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僕の願いが世界を変える──泥より出でて、泥に染まらぬもの  作者: 露隠とかず
メインストーリー

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第38話 兄の責任

 しんたろうは銃の照準から身を外すため、ポケットから球を取り出し、地面に投げつけた。

 辺りを煙幕が覆い、煙に紛れながら斜め前にあったエレベータに転がり込むと、急いでドアを閉めて最上階のスイッチを押す。

 ドアが閉まる直前、残忍な笑みを浮かべるえいじと目があった。


「今さら何をした所で無駄だしんたろう。お前はここで死ぬんだよ」




「くそ…思い切り殴りやがって…」


 エレベーターの中で、しんたろうは直樹に格闘技を習っていた頃のことを思い出していた。

 その日々があったからこそ、えいじに立ち向かうことができた。

 二人の父と呼べる父と直樹に、よく戦うことの心構えを話された。



「しんたろう、いつか理不尽な暴力で傷つけようとしたり、君を貶めようとする者がいるかもしれない。それでも、言葉を重ねることに意味があるんだよ」


「いいか、しんたろう。理不尽には抗え。鏡也の言うように言葉で解決するならいいが、何ともならねえ事もあるんだ」


 鏡也の言葉と直樹の言葉が、あまりにも真逆すぎてしんたろうは苦笑した。

 どちらも真理だろうし、どちらも必要な事だと、しんたろうは頷いた。


「だから直樹さんは格闘技を? でも厳しすぎますよ…」

「タツ呼ぶか? 俺は別に構わんが」

「いえ、直樹さん、お願いします」


 若頭の龍己は直樹の右腕で、しんたろうにとって兄のような存在だ。だが直樹以上に加減を知らず、龍己に教わった翌日は身体中が軋むほど扱かれる。

 しんたろうは慌てて首を振りながら立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。

 直樹は苦笑を浮かべ、肩を回しながら構え直す。


「まあ使う機会はないに越したこたねえが、覚えて困るもんでもないさ」

「分かりました。お願いします!」

「次は後ろ回し蹴りを教えてやる。大技で外すとスキは大きいが、相手が油断してたら意外と使えるんだ。ただ寸止めできねぇから避けろ」

「......頑張ります」


 何とも言えない表情で、しんたろうは構えをとった。

 直樹もそれを見て構えたが、しんたろうの後ろを見て呆れたように溜息を吐いた。


「んじゃぁ、その後でオレと組み手しよっかあ」

「ひぇ、タ、タツ兄……」


 ぽん、と肩に手を置かれて振り返ると、そこには龍己が笑顔を浮かべ立っていた。

 その顔から先ほどのやりとりを見られていたと気づき、しんたろうは固まった。


 ヤバい、この笑顔は扱かれる…



 直樹はにやりと笑う。その顔は実に楽しそうで、そう言えば二人とも四十歳を迎えてもなお、喧嘩っ早いんだったと鏡也は思い出した。

 子どもの頃、顎先に当てる方法を実戦を例に話していた直樹を思い出し、苦笑いを浮かべた。



 ***



「……ふー」


 まだ体は思うとおりに動く。

 だが負傷や運動量が極端に増えていく状態では、薬が活性化させている《非時》の治癒力も、すぐに底を迎えてしまう。

 えいじの拳に加減は無い。暴行の果て、暗闇の先に待つのは二度と目覚める事の無い死。


「…寿、何を言いかけてたんだろう。聞けなくてごめん…」


 しんたろうは小さく呟いた。寿から離れ、更に最上階まで行く。

 えいじを殺すのは自分の役目だ。禊や寿に会いたいという願いのために、命の領域を侵し続けた自身の最後の責任だと、しんたろうは強く思う。

 そして兄として、最後の責任を果たす。たとえそれが自分の死と引き換えになるとしても。


 エレベータが止まり、しんたろうは屋上に出た。

 鉄柵で囲まれたそこは、十分な広さがある。すぐに追ってくるであろうえいじに備えようとしたその時、自分の立っている床に黒い染みが広がりはじめた。

 しんたろうは慌ててその場を飛び退く。


「!?」


 次の瞬間、床が漆黒の闇を映す穴に取り込まれ消滅した。まるで最初から何もなかったかのように。


「な…!?」


 穴から発せられた衝撃波が、しんたろうの腹を穿った。一瞬呼吸が止まり膝を着く。

 開いた穴からえいじがゆっくりと姿を現した。


「ディラックの海。反粒子は俺と相性がいいらしいな」

「…っ!」


 反撃の隙も与えられず、前髪を鷲掴みにされそのまま鉄柵に叩きつけられる。しんたろうはずるずると崩折れた。


「ぐ…」

「お前には使わねえ。楽に死ねると思うなよ?」


 言うなり左から襲った膝打ちに頭を強打され、しんたろうは床を転がる。

 容赦の無い連撃に意識が飛びかけた。


「くそ…っ」


 しんたろうは床に手を着くと、反動で後ろへ跳んだ。

 これ以上続けて殴られたら、反撃以前に命が危うい。


「ははは! 逃げ回ってばかりかよ!」

「っ、サディストが…!」


 反撃に放った拳が空気を裂いてえいじの顔面を狙うが、命中したと思ったそれは、ギリギリに掠めただけに終わった。

 伸ばしきった腕を戻す間も無く、えいじの膝蹴りが今度は胸の中心を穿つ。

 みしりと胸骨が厭な音を立て、激痛に言葉も出ない。弾かれたしんたろうの体が、再度床を転がった。


「ゴホッ、ゲホッ…!」

「大口叩いといてこれで終わりか?」


 右足で蹴り飛ばされ、仰向けに倒れたしんたろうの腕をえいじが掴んだ。

 肩口を踏みつけながら、えいじは唇の端を吊り上げる。


「命乞いでもしてみるかぁ? クズらしくよ!」


 えいじの足に力が入る。鎖骨は直ぐに悲鳴を上げ始めた。踵が胸骨をも踏みつけて、折れた骨が肺に突き刺さる。

 逃れようにも片腕はえいじに踏まれ、ピクリとも動かない。


「がはっ…あ、ぁ…ア…っ!!」

「ざまぁねえ! はははははは!!!」


 鎖骨と胸骨が鈍い音を立てて圧し折られる。激痛に意識が霞んでいく。

 声にならない声を上げるしんたろうの胸倉を掴みあげ、えいじは囁いた。


「てめぇは俺に敵わねぇ。死ぬまでな」

「……う、っ……」



 意識が途切れかけたしんたろうの脳裏に、懐かしい顔が過る。


(……走馬灯…? まだ早い、だろ…)


『しんたろう……君は生きて、幸せに…』

 過る影は微笑みながら、しんたろうが生きることを願い、死んでいった真一郎。


『一緒に生きていこうよ、しんたろう』

 しんたろうの無事を信じ、待ってくれた禊。


『謝んなって…しんたろう…お前は生きて、ここを出ろ、よ…』

 しんたろうを庇い、眼の前で命を落とした燈火が再び微笑む。


 大切な者を失った瞬間が今、目の前で起こっているように思い出され、しんたろうは歯を軋らせた。



「………ッ」


 しんたろうは、胸ぐらを掴んでいたえいじの手を思い切り払い除けた。

 よろけながらも素早く起き上がり、右腕を上げ構える。鎖骨を折られて左腕は動かなかった。


 何度も死のうと思った。

 何度も。何度も。それこそ数え切れないほどに。

 それでも自分が生きてきたのは。生きていられたのは。



「なんだ、まだやる気かよ? とっとと死ねよ!」

「──えいじィイイイ!!!!」


 嘲笑を浮かべながら放たれたえいじの右腕を、しんたろうは僅かに身を沈ませて潜り抜ける。次の瞬間、直樹から叩き込まれた流麗な動きで身体を回転させ、渾身の後ろ回し蹴りでえいじの左頬を撃ち抜いた。

 意識を奪うには至らず、えいじは膝を着く。顔を押えるえいじを後目に、しんたろうは後ろの壁に跳びのいた。


「思い知ったか……クソ野郎…!」

「…チッ、まだ蹴りを使えるほど、足を動かせたとはな」


 鋭い蹴りに裂けた頬からの出血を拭い、えいじが呻く。

 自身の返り血と混ざるそれを見て、しんたろうは荒い呼吸を誤魔化しながら深く息をついた。


「俺が…お前と同じになると、思ったか?」

「……あァ?」


 低く唸るえいじのこめかみに、びきりと青筋が浮かぶ。


「俺の心は殺せない。誰の心も……お前には殺せない!!」

「黙れ!! くだらねえことをほざくな!!」

「っぐ!」


 飛びかかるえいじに応戦しようとした瞬間、しんたろうは短く呻いて膝をついた。薬の副作用が急激に心臓を襲い、激痛に呼吸もままならない。

 薬を受け取った時、關鍵から説明を受けていたより早く効果が切れようとしていた。


 歪な円を描く変質したしんたろうのテロメアは、異常な治癒力をもたらしている。

 だが不完全な《非時》を無理に活性化させているために、体のダメージを修復するたび崩れていく。


(もう少しだけ…時間を…!)


「遅えんだよクズが!! 調子に乗りやがって!!!」

「が、ぁっ! うっ、ぐ…!」

「てめぇは死ぬまで地を這うしかないんだよ! この虫ケラが!!」


 立ち上がる体力も無いしんたろうを、激昂したえいじは罵倒しながら激しく蹴り上げた。

 そのまま何度も蹴りつけられて視界が歪む。心臓の激痛の所為で身を庇う事も、毒を吐く事も出来ない。


「ハァッ、うぅっ……」

「────ハッ。心だと?」


 攻撃を止め、息を切らしながらえいじが呟いた。

 左手に銃を構えて。


「んな眼に見えねぇモンなんざ殺さなくてもなぁ…体が死ねば終わりなんだよ!!」


 銃弾は寸分の狂いも無く、しんたろうの腹を何度も抉る。

 銃声が止むと同時に、しんたろうの体は力無く床に倒れ伏した。


「……ハァ…ハ…」

「これで終わりだ。クズが」


 血溜りが広がってゆく。心臓の鼓動は、今に止まりそうだった。

 しんたろうは意識が闇に沈み、痛みが遠ざかっていくのを感じた。幾度も経験した死が、今遂に自分を呑み込もうとしている。


 ………ああ。

 俺が死んで……えいじも、死ぬ…

 もう…誰も、死なずに……


「…こ…と、ぶ……き…」


 呼んだその声は声に為らぬまま、意識と共に深淵に消えた。



「チッ、まだ生きてるのか。しぶとい野郎だ」


 意識を失ったしんたろうの腹を踏みつけながら、えいじはひとりごちた。蹴られて裂けた傷は思いの外深かったようで、出血がなかなか止まらない。

 苛立ちながらえいじは、血に塗れたしんたろうの体を蹴りつけた。


 死ぬ手前まで嬲って、動けなくなったしんたろうの目の前で寿を甚振ってやるつもりだった。

 しんたろうの言葉に激昂して殺しかけたのは、えいじにとって計画外だった。

 思い通りにいかず、えいじは苛立ちに歯を軋らせた。


「クズが…!」

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