第42話 叔父の記憶──諦観
『この子は…えいじ?』
小さなその子どもは、何度となく見たしんたろうと同じように、それ以上にぼろぼろだった。
「や、だ…っ! やめてよ…!」
「誰かが助けてくれるとでも?」
泣き叫ぶえいじに構うことなく、容赦の無い手がえいじを何度も殴りつける。
その言葉は、寿がかつてえいじに言われた言葉だった。
『…ああ…!!』
えいじとしんじは幼い頃は一緒に育てられていた。
それは普通の子どもと変わらぬ生活だったが、五歳を過ぎる頃久是はえいじに対してのみ豹変し、虐待を加えるようになる。
床に倒れたままのえいじの瞳は、少しずつ希望の光を失っていく。
えいじの幼少期がそんな凄惨なものとは思わず、寿は息を呑む。えいじがかつて味わった絶望と痛みが心を襲い、寿は涙が止まらない。
これはしんたろうへの所業の記憶ではなく、えいじ自身が受けた暴虐の記憶だった。
十歳を過ぎる頃、完全に二人は離される。えいじは帝王学を学ばされ、殺人術を叩きこむため、異国の地でイドラの息がかかる違法な傭兵団に送られた。
そこから七年、血と泥水に塗れながら生き延びる人生を、えいじは強要されていた。
「お前俺と同い年だろ? 仲良くやろうぜ」
「…勝手にしろ」
えいじの周りの犠牲者は、しんたろうの時とは真逆の言葉を吐いた。
「お前に付いて行けば、安全だって言われてたのに…!」
(勝手についてきたのはお前じゃないか。人を盾にしといて何ほざきやがる)
「全部お前のせいだ! お前のせいで俺は…!」
(お前が弱かったせいだろ? 敵と内通してたのを俺が知らなかったとでも思うのか)
***
ここ一週間、ずっと雨が降り続けていた。
分厚い雲が光を遮り、昼間だと言うのに辺りは薄暗い。
えいじは無言で天を仰いだ。
傭兵団の本拠地は静寂に包まれている。血の海だけが辺りに広がっていた。
静かな、一方的な虐殺だった。
えいじは銃火器は一切使用せず、十数人いた仲間の首を掻き切った。
ただ一発だけ銃声が響いた。
「えい、じ…」
「エリアス。あんたで最後だ」
「はは…でっかくなったなぁ…あんなに小さな、ガキだったのに」
男はえいじが幼いころから、親のように接していた。
唯一えいじがこの地へ送られた理由を知る、組織のトップでもあった。
彼にだけえいじはナイフを使わず、呆然と立ち尽くすその胸を撃ちぬいた。即死に到らなかったのは偶然か、最期に話したかったからなのか、えいじ自身にも分からない。
崩れた木箱に身を預け、エリアスは震える手で煙草に火を着けた。辛うじて着いた火が、雨に打たれて小さく音を立てる。
「お前は可哀想なやつ…だなあ…」
「可哀想? 俺は今楽しくて仕方ねえよ。こんな場所からようやく日本へ帰れるんだからな」
「…なら…なんでそんな顔をする…」
「……」
男の質問に、えいじは何も答えなかった。
久是のえいじへの命令を、エリアスは当然知っていた。日本に戻りたければ、傭兵団を壊滅させるほどの力をつけろと。
それでもいつか自分に心を開き、この地で共に生きていけるかもしれないと、淡い望みを抱いていた。
イドラの巨大な権力からも、えいじ一人ぐらい守ってみせる。そう思っていた。
あんな狂気の女がいる国になど戻らずとも、ここにいる仲間が家族なのだと、思えるようになってほしかった。
……俺じゃあ…無理だったか…
「いつか…お前を…救える、やつが…現れ、る…さ」
「…くだらねえな。俺は何も思っちゃいねえ。救われる必要がどこにある」
「い、つか…きっ、と…」
男の咥えていた煙草がするりと地面に落ち、血だまりで音を立てた。
「…あーー…くだらねえな」
ひとりごちると、えいじは男に背を向け歩み始めた。
遠くからヘリが飛んでくる音が聞こえる。自ら地獄へ戻るため、その地獄を終わらせるために、えいじは一人歩き続ける。
もう振り返ることはなかった。
***
心を裂かれるような事が起こる度、えいじの感情は少しずつ削られていく。
やがてえいじは傷つく前に、突き放すことを覚えた。
信頼関係など築かなければ、心を閉ざしてしまえば。誰も自分を傷つけたりなどできないから。
奪われる前に奪ってしまえば。誰も自分から奪うことはできないから。
愛だの妄言を吐く者に、蹂躙の限りを尽くし、えいじは狂気へと沈んでいく。
それを諦めとは認めなかった。
異国の地で、懐にしまってある写真を眺める。
それは幼いしんたろうの写真だった。
母がよこした唯一の、自分の兄の写真。古くなったそれを、えいじは大事そうに抱える。
しんたろう。俺の兄。
この人なら俺を見てくれるだろうか。その顔で俺に笑いかけてくれるだろうか。
人間は千の喜びより一の苦しみを覚えているらしい。
千を超える苦しみしか知らない俺は?
一の喜びすらない俺は。
ああ。でも。俺には何もない。
俺には、何もない。
「おかえりなさい。愛しい我が一族の末裔──永久」
「…ハッ、反吐が出る挨拶だな、久是」
帰国後早々に意識を奪われ、気づいた時には首輪を付けられていた。
強制された首輪は、久是の持つスイッチ一つでえいじの自由を電流で奪う。えいじは忌々しげに爪を立てた。
あの女は俺のやろうとしている事を察している。
傭兵時代の古傷が今になって悪化したのも、あの女の仕業だろう。もって一年といったところか。
えいじは俯きながら脇腹に触れる。
無数の傷痕が指先に触れて、思わず唇の端を吊り上げる。
神事の体を奪い、俺は無傷の体に再生する。
そして兄──真太郎を魂の底まで壊してやる。
異国の地で燃やした写真を思い、歪な笑みを浮かべえいじは嗤った。
もう、引き返すつもりはない。
「──はは、そうだ。全部壊しちまえばいいんだ」
***
「ぐ…」
苦しげなえいじの声に、寿は意識を取り戻した。
空は少しずつ明るくなり始めている。夜が、終わりを告げようとしていた。
精神に干渉するための力は、えいじに最早残されてはいなかった。元々入念な下準備をしていない状態で、同じ超能力者相手に使うには、抵抗が強すぎて難しい。
がくりと膝をついたえいじに向かって、寿はゆっくり両腕を持ち上げる。
えいじは憎々しげに拳を握り締めた。
「……畜生…こんな、ところで…」
「えいじ…」
怨嗟の声を漏らすえいじを、寿は両腕で抱きしめた。えいじは驚愕に息を呑む。
きっと日が昇り切るのを待たずに、えいじの体は崩壊してしまうだろう。それを止める事が出来るほどの時間もなかった。
寿はえいじを抱きしめることしかできない。
それでも。
「えいじ…僕はもう怒ってないよ」
「…は……?」
「だから…何もないなんて、思わないで」
突然の言葉に、さしものえいじも言葉を失う。抱きしめられた体はじんわりと温かった。
えいじの肩口を寿の涙が濡らしていく。
「俺の記憶を…見たのか」
「…うん…勝手にごめんね。僕はえいじにも会えてよかったよ」
口を開けたままえいじは目を見開いた。何を言っているのか頭が理解を拒むが、突き放すだけの力もなかった。
──いや、突き放す気にもならなかった。
「しんたろうに会わせてくれるって言われて、嬉しかった。目的は違ったかもしれないけど、それでも」
更に強く抱きしめられて、その温もりにえいじは目を細めた。
気づいてしまった。これが、自分の求めていたものだと。
「ははは…ゲホっ、なんだ、下らねえ」
「え…?」
自分が本当に求めていたのは、こんなに小さなことだったのかと思うと。
それを得る機会を自ら踏み躙って来たのだと思うと、えいじは笑いが止まらない。
「…お前の、ガキは…無茶苦茶だな…ククッ」
「お前の甥でもあるんだ。えいじ」
「……甥、ねえ…」
しんたろうに視線を向け、えいじは自嘲するように苦笑する。
同じ親から生まれ、すべてを持っていたしんたろうが憎かった。自分と何が違うと言うのか。
すべてを奪ってもなお、奪いきれなかった彼の心を壊したかった。自分と同じようになればいい。
だが気づいてしまえば、なんという事はない。
すべてを壊したかったわけでも、手に入れたかったわけでもない。
──自分は誰かの心に赦されたかった。
生きていてもいいと、そう言われたかった。
「えいじ?」
「……くだらねえ…」
「いたっ」
言うなりえいじは寿を床に押し倒した。完全に油断していた寿は、強かに頭をぶつけて小さく呻く。
えいじは寿に跨ると、その首に手をかけた。だがその手に力はなく、寿は戸惑いながらえいじを見上げた。
「え、いじ…?」
その顔に浮かぶ笑みはいつもの厭味な笑みではなく、何かから開放されたような、穏やかな微笑みだった。
その頬を一筋の涙が伝う。
「大した、ガキだよ。お前は」
「すごくいい子だろ、俺の息子は」
「父親、以上に……甘い…」
えいじは穏やかに目を細め微笑んだ。
首を掴んでいた腕がざらりと崩れ、寿は目を見開いた。微笑むえいじの体が崩壊していく。
寿は慌てて起き上がると、崩れていく体を必死で抱きしめ、何度も名前を叫んだ。
「えいじ! 死なないで…えいじ!!」
「はは……あー…くだら、ねえ…」
死ぬことばかり望まれてきた自分の死を、ただ哀しむ者がいるだけでこんなに嬉しいなんて。
「俺は、お前を赦すよ」
「…はぁ? お人好しかよ……お前に、は…俺を殺す…権利がある、だろ…」
「そんな権利なんか、誰にもない。俺が自分のエゴで…お前を殺すだけだ」
途切れ途切れながらも、しんたろうは言い放った。
その瞳には憎しみもなく、えいじが欲しかった柔らかな感情が湛えられている。
「された事は赦せなくても、お前の存在まで…否定する気はないよ」
「赦す…ねえ…」
はっきりと言い切るしんたろうの顔を見る。
体を乗っ取ったあの日、しんじも同じ顔をしていたなとえいじはふと思い出した。
そうか…あれは俺への憐憫と、罪悪感だったのか。
傀儡のくせにと侮り、見ることさえしていなかった弟の、人間らしい感情だったのか。
「どいつも……甘い…奴ばかりだ…」
動かなくなりつつある残った腕を、ゆっくり持ち上げる。
えいじは、自分を抱きしめる寿の背を軽く撫ぜた。
「えいじ…もっと違う形で、会えたらよかったよ…俺の弟たちに。もし出会いが違ったら俺達はきっと…」
「…はは、は…バカ、が…」
生まれて初めて心が軽くなっていくことを感じ、えいじは柔らかく微笑んだ。
朝日が辺りを明るく照らしていく。世界はこんなにも美しいものだったのかと、えいじは目を細めた。
遠い昔に見た異国の空も、同じように美しかった事を思い出しながら。
「こと、ぶき…お前に」
掠れた小さな声で囁いた瞬間、えいじの体が崩れて消えた。
「あ、あああ…!」
寿は残された服を抱きしめて、慟哭を上げることしかできない。涙が溢れて止まらなかった。




