末の弟 ** 第30話【過去編】泡沫の裏で **
携帯のバイブが鳴り、直樹は届いたメールを確認する。
それは今日も定時で帰宅するという、しんたろうからの連絡だった。
無意識に表情が和らぐ直樹を見ながら、ボールペンを回していた龍己はゆっくり立ち上がると軽く体を伸ばした。
「今日も無事、しんたろうは帰路につくらしい」
「分かりましたぁ。じゃ、行ってきますねえ」
しんたろうが社会復帰を果たした頃から、出勤時は直樹たちがこっそり尾行していた。
えいじという首謀者はこの世になく、イドラが何かしてくることは恐らくない。それでも真一郎を失った時の後悔が、今もしんたろうを警備する、という形になっている。
しんたろうが気にするので、バレないようにこっそりと。そこに直樹の本気度が透けて見える。
そして警備は余程のことがない限り、龍己が買って出ていた。
「別にお前が行かなくてもいいんだぞ? 他の奴でも」
「オレより上手くできる奴はいないんでえ。それにオレも心配なんですよ、可愛い弟分なんで」
目を丸くする直樹に、龍己はにやりと笑うと軽く頭を下げて部屋を出た。
勤め先を出るしんたろうの姿を確認し、龍己は向かいにある喫茶店から出る。
買い物などがない限り、しんたろうは真っ直ぐ帰ることがほとんどだ。
一定の距離を保ちつつ、しんたろうの後を追う。
龍己も六年間何も出来なかったことを後悔していた。喧嘩の方法も素直に学び、優しく育ったしんたろうを、末の弟のように想っていたからだ。
もう二度とあんな辛い目には遭わせたくない。
龍己はポケットに手を突っ込んだまま、しんたろうを追っていると、工事現場があった。
「すみませーん! 水道管工事なのでこっちに迂回して下さい」
「はーい」
作業員に促され、しんたろうは細い路地に入って行った。
あの道は確か少し暗い道だったなと、龍己は考えつつ後を追おうとしした。
その時、同じように通ろうとした少女が一人、困ったように作業員に尋ねた。
「あれー? この道通れないんです?」
「大丈夫ですよー休工中ですから」
迂回路を示す看板を片付けながら、作業員はにこりと微笑んだ。
龍己の背にぞわりとした悪寒が走る。
まさかまた、何かが起ころうとしているのではないか。
焦燥に駆られ走り出そうとした瞬間、腕を掴まれて龍己は勢いよく振り返った。
フードを目深に被った男が、龍己の腕を掴んでいた。
その口元がにやりと歪み、腕に小さな痛みが走る。慌てて振り払うも、視界がぐにゃりと眩む。
「な、ん…」
「あいつの幸福な日常は終わりだ。いい加減お前らヤクザも鬱陶しいんだよ」
心底愉しげに男は告げた。何をされたのか理解するより先に、龍己の体から力が抜けていく。
何とか立とうとするが、視界が少しずつ暗闇に呑まれていく。龍己は悔しさに歯を食いしばった。
「直樹っつったか。お前の主人は。また何もできないまま、あいつは俺の道具に戻る。残念だったな」
「く、そ…ふざけ、るな……」
噛み付くように叫ぼうとするも、声が震えてほとんど音にならない。
「じゃあな」
「…な、おき…さ……」
男の嘲笑う声を最後に、龍己の体は頽れた。
突然倒れた龍己に、悲鳴が上がる。
男は構うことなく、細い路地へと消えた。
***
「……タツ…」
病院から連絡を受けた直樹が駆けつけた時、龍己は既に息を引き取っていた。急性心不全だと、監察医からは伝えられた。
だが、握りしめられたままの手は、何かが起こったことを伝えているようにしか、直樹には見えない。
顔を覆われた布を剥いで見たその顔は、眠っているようにしか見えなかった。直樹は唇を噛みながら拳を握りしめる。
時を同じくして、しんたろうと禊の家は火災で焼失し、二人と胎児の死亡が確認されている。だが直樹はそれを信じなかった。
禊の遺体は確認した。だがしんたろうとされた遺体に、違和感しかなかったからだ。
立て続けに起こった不審な死。何かが始まってしまったのではないか。
「…こちらが遺品です。ポケットの中に入っていました」
「……ありがとう」
監察医から渡されたのは、一見ただのボールペンだった。直樹は覚えている。それがボールペンを模したボイスレコーダーであったことを。
直樹はその場でボイスレコーダーを再生し、音声を聞くべく耳に当てた。再生されたのは、龍己が命をかけて伝えようとした、男との顛末だった。
最後に直樹の名前を呟き、倒れる音と共に音声は終わった。
握りしめた直樹の手のひらから、幾筋も血が流れ落ちていく。
「どいつもこいつも、俺を舐めやがって…!」
業火の如き怒りが、低く呟かれる。
何度奪えば気が済むのか。
龍己も自身もヤクザである以上、道端で殺されドブに捨てられる死はあり得た。
それでもあんな男に、嗤われながら殺される筋合いはない。
龍己の手を強く握り、直樹は静かに誓う。
お前が守ろうとした弟は、俺が絶対に助けてやる。
だから、お前は真一郎と一緒に見守っていてくれ……!




