第5話 父の記憶──喪失
真っ暗な闇の中、寿はたゆたうように逆さまのまま浮かんでいた。そこには以前と同じく、シャボン玉のように揺れる映像があった。
たくさんの声と感情が頭に響き、寿は思わず耳をふさいだが、映像は止まることなく流れていく。
『知らない声…僕の記憶じゃない?』
恐る恐る虹色に輝く膜へ手を触れると、強い力に体を引っ張られ──次の瞬間、寿は知らない家の中にいた。
目の前で知らない眼鏡の男が、本を読みながら座っている。テーブルの上にあるティーカップは既に空になっていたが、男は本に集中しているのか気づいていない。
「ただいまー腹減ったー」
「おかえり、しんたろう」
玄関の引き戸を開ける音が聞こえて、男はふと顔を上げた。
廊下を歩く音が聞こえ、男の前まで来たしんたろうは男に話しかける。
ぱたんと読んでいた本を閉じると、男は微笑みながらしんたろうに視線を向ける。その笑みはしんたろうに似ていた。
「カレーってまだ残ってたっけ?」
「うん。今支度するね」
「父さんも一緒に食べようよ。お茶準備するよ」
体が勝手に動いたと感じた瞬間、寿の意識はその体から抜けた。
呆然と二人が台所へ移動するのを見つめている内に、今何が起こっているのか不意に気づく。
『違う、これはしんたろうの記憶だ……』
「先に手を洗っておいで、しんたろう」
「はーい」
応えながらしんたろうは蛇口を捻った。当たり前に交わされる親子の会話に、寿は胸がちくりと痛む。
自分も同じように、しんたろうから温かく迎えてもらえるだろうか。
と、その時玄関からチャイムが響いた。
「ん? こんな時間に誰だろ?」
「禊ちゃん、にしては遅いか」
「さっきまで会ってたから違うんじゃないかな。何だろう」
ちらりと時計を見ながら、しんたろうは手を拭くと台所から玄関を覗いた。
ガラス戸の向こうに、長身のシルエットが映る。
「回覧板かな? ちょっと行ってくる」
「うん。ご飯の支度しとくね」
ゆっくりと玄関へ向かうしんたろうを見ながら、寿の胸に嫌な予感が過る。
(なんでだろう。あのドアを開けちゃいけない気がする…)
「どちら様?」
「書留ですー鏡也様宛に」
父宛てのものかと、しんたろうはサンダルを履くと、何の気なしに玄関の鍵を開け引き戸を開いた。
目の前には何も持っていない金髪の男──えいじが立っていた。その顔に赤い刺青はなかったが、冷淡な光を宿す蒼の瞳は寿を見下ろしたあの目だった。驚愕に寿は息を飲む。
「…書留じゃないな。あー勧誘とかなら間に合って…」
「平和な脳みそだな」
言うが早いかえいじは拳をしんたろうに叩き込んだ。
咄嗟にガードした腕に走る、じりじりとした痛みは、記憶と共に現実のものとして寿の腕にも伝わってきた。
よろけて上がり框まで後ずさったしんたろうをにやりと見ると、えいじはそのまま玄関に押し入る。
「っ…何だお前…!?」
「いい反応じゃねぇか。想定外だ」
笑いながらえいじは反対の手で追撃を仕掛けた。
同じようにガードしたしんたろうだったが、防いだ瞬間焼けるような激痛が走り思わず膝をつく。
「ぐ、ぅ…っ」
「こういうのは初めてだろ? お坊ちゃん」
にやにやと笑うえいじの手の中で、スタンガンがばちりと唸る。
初めて受けた衝撃に戸惑うしんたろうに、えいじは容赦無く二打目を打ち込んだ。しんたろうの体が痙攣し、廊下に仰向けに倒れ込む。
激痛に声が出ないしんたろうの胸倉を掴み上げた瞬間、鏡也が台所から飛び出してきた。
「しんたろうを離せ! お前一体…」
「騒ぐなよ鏡也さん…いや──真一郎?」
「なっ…!」
真一郎と呼ばれ、鏡也の顔に動揺が走る。えいじの顔が愉悦に歪んだ。
「昔は帝大の准教授だったらしいな」
「そうよ。そして私の夫。久しぶりね先生」
「久是…! 君と結婚した覚えはないっ!!」
えいじの影から、久是と呼ばれた女が微笑みながら現れた。その顔に吐き気を堪えるように、鏡也は口元を押さえる。
捕食者を思わせる冷酷なその笑みに、寿の背筋を冷たいものが這い上がる。
父さんの妻…母さん?
亡くなったんじゃ…真一郎って……
しんたろうの疑問が寿の思考に入り込んでくる。
えいじはその様子に気づいたのか、膝を着きしんたろうの顔を覗き込みながら囁いた。
「真一郎ってのは、お前の父親の本当の名前だ」
「……!?」
えいじの言葉に、しんたろうは混乱する。
だがその言葉が真実だと、父の顔を見て悟った。
なんで名前を…
「まさか先生があんな事までして、その子と逃げるとは思わなかったわ」
「当たり前だ! しんたろうは僕の大事な息子だ!!」
強い目で睨みつけながら、真一郎は拳を握り締める。
久是はにやりと笑うと、サイレンサーのついた銃を向けた。
「いやねぇ、先生…その子は私の息子でもあるのよ。私達が世界を変えるための、大事な道具なのよ?」
しんたろうは、母は自分を生んだ後、病死したと聞かされていた。だが女は自分を母親だと嗤う。
温かみなど一切感じさせない声で。
「まだそんな事を言ってるのか…まさか……!」
真一郎の目が驚愕に見開かれる。久是は口の端を吊り上げた。
「機は熟したわ。あなたはもう要らないのよ、先生」
「久是…っ!」
カチンと撃鉄の下りる音が静かに響き、真一郎はがくりと崩折れた。
左腕で押さえた腹から血が滲んでいく。
『あ、ああ…!!』
しんたろうの気持ちが寿の心に流れ込み、経験したことがない深い悲しみが胸を貫く。
寿は目を見開き震えながら口元を押さえた。
「と、うさ…ん……!!」
震える腕を必死で伸ばすが、指先は空を掻くばかりで、しんたろうは悔しさに顔を歪めた。涙が溢れて視界が滲んでいく。
荒い息の下で、真一郎はしんたろうに僅かに微笑んだ。
「しんたろう……君は生きて、幸せに…」
「父さ、ん…!!」
「さよなら、先生」
二人のやり取りを見ながら冷笑を浮かべる久是は、再度真一郎を撃った。
真一郎は言葉を発することなく崩れ落ち、じわじわと血溜まりが広がっていく。
「あ、ああああ…っ!!」
「うるせえ男だな」
慟哭を上げるしんたろうにえいじは冷ややかに吐き捨てると、しんたろうの首筋にスタンガンを叩きつけた。
しんたろうの意識が捥ぎ取られるように消失し、寿の視界も黒く塗りつぶされていった。
「丁重に扱いなさいよ。大事な道具なんだから」
「チッ、分かったよ。ここは焼き払えばいいか?」
「ええ、何の痕跡も残さないようにね」
消えていく意識の中で最後に聞こえた会話は、目の前で起こったことに何の痛痒も感じていない声だった。
『しんたろうも…僕と同じでさらわれたんだ…』
再びシャボン玉の浮かぶ空間に戻され、寿は呆然と呟いた。
深い悲しみはまだ尾を引き、寿は胸の前に組んだ手を強く握り締めた。
現実の世界に戻るのかと思ったが、新たな映像が浮かび上がってくる。
真一郎でもしんたろうでもない、あまりに強い誰かの意識が、寿にしんたろうも知らないはずの記憶を見せていた。
***
吊り目気味のその男は、燃え上がるしんたろうの家の前で動揺に瞳を揺らした。
強い怒りと後悔の念が、寿の心を焦がさんばかりに入り込む。
彼の中にフラッシュバックする記憶は、彼が真一郎の友人で直樹という人物だと伝えてくる。
「真一郎ぉ!!! 離せ龍己っ!!」
「直樹さん! あんたまで危ないっすよ!!」
直樹は龍己の制止を振り切り、燃え盛る家の中へと突っ込んだ。煙を吸い込まないよう布で口元を覆い、床に低く身構えながらあたりを見回す。
廊下にうつ伏せに倒れた真一郎の姿が目に入り、直樹は慌てて駆け寄った。
「真一郎! しっかりしろ真一郎!!」
揺すっても動かない真一郎を抱きかかえ、直樹は突き当りの勝手口を蹴り破り脱出した。
煤にまみれた真一郎の体は、火災によるものとは思えぬほど、血にべっとりと塗れていた。そしてその傷跡が銃創だということに瞬時に気づき、直樹は血の気が引くのを感じた。
「なんでこんな…」
「な、ぉ…」
うっすらと目を開けて、真一郎はか細い声で直樹に話しかけた。
言葉を紡ぐたびに血が溢れ、直樹は歯を軋らせながら傷口を押さえた。
「真一郎しゃべるな! 今救急車が…」
「…しんた、ろ…攫わ、れ……た、すけ、て…」
「!! 分かった、絶対に助ける!! だから、もう…!」
「あり、が、と……」
真一郎は力なく微笑むと、そのまま目を閉じた。
その体から力が抜けて、直樹は瞠目する。
「真一郎っ…真一郎……!!」
銃創の場所と出血量で、助からないことは分かりきっていた。何故危険を察知できなかったのかと、深い後悔が直樹を襲う。
まるで心の一部を音も無く失い、虚が広がるような喪失感に心臓が冷たく脈打つ。足から力が抜けて崩れ落ちそうになった。だが友に託された最期の言葉が、凍てつき止まってしまいそうな心を、辛うじて繋ぎ止める。
「……心配はいらねえ。俺が必ず…!!」
腕の中で冷たくなっていく体を抱きしめながら、直樹は強く決心する。
絶対にしんたろうを救い出し、あの女を殺すと。
爆発するような感情は、直樹の記憶を寿に伝えた。寿はあまりの光景に絶句した。
こんなに強烈な怒りと憎しみの感情は知らない。
閉ざされていく闇の中、寿は強く両手を握りしめた。




