第29話 【過去編】手向け
「あれから一週間か…無事逃げられたのが、今も信じられない」
誰に話すでもなく、寛之は一人ごちる。
施設が爆発する際、寛之はしんじに導かれ単身、施設を脱出していた。
駆けつけていた救急車に、顔見知りの救急隊員がいたため、事情を説明し匿ってもらった。
その後、寛之は今回の事件を担当する赫という刑事に、イドラの実態を話していた。
「あの人は…しんたろうさんは、無事に救出されたのか?」
「…大丈夫です。治療もされて、峠は越えたと報告を受けました」
「峠…ま、また怪我を…?」
赫に尋ねると、苦い表情で返答され、寛之は溢れた涙を慌てて拭った。
「私は何もできなかった…何度も暴行される彼を……庇うことすら…!」
「あなたが居たから暴行に耐えられたと、しんたろうさんから伺いましたよ」
「…!」
思わぬ言葉に寛之は涙を拭うことも忘れ、目を見開いた。
赫は寛之の肩を優しく叩く。
「あなたはあなたの出来る事を…最善を尽くしたんです」
寛之の涙は止まらなかった。
彼は誰よりもしんたろうに関わり、その生き方を見続けていた。無力感に苛まれながら。
「…いつかまた…彼に会いたい。今度こそ笑って…」
「しんたろうさんもそれを望んでいます。落ち着いたらゆっくり話してください」
開け放たれた窓からは、晴れ渡る青い空が見えた。
***
「しんたろう! 峠は超えたってな。本当によかった…」
「よかった…大丈夫かぁ?」
「直樹、さん、タツ兄、ありがとうございます」
携帯電話をポケットに押し込みながら、直樹が慌てて病室に入ってきた。後を追って龍己もゆっくり顔を出す。
直樹はしんたろうの頭を撫でながら、小さく息を吐く。
子どもの頃を思い出し、しんたろうは柔らかく微笑んだ。
「しんたろうさん、検診いいですか?」
「あ、私も...」
禊の先輩医師が検診に部屋を訪れた。
咄嗟に手伝おうと立ち上がった禊に、しんたろうは優しく告げる。
「いいから、おばさんに電話してきなよ」
「……うん」
禊が背を向けたことを横目で確認すると、医師はゆっくりと上着を脱がせた。
あらわになる上半身のいたるところに残るのは、火災で負った傷が軽く見えるほど、いくつも残された暴行の深い傷跡と、生々しい治療の跡。
「この怪我のこと、黙っていてほしいんです…知ったら禊は哀しむから」
絶句する直樹に、しんたろうは困ったように笑った。
「お前…それ…」
「…なんだよ、それ…!」
「……」
直樹は言葉にならないのか、それ以上何も言わなかった。ただ悔しそうに黙って拳を握り締める。龍己も呻くように呟く声が掠れていた。
医者は無言で治療の支度を再開し始める。
瀕死の重傷を負わされていたことなど、二人は一目で見抜いただろう。
「首の傷は、無理だと…分かってるけど…」
「……?」
何度も死に掛けては治療されて増えていった傷跡も、他者の手ではなく自身の手で抉った首の傷跡にも。
「…全部…火事の怪我って、ことにして、ください…」
「……分かったから、もう喋るな」
「ありが、と…」
直樹の言葉に安堵したのか、しんたろうは静かに微笑んだ。
「~~っ」
「……禊ちゃん、聞こえてたのか」
苦い顔で病室を出た先に、膝を抱えるようにしゃがみ込む禊がいた。
追い出すように急かすしんたろうに不自然さを感じ、禊はすぐに用事を済ませて入り口まで戻ってきていた。
「しんたろうの前で泣いたら心配させちゃう…っ」
「…俺の前で泣くといい」
拳を握りしめながら、それでも声を殺して涙を零し続ける禊に、直樹は黙って肩を貸した。
龍己は黙って俯くしかなかった。
***
「しんたろう。歩けるか?」
「…うん。大丈夫」
自力で歩けるようになったしんたろうの希望で、直樹は真一郎の墓まで付き添ってやってきた。
墓前には直樹が活けたばかりの花があり、しんたろうはその横に持参した花を添える。手を合わせながら瞑った目から、涙が溢れて頬を伝った。
「父さん……」
「…お前が生きていて本当に良かった。辛い思いをさせてすまなかった」
「そんな事ないです。俺のことを探してくれて、ありがとうございます」
悲しげな表情で、直樹はしんたろうを抱きしめた。
「……ありがとうじゃねえよ。親子で同じ事言いやがって」
「直樹さん?」
「俺は何も出来なかった。お前を助け出すことも真一郎を守ることも…!」
腕の中で体温を喪っていった真一郎の事を思い出し、直樹は歯を軋らせた。
久是は既に死亡が確認され、えいじもしんたろうの手で葬られた。
禊がしんたろうを見つけていなければ、助けることすらできなかったのだ。後悔が直樹の胸に広がっていく。
「いえ…直樹さんが父さんを看取ってくれたから、そうでなかったら俺は、死んだ事になってたから」
「…ほんっとに…お前ら親子は…」
真一郎の他人を慮る心は、しんたろうにも引き継がれている。
親の心を子が継いでいく。これもきっと、人が生き続ける事なんだろうと、直樹は哀しげに微笑んだ。
「あの、直樹さんは父さんの本当の名前…知ってたんですか?」
「ああ…そもそもあいつの名前を準備したのも、生活する場所を融通したのも俺だ」
直樹の思わぬ発言に、事情をそこまで知ってるとは知らず、しんたろうは驚いた。
「──今でも覚えている。真一郎が赤ん坊のお前を抱いてやってきた日のことを」
「父さんが…?」
「もう知ってるかもしれんが、真一郎もお前と同じように、拉致されて研究させられてたんだ」
父もまた自身の母でもある久是に拉致され、しんたろうが生まれた。
心優しかった真一郎が、他人を攻撃してまでそこを脱出すると決めた時の心中は、いかばかりのものだったか。
そしてそれは全て、自身のためではなくしんたろうのためだったと、言われなくても分かる。
「真一郎は、お前が生まれた時から最期までずっと、お前のことだけを考えて生きた」
「……知ってます…」
「死にたくなるほど辛い目に遭わされた事は分かってる…でも二度とこんな真似はするな。あいつも哀しむ」
「…はい…ごめんなさい」
「謝る必要はねぇよ。俺や禊ちゃんや龍己がついてるから、少なくとも今は甘えればいい」
しんたろうの首の傷に手を当てながら、直樹は哀しそうにつぶやいた。
止まらぬ涙を強引に拭いながら、しんたろうは頷いた。
「…父さんを…俺を助けてくれて…本当にありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ。真一郎をずっと支えていたのは、お前の存在なんだから」
直樹は穏やかに微笑んだ。しんたろうは直樹に改めて向き直ると、小さく笑みを浮かべた。
「…死にかけた時、父さんに会いました。「直樹によろしくね。一緒に生きることができてよかった」って…」
真一郎を支えていたのは、自分だけではない。しんたろうは父の言葉から、それを強く感じていた。
「...…そうか、真一郎。いつかまた会おうな」
墓石を見ながら、直樹は静かに涙を零し微笑んだ。
***
報道は事件の残虐性からか、警察が規制をかけるまでもなく自主規制となり、しんたろうは静かな日々を過ごしていた。
だが連日悪夢を見ては、悲鳴を上げて飛び起きている。
狂った研究を強いられ、物のように扱われる。
何度も暴行されて気絶する度、スタンガンを押しつけられて叩き起こされる。
手を伸ばす事さえ叶わず、目の前で燈火が殺される。
えいじの胸に刃を突き立て殺す。
「うぅ…っ! や、め…っ、あああっ!!」
「しんたろう!?」
最期に微笑んだ燈火の表情も、自分を人殺しだと嘲笑うえいじの顔も、今目の前で起こっているかのように再現された。
飛び起きる度に服は汗で冷たく濡れていた。
胸が重苦しく痛み、しんたろうは止まらない涙を必死で拭う。
「しんたろう…! もう、もう終わったんだよ…もう苦しまないで…」
「…ごめ、ん…俺は…!」
抱きしめられてここが現実だと理解できても、あの狂った日々と、苦悶に満ちた記憶が拭えない。
しんたろうの心は、荒んだままだった。
「療養中に何度もすみません、しんたろうさん」
「いえ…俺の言葉を信じてくれて、ありがとうございます」
その日、イドラの所業を把握しているしんたろうの証言を元に、しんたろうが監禁されていた施設の立入検査が行われていた。
もっともほとんどの施設は、しんたろうとしんじの手により爆破された後だったので、一足飛びに秀でた研究成果は皆無だったが。
現在は施設の中庭を掘り返していた。
そこには実験という名の狂気により、殺害された夥しい数の人間が埋められていた。
燈火を殺された後に、えいじに中庭に引きずられたしんたろうは、ここに燈火が埋められていると嗤いながら言われていた。
掘ればすぐ遺体に当たる状況に、現場の人間の表情は暗い。
「イドラと言う会社は、一体何をしたかったんでしょうね」
「…分かる必要なんてない。それより早く犠牲者を見つけよう」
苦虫を噛み潰したように、赫は部下に命じた。
イドラには長年煮え湯を飲まされ続けていた。明らかな不正や犯罪行為を行なっていると疑惑があったが、あろう事か警察上層部に汚職を働く者たちが多数おり、手が出せずにいたのだ。
このチャンスを逃すまいと、赫は拳を握りしめた。
「赫刑事! 例の男の遺体が見つかりました!」
「分かった、今行く」
赫は瓦礫の間に横たわったままの男を一瞥した。
事件が起こってから一カ月は過ぎていたが、冬の低い気温だったためか腐敗の程度は軽い。
何かに驚いたように目を見開いたままの男を見て、赫は眉根を寄せた。
「…一体何をしたかったんだろうな。こいつは」
傍らにあった巨大なガラスの器に視線を移し、赫はひとりごちる。器は瓦礫によって半壊していたが、中には何も入っていなかった。
「…現場の写真を撮ったら、こいつを搬送しろ」
「しんたろう…大丈夫?」
「大丈夫だよ。仕事休ませてごめんな」
二人は今、警察車両の中で待機しているが、しんたろうはあまり寝れない日々に、眼の下に深いクマを作っていた。
その様子を見ながら心配する禊に、優しく微笑む。
「しんたろうさん。すみませんが少しいいですか」
「なんですか」
真っ直ぐ視線を向けるしんたろうに、赫は一瞬躊躇ったが写真を一枚取り出し手渡した。
「さっき爆発現場から遺体が出ました。この男に見覚えは?」
「…俺を拉致した男です」
赫はそこまで穏やかだったしんたろうの目が、一瞬で変わったことを見逃していなかった。穏やかなしんたろうが、ここまで激しい殺意と嫌悪を見せたことなど、一度も無かった。
だが赫は同時に知っている。写真一枚でここまで憎悪を抱くほどの仕打ちを、彼は六年間も受け続けていたのだということを。
「えいじは…あの男は本当に死んだんですね」
「…ええ」
拳を固く握りしめ、分かりきっている事実を淡々と確認するしんたろうに、赫はそれ以上何も言わなかった。
しんたろうは写真から目を離すと、赫に顔を向けた。
「刑事さん…あの男を殺したのは」
「いや、それ以上は言わなくて結構です」
「え…」
「あれは事故死です。爆発に巻き込まれただけだ」
「でも…っ」
尚も言い縋ろうとした瞬間、刑事の携帯が鳴りしんたろうはビクリと竦んだ。
「しんたろうさん、燈火さんらしき遺体が見つかったそうです」
「…しんたろう…!」
「大丈夫だよ。行かせてください」
禊に支えられながらもふらつく体を引きずりながら、しんたろうは一歩ずつ歩き出す。
施設が近づくにつれ、刻まれた恐怖心に手が震える。無理矢理それを抑えつけ、しんたろうは中庭に入った。
掘り返された地面の中心に白いものを認め、眼の奥が熱くなる。
「しんたろうさん。この腕時計、ですか?」
「……!」
目の前で殺された事実を理解してなお、認めたくない感情を打ち砕くそれは、紛れもなくあの日見たスーツの袖。
そこに覗く銀色の輪は、いつかの誕生日に贈った腕時計だった。
「……とう、か…です」
しんたろうは力なく呟きながら崩れ落ちた。
ざわついていた周囲が、水を打ったように静まり返る。
「燈火…ごめん…ご、めん…」
白骨化した手を握り、俯いたまま何度も何度もしんたろうは謝り続けた。
彼に落ち度など一つもない。それでも誰も、しんたろうを止められなかった。
目の前で親友を奪われ、謂れの無い罪悪感を植えつけられたしんたろうを。
「こんな場所から、早く出してあげましょう」
「お願い、します…っ」
『謝んなって…しんたろう…お前は生きて、ここを出ろ、よ…』
あの日微笑みながら死んでいった燈火の笑みが、しんたろうの脳裏に浮かぶ。
最期まで自分を心配してくれた燈火の声が。
『会えて、よかっ…た』
「……燈火っ…」
どこまでも青い空が広がっていた。その空に吸い込まれるように煙が細く立ち上っている。
微笑む遺影を見ながら、しんたろうは涙が止まらなかった。
「あなたが来てくれて、燈火も喜んでると思うわ」
「おばさん…」
目を閉じ手を合わせていたしんたろうに、声をかけたのは燈火の母親だった。幼い頃からの付き合いだった彼女を、しんたろうは自分の母親のように感じていた。
そんな彼女から、最愛の息子を奪ってしまった。
振り返ることもできないままのしんたろうに、燈火の母親は静かに語りかける。
「燈火はずっと心配していたのよ。しんたろう君」
「おばさん…俺のせいなんです……俺がいなければ…」
「…そんな悲しいことを言わないで」
燈火の母は、泣きながら頭を下げるしんたろうの肩に、優しく触れた。
「しんたろう君がそんなことじゃ、燈火は安心して眠れないでしょ?」
「…ごめんなさい…ごめんなさい…!」
「あなたはちゃんと生きるの。燈火の分まで、ね?」
優しくそれ故に辛いその言葉に、しんたろうは頷くことしかできなかった。




