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僕の願いが世界を変える──泥より出でて、泥に染まらぬもの  作者: 露隠とかず
メインストーリー

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第30話 【過去編】泡沫

 救出されてからやがて一年が過ぎ、悪夢もあまり見なくなった頃、しんたろうは少しずつ社会復帰を始めていた。

 あの場所で得た知識や経験は皮肉にもしんたろうを助けた。もっとも国からの賠償金でしばらく働く必要などないほどの金を得ていたが、使う気にもなれず手を付けないままになっている。


 そして六年間信じ続けてくれた禊と、ささやかに式を挙げて、今は二人で暮らしていた。

 スーツとドレスに身を包む笑顔の二人の左右に、やはりにこやかに笑う直樹と龍己が写る写真が、二人の家と直樹宅に飾られている。




「しんたろうはどっちだと思う?」

「え?」

「ふふっ」


 休日にソファで寛いでいたしんたろうは、禊の質問に首を傾げた。

 微笑みながら禊が差し出してきたのは、真新しい母子手帳だった。胸に熱いものがこみ上げてきて、しんたろうは思わず泣いてしまった。


 えいじから受けた性的暴行から立ち直るのは、本当に苦しかった。禊だと分かっていても、禊に触れたいのに、肌に触れられると、体が震えてしまう日々が続いた。

 今も完全に癒えたわけではないが、理由を聞かず根気よくゆっくり付き合ってくれた禊と、子どもができた事が嬉しくて仕方なかった。


「しんたろうはホント泣き虫よね」

「いや…だって嬉しくて…」

「名前どうしよっか」


 グズグズと鼻をすするしんたろうの頭を、優しく撫ぜながら禊が聞いてきた。

 しんたろうは少し考えて、禊の腹に手を当てながら答える。


「…慶…はどうだろ? めでたいとか祝い事って意味の…」

「そうね、どっちの子でもつけられるし、私たちの子どもだもん! 幸せになるように…」

「そんでさ、二人目の子どもには寿ってつけるんだ」

「しんたろうったら気が早いよ!」


 二人は額を当てて微笑みあった。


 慶…俺たちの子ども。燈火が繋いでくれた新しい命。

 絶対に幸せにしてみせる。




「すみませーん! 水道管工事なのでこっちに迂回して下さい」

「はーい」


(こっちも工事中…年末には早いような)


 心の中で呟き、にこにこと人のよさそうな笑みを浮かべる作業員に促され、しんたろうは誘導されるまま、仕方なく脇の路地に入った。

 少し先の角に進路を指示する標識灯が、ぼんやり立っている。


 初めて通る道だな、と取り留めのない事を考えながら角を曲がると、そこは大通りからの灯りも届かない細い路地だった。


「…この道で合ってるのか?」


 人気もないその路地を見て、しんたろうの口から思わず独り言が漏れる。一瞬不安を覚えたが、しんたろうはそのまま歩き出した。


「あれー? この道通れないんです?」

「大丈夫ですよー休工中ですから」


 迂回路を示す看板を片付けながら、作業員は微笑んだ。




 携帯を開き禊にメールを送りながら、ちかちかと明滅を繰り返す街灯の下を通り過ぎる。

 ようやく安定期に入った禊は、最近では悪阻も軽くなってきたため、今夜は久しぶりに好きなものを食べるとはしゃいでいた。

 ケーキの写真が届き、しんたろうは顔を綻ばせる。運動がてら近所のケーキ屋で買ってきたのだろう。


「……?」


 不意に後ろに気配を感じ、しんたろうはゆっくり振り返った。そう遠くない距離に、フードを目深に被りこんだ男が立っている。

 何となく嫌な感覚を覚え、早く路地を抜けようと歩を早めたが、その先が行き止まりだと気づき体が強張る。


 ゆっくり男が近づいてくる。

 表情すら伺えない男から目を離せず、しんたろうは一歩退いた。すぐに壁が背に迫り、嫌な汗が滲んでくる。


 この迂回路が行き止まりなのは、ただの間違いか?

 あいつは俺と同じように、間違った誘導をされたのか?


 迂回させられた事にさえ作為を感じてしまい、しんたろうは唇を引き結んだ。


 赤く染まってゆく服。手に残る貫いた感触。

 嘲笑を湛えながら止まった呼吸。


『お前も…俺と同じ…人殺し…だ』


 ──えいじはあの時…死んだはずだ。




 考え直した瞬間、男はしんたろうとの距離を一気に詰めてきた。躊躇いなく突き出された拳が胸骨を穿ち、しんたろうの呼吸が激しく乱れる。

 手から滑り落ちた携帯がかしゃんと音を立てた。


「ゲホッ…!」


 反射的に上半身を引いたため、何とかまともに喰らわなかったものの、それを差し引いてもダメージは大きい。

 相手は素人ではないと悟る。何かしらの格闘技を相当深く学んでいる。愉快犯だとしても、本気でかからないとこちらが危ない。


「喧嘩なら違う奴に売れよ…!」


 悪態に返答はなかったが、微かに見える男の口元が愉悦に歪む。

 新たに放たれた拳を咄嗟に身を沈める事で躱し、しんたろうは男の顎先を狙い掌を鋭く振り上げた。


「ちっ…!」

「ははッ」


 しんたろうの反撃を予測していたのか、男は顔を逸らしその手は虚しく宙を切った。だか避け損ねたフードが指先に引っ掛かり、ばさりと外れた。

 現れた金色の長髪が月の明かりを跳ね返し、その顔を明るく照らす。血色の悪い白い肌、左目の下に赤い刺青、透き通る碧眼。

 その貌はあの日別れたきり、消息の知れなかったしんじだった。


「しんじ…?!」

「"器"はな」


 咄嗟に距離をとったしんたろうの頭は、現状についていけず混乱している。

 一卵性の双子だった二人の声は当然全く同じだが、その言い得ぬ違和感に背筋がぞわりと粟立った。

 あり得ないことだとわかっている。

 わかってはいるが、あの狂ったイドラの影がチラつく。



「あの女は」

「……!?」

「脳を知り尽くしていた。人格を転移できるくらいには」


 つつ、と中指で刺青をなぞりながら男は嗤う。


「しんじの人格は俺と入れ替わった。あいつはこの体を作るためのものでしかなかったんだよ」

「そ、そんなことが出来るわけ…」


 "俺には間違いを正す力はないが…かと言って全てに蓋をして見過ごす事もできない"

 寂しそうに笑うしんじの顔が脳裏を過る。


 "結局あの手から逃げる事さえ怖いんだ"


 どこまでも弱く、偽りの母の記憶から抜け出せない彼が。

 本当の意味で自我という基盤を持たなかったのは、彼だったのではないのか。


「そしてお前は、ただの道具」


 思案に囚われたしんたろうの隙を突き、男の拳が側頭部を掠めた。


「が…ッ!」


 何とか躱したものの、追撃の手に握られたスタンガンを腹に打ち込まれ、しんたろうは短かい悲鳴と共にくずおれた。頭を踏みつけながら男は──えいじは唇の端をさらに吊り上げ嘲笑った。


「平凡な日常で、すっかり忘れちまったみたいだな…直ぐに思い出させてやるよ」

「くそ…ふざけ、るな…!」


 痺れて動かせない身体で、なお抵抗を続けるしんたろうに、えいじは冷ややかな声で囁いた。


「──禊を惨たらしく喪いたいのか? 燈火のように」


 その言葉に記憶の奥底へ何とか抑えていた感情が、しんたろうの心を再び引き裂く。目の前で息絶えていった絶望でしかないあの瞬間が。


「……あ…ああ……っ」

「お前が解放される日は、俺が殺す瞬間まで訪れない」


 あの日の事がフラッシュバックして、しんたろうは茫然と目を見開く。その首筋にスタンガンを押し付け、えいじは躊躇いなくスイッチをいれた。

 電気の爆ぜる音と共に大きく痙攣し、しんたろうは意識を失った。




 ──遠雷が低く響く。

 いつかの再来のように。


 えいじは満足そうに嗤うと、しんたろうを抱え、闇に紛れた。

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