諦めるとは思えねぇがな」
「…でも大学や家には戻れない。場所を知られてるし、どこかに逃げるよ。直樹に迷惑は」
「……だからな?」
「あちちちっ」
真一郎の言葉を遮るように、直樹はコーヒーの入ったカップを顔に押し付ける。
「警察に行くのはどうだ? 何なら俺にもツテあるぞ?」
「いや…久是の村でテレビとかで見たことある警察の偉い人とか、政治家がいたから難しいかな」
「そうか……真一郎。お前全てを捨てる覚悟はあるか? 友人も仕事もこれまでの人生全てを」
「うん。しんたろうと生きていけるなら」
強い決意が籠もった瞳で、真一郎は直樹を真っ直ぐに見る。
普段は優しい真一郎だが、実は強い意志を持っている。それが現れる目を見るのが直樹は好きだった。
変わらないその目にニヤリと笑う。
「お前ならそう言うと思ったよ。じゃあまず親父に電話するか」
「ど、どうするの?」
「俺がヤクザだって忘れたか? 戸籍ぐらいすぐ準備してやる。家も仕事も全部だ」
職業柄、人の戸籍を操作することなど、造作も無い。
真一郎の肩にゆっくり手を置くと、直樹は優しく語りかける。
「しばらくはウチで暮らせ。これからはその子と幸せに生きることを考えろよ」
「……あり、がと…っ直樹…」
「気にすんな。俺との付き合いは逆に問題ねえから」
溢れる涙を拭いながら、真一郎は何度も頷く。
「後な、今日は龍己と俺でその子の面倒みるから、お前少し寝てこい」
「で、でも」
「お前が倒れたら誰がその子…しんたろうを守るんだ?」
呆れた声でそれでも優しく言われた真一郎は、ようやく肩の力が抜ける気がした。
にこりと微笑みしんたろうをそっと直樹に託す。
「分かった。ありがとう、なお…」
「真一郎!?」
「安心して緊張の糸が切れたんだろう。後でベッドに運んでやんなよ、若」
ソファに倒れ込んだ真一郎は静かに寝息を立てていた。直樹はほっと胸を撫で下ろすと、しんたろうをあやしながら微笑む。
「起きたら色々話そうな。おやすみ、真一郎」
……夢を見た。
夢の中でしんたろうは楽しそうに笑っていて。
僕は、絶対にこの子の笑顔を守ると誓った。
それから数日経ち、直樹は新たな戸籍謄本を持ってきた。
完全に本物のそれを見て、流石に真一郎の背に冷や汗が落ちる。
「ほれ、新しい戸籍だ」
「うわあ…本物だ。公文書偽造ってそんな簡単にできるものなの? 君は何者なのさ」
「だからヤクザだっつの。何を今さら」
呆れたように煙草を燻らす直樹に、真一郎はまじまじとその顔を見た。
すぐ近くでは、夜の街へ出勤前の女性に囲まれたしんたろうの姿があった。クマの着ぐるみのような格好でご機嫌なしんたろうは、にこにこ微笑みそのたびに嬌声が上がる。
「しんたろう、すっかりココのアイドルだなぁ」
「アハハ! しんたろうは可愛いからね! 今もかわいいんだけど生まれたばっかりの時なんてもう天使かと思えるほどでホント写真が撮れないのが悔しくて仕方なくてさ」
「…お、おう(こいつこんな奴だったっけ…?)」
ワンブレスで愛おしさを語るほどに、真一郎は親バカになっている。
直樹は若干引きつつも、再会したときより笑顔が格段に増えた親友に笑みがこぼれる。
「仕事も家も手配終わったからな、これから頑張れよ──鏡也」
「うん、何から何まで本当にありがとう。これからもよろしくね、直樹」
その日、一人の男が死に、新たな人生を歩み出した。
戸籍上の名は鏡也。
「妻を病気で亡くし、息子と二人暮らしている」という、ひとりの男として。
そして直樹の部屋に写真が一枚増えた。
若い二人の写真の横に、少し大きくなったしんたろうを抱える鏡也と、直樹の三人が笑顔で映る写真が。
***
ここで話は終わったはずだった。
自分の所有するフロント企業を真一郎の職場とし、しばらくは見張りもつけていた。
常にヤクザに見張られている状態だったからか、女からの追撃はなく、成長していったしんたろうは最近成人したばかりだった。
なぜ今になってしんたろうを攫ったのか。
なぜ油断してしまったのか。
数えきれない後悔が直樹の心を深く抉る。
直樹はいつかの再来の如く、しんたろうの捜索を始めたが、手掛かりは皆無だった。




