第32話 【過去編】dew
胸倉を掴み上げられたしんたろうは、頭を起こすこともできずに項垂れる。
倒れた時に切ったのか、額から溢れる血が止めどなく床に滴り落ちて、水音を立てていた。
「……ぅ」
「いいザマだなぁしんたろう」
激しい暴行で意識が途絶えそうなしんたろうの髪を掴み上げ、えいじはその瞳を愉しげに覗き込む。
以前より深い絶望の湛えられた焦茶色の瞳に、心底満ち足りた嘲笑を浮かべた。
しんたろうを待っていたのは、二年前をはるかに超す地獄。自由な行動など完全に許されず、監視も厳しさを増していた。
そしてそれがなくとも禊と子ども、全てを人質に取られているしんたろうが脱走を謀る事はない。
それでも振るわれる暴力は、もはや”躾”という体すら取っていない、ただえいじにとっての娯楽だった。大切な者のために抵抗すらできなくなったしんたろうは、黙ってえいじに暴行される事しかできない。
鍛え上げられたしんじの身体を得たえいじの拳は重く、元々の戦闘技術も相まって、しんたろうは重症に陥ることが増えていった。
以前の火事をきっかけに、全てが明るみに出たイドラの上層部は、逮捕者が出て一新された事になっている。
実際はえいじを筆頭に、久是の一族が変わらずその研究を引き継いでいた。
事件の一端で漏れた研究内容と成果を狙い、イドラそのものへの侵入を試みる者が増えていた。標的にはメインの科学者であるしんたろうも、当然含まれている。
家族をえいじに奪われしんたろうを逆恨みする者や、その才能へ嫉妬を持つ者、才能を掠め取るべく拉致を企む者……目的は違えど、しんたろうに味方はいなかった。
えいじの暴力だけでなくしんたろうの身を脅かすのは、外からの敵意も多大に含まれる。
しんたろうの命は何度も危険にさらされ、心だけが擦り切れていった。
ある日研究を終えて部屋に戻りかけたしんたろうは、えいじに腕を捕まれ医務室へ連れて行かれた。部屋に入るや否、しんたろうは壁に押し付けられる。
「いっ、何のつもりだ!」
「お前今年で三十五、だったけか」
えいじは質問には答えず、しんたろうの腕を強引に押さえつけると、シリンジを宛てがった。びくりとしんたろうの身が竦む。
「老化ってなぁ、二十歳過ぎたら始まるんだってな」
「何言って…っう!」
中身を全て打ち込むと、えいじはしんたろうの腕をあっさり放した。
訝しげに打たれた跡を見つつも顔を上げようとした瞬間、心臓に激痛が走りしんたろうはその場に崩折れた。
「ぐっ…な、んだ…こ、れ…っ」
「ふぅん。關鍵の説明通りだな」
身体が燃えるように熱く、ただ呼吸することすら苦しい。
激痛に痙攣するしんたろうを引きずり、無理やり処置台に固定しながらえいじは事も無げに呟いた。
「ううっ、あ、あ…が、ぁ…あっああ…っ!!」
「安心しろ。殺すわけじゃない」
熱と痛みは体の隅々を侵し、しんたろうは苦痛に声を上げ続ける。苦痛から無意識に逃れようと背を仰け反らせるも、拘束されたままの体では満足に動くことすらできない。
それでも反射的に体を震わせるしんたろうを、えいじは愉しげに眺めた。
「しんたろう…? えいじ、あの薬使ったカ?」
「ああそうだ。關鍵、終わるまで監視してろ」
「…分かったネ」
激痛に踠き続けるしんたろうを一瞥すると、えいじはそのまま部屋を出た。
残された關鍵は、哀しそうな目でしんたろうを見つめる。彼はしんたろうが再度拉致された後、海外から連れて来られた医者だった。
出会った当初の関係性は最悪だったが、今はお互い信頼する友となっている。
「ボクには何もできなイ…ごめン、しんたろう…」
その声は最早、しんたろうの耳には届いていなかった。
「…か、は…っ!」
「もう二日か。随分長ぇな」
身体中が軋み、耐え難い熱を持ってしんたろうを苛み続けていた。苦痛に上げ続ける悲鳴は声が枯れ果て途絶え、時折体がびくりと痙攣するだけになった。
拘束帯に暴れて負った血が滲んでいる。見開いたままの眼には、最早何も映っていない。
激痛に何度も気を失ったが、絶え間ない痛みに意識はすぐ戻る。それでもしんたろうの精神は、辛うじて正常さを保ち続けた。
こんなところで狂うわけには、死ぬ訳にはいかないと自分に言い聞かせ続けた。
生き続ける事が最後の希望であり、最大の絶望だと分かっていても。
「しんたろう…もう痛くないカ?」
「…カ、ンジェン…」
「これ取るネ、傷治さないト…いや…」
更に三日が過ぎ、しんたろうは急に苦痛から開放された。だが拘束を解かれた自身の両手を見ながら、言いようのない違和感を覚える。
「俺は一体何をされたんだ…」
「……そレは」
その時扉が開き、ニヤニヤと嗤いながらえいじが入ってきた。
早々に研究所へ戻されるのかと溜息を吐くしんたろうの腕を掴むと、えいじは不意に刃物を突き立てた。
「うっ…!?」
「お前に打ったのは《非時》、前にお前が作り途中だったものを、關鍵が完成させたものだ」
「まさか…」
痛みが嘘のように消え、血の跡を拭うとそこには傷跡一つなかった。拘束具の傷跡さえ残っていない。
かつて現存する生命の細胞組織を変えてしまう技術に、しんたろうは《非時》と名付けた。
それは分裂を繰り返す度に短くなっていくテロメアを、円環状に作り変えてしまう技術。研究中だった不老不死に近しい体を齎す技術《非時》は、關鍵の手を経て実用化できる域まで完成していたのだ。
「…お前…どこまで俺を…」
「安心しろよ。完成とは言ったが、その技術は未確立だ」
にやにやと愉しそうに言いながら、えいじはしんたろうの胸を指す。
「保って三十年ってとこだろう。そこまで不老状態は可能だが、不死には程遠い」
「……」
「これでそう簡単に死なずに済むだろ? 感謝しろよ」
嗤いながら部屋を後にするえいじを睨みつけながら、しんたろうは深い溜息を吐いた。歳を取り脳が劣化していくことを恐れての処置だろう。
三十年と言ったが怪我の修復に《非時》が働き続ければ、限界は早々に訪れる。
「しんたろう…」
「そんな顔するなよ、關鍵のせいじゃないから」
それでも。しんたろうは拳を握る。
この手に若さという武器を与えたことを、後悔すればいい。
***
「《人型》の量産がやっと安定したか。これでお前も暫く必要ないな」
「…何の用だ」
生命をほとんど自由に創造できるようになったしんたろうに、嗤いながらえいじは呟いた。
超能力という領域まで研究は進んでいた。少し前に超能力者の村を襲い進んだ研究で、イツメや《人型》だけではなく、えいじ自身が使用できるようになるのは、もはや時間の問題だった。
「慶、だったか子供の名前は。これが何だか分かるか?」
「……なんでその名前を…」
「また嗅ぎ回られても面倒だからな。お前を拉致した翌日に」
目の前に放り投げられたのは、黒い染みの付いた母子手帳だった。しんたろうの顔から、一気に血の気が引いていく。
禊と自分、そして子どもの…慶の名前が、禊の字で書かれたそれを見て、疑いようもなく本物だと気づいてしまう。
「う、そだ」
『何でアンタが…しんたろうはどこ!?』
唐突に禊の声が響き、しんたろうは瞠目した。音声はえいじが手にしたボイスレコーダーから聞こえてくる。
『終わったとでも思ってたのか? 俺は待っていただけだ』
『…!?』
『あいつが最も希望に満ちる瞬間をなぁ』
後ずさる衣摺れと、撃鉄を引く音が微かに響く。
禊が追い詰められていく音に、しんたろうは首を横に振りながら震え始めた。
「や、やめろ……」
「お前の女の最期だろ? 聞いてやれよ」
今に倒れそうなほど蒼白になったしんたろうを見やり、えいじは愉しそうに嗤う。
えいじを止めようにも、強張る体に震えが走り崩れそうな足を、何とか踏みとどまることしかできなかった。
『…あんたがどんだけしんたろうを苦しめたって…絶対しんたろうは負けない』
『どうかな? 俺は希望を砕かれて、廃人になった奴を何人も見てきたぜ』
『しんたろうの心には、いつでもお義父さんと燈火がいる。そして私も慶も…!!』
禊の力強い言葉にえいじは一瞬黙り込んだが、忌々しそうに舌打ちした。
『心は殺せるんだよ…容易くなァ!』
サイレンサーに抑えられた微かな銃声と、遅れて禊が倒れた音が聞こえた。
えいじはボイスレコーダーの停止ボタンを押すと、喉を仰け反らせて嘲笑した。
「最期まで気の強いうるさい女だったなァ…ハハハハ!!!」
「──あ、ぁ...」
怒りよりも絶望が限界を超え、しんたろうの視界は一気に白くなっていく。
膝から崩れ落ちたしんたろうは、そのまま意識を失った。
慶と禊は、きっと幸せに暮らしていると思っていた。
二人目の子どもは叶わなくとも、慶は今年成人するはずだったのに。
現実が嗤いながら迫ってくる。
もう禊は─
ずっと前に禊は…慶は──
あれから何日も過ぎたが、禊の死を知ったその日から、しんたろうは廃人の様に全く動かなくなった。区切られた空を呆然と眺め、どんな言葉にも暴力にも反応を返さずに。
食事さえ摂ろうとしないしんたろうに対し、えいじは強制的に延命措置を取らせた。しんたろうはベッドに縛り付けられ、腕に何本も点滴を打たれ続けた。
最早癒やす事ができぬほど、しんたろうの心は絶望に塗りつぶされていた。
「想像以上に、使い物にならねえなぁ」
初めは愉しんでいたえいじだったが、再起の見込みが薄い現状に元々考えていた案を実行する。
それはしんたろうを、イドラの所有する孤島に移送する事。一番のストレスとなっているえいじの存在を感じずに済む場所へ、ひいては自身の目が届かぬ場所へ送ることだった。
「ねえホントにいいの? 私の遠視じゃ細部が見えないよ?」
「いいんだよ。目が届かねえから意味がある」
わざわざリスクの高い場所へしんたろうを移送することに対し、ヘリの中でイツメは不思議そうに尋ねた。
孤島には多岐にわたる分野に精通した科学者たちと、充実した設備がある。そもそも孤島を買い取った目的は、《人型》の改良だったのだから。
「それに抜け殻を殺しても意味ねえ。そのために《遺品》をくれてやったんだからな」
「そのため…?」
にやりと嗤うえいじの考えは心の奥底に固く閉ざされ、イツメにも知ることが出来なかった。
ヘリの窓から見える青い空も目に映らず、しんたろうは廃人状態のままだった。
二人が生きていると思っていたから、この数十年を生き延びることができた。自分は何も知らないでのうのうと生きていたのだと思うたび、燈火の時と同じだと思うたび、心の中を絶望が覆い尽くしていく。
……もうどうでもいい。
早く俺を殺してくれ。




