第23話 父の記憶──瓦解
暗闇の中浮かぶ記憶のシャボン玉。それは何度となく見たしんたろうの記憶だ。
いつの間にか寝落ちてしまった寿は、暗闇の中をどんどん落ちていく。
『しんたろうの記憶…明日話そうと思ってるのに…?』
シャボン玉の中でも、一際深い鉛色のものがあった。手で触れるより早く、それは寿を包み込んだ。
自室で過ごしているしんたろうは、床に座り込みベッドに凭れながら外を眺めていた。
前の記憶からあまり時間が経っていないのか、まだ胸はコルセットで固定されたままだ。
怪我の痛みより、心の痛みが強くしんたろうを苛む。ただ空を眺めているだけで、涙が溢れ止まらなくなる。
「……とう、か」
俺を生かすためだけに、二人とも目の前で命を落とした。
俺にはそんな価値なんてないのに。
『…しんたろう……』
燈火を目の前で殺され、しんたろうの精神は病み始めていた。守りきれなかった後悔は自己嫌悪と罪悪感となって、しんたろうの心を蝕んでいく。
寝付けないのか目の下のクマは濃くなり、食が細くなったために頬もこけている。
これまでと違うしんたろうの様子に、寿は胸が締めつけられた。
どれほどの目に遭わされても、しんたろうは奪われない心があった。
会う事は叶わなくとも、父親を喪ったしんたろうの心はずっと、親友と恋人の面影が支えていたのだ。
二人が生きていると信じていたから、再会を胸に正気を保っていられた。
だが見せしめのためだけに、拷問の末目の前で親友の命は奪われた。
自分が逃亡を図らなければ、彼が拉致される事は無かった。その事実が、しんたろうの心を立ち直れないほどに蝕んでいく。
えいじはそんな状態のしんたろうに頓着する事なく、研究を強要し容赦無く暴力を振るう。
しんたろうは、もう限界だった。
このまま生き続けることが。
「いつまでも鬱陶しい野郎だな!」
「っ…」
反撃もままならないしんたろうの襟元を掴み上げると、えいじはそのまま壁に叩きつけた。
よろけながら机に手を付いたしんたろうの目に、鈍色に光る刃が写る。
半ば無意識にその刃を握っていた。
「……だ…」
「あ? 何か言ったか?」
しんたろうは首に押し当てた刃の冷たい感触が、妙に気持ち悪くて吐き気を覚えた。
焦点の合わない目を向けるしんたろうに、えいじは僅かに唇を吊り上げた。
「もう…死んだ方がマシだ」
『し、しんたろう!! ダメ…っ』
寿の叫びは届かず、しんたろうは躊躇いなく頚動脈を切り裂いた。一瞬の痛みと熱さ。一気に失われる体温と意識。
迸る血の赤い色が、現実感なく煌めいているように見える。
えいじは崩折れるしんたろうの首を掴んだ。
「…これで逃げられるとでも?」
しんたろうの血飛沫に金髪を染め、嘲笑を浮かべたえいじが囁く。それがしんたろうが最期に聞いた声だった。
喪失感が体を包み、疲れ果てたようにしんたろうは眼を閉じた。
『あ、の首の傷は…自分で……!?』
初めて出会った時、一際目を引いた首筋の大きな傷跡。
それがまさか、しんたろうが自分でつけたものだったなど想像もしていなかった。
真っ暗になった視界が、少しずつ明るくなっていく。
「──ごほっ」
完全に途切れていたしんたろうの意識が、急速に覚醒していく。同時に、バイタルサインの音が聞こえてきた。
致命傷になる深い傷だったはずなのに、施設の技術力はそれすらも治癒してしまうレベルに達していた。
何度も見た医務室の天井の灯りが目に眩しかったが、不意に遮るような影が差す。そこにいたのは、冷淡な瞳でしんたろうを見下ろすえいじだった。
「やっと気づいたか。首切ったくらいで死ねると思ったか?」
「……」
首に直接繋がれたバイパスのせいで、しんたろうは喋ることができない。もっとも、何かを言うだけの気力もなかった。
ベッドに手をつき、顔を寄せてえいじはニヤリと嘲笑を浮かべる。
「お前が自殺したら、俺はお前の関係者を殺す。全員だ」
「ふ、……っ!」
込み上げる怒りに言葉を発しようにも、声にならない掠れた音が包帯の隙間から漏れるばかりだった。傷口に手が触れないように、両腕も拘束されていてぎしりと乾いた音を立てるだけ。
しんたろうはきつく眉根を寄せて、えいじを睨みつけることしかできない。
「ここはお前にとって煉獄なんだよ。用なしになったら、望み通り殺してやるよ」
「……!」
しんたろうの見開いた瞳からは、もう涙も出てこなかった。瞳の奥に沈む絶望を覗き込みながら、えいじは唇の端を吊り上げる。
えいじの執拗に嬲る手は、しんたろうが全てから逃れる事を──死を望む事すら許さない。
しんたろうは煉獄のようなこの場所で、ひたすら生き続けるしかない。いつかえいじの手で殺されるその瞬間まで。
『……しんたろう…!』
しんたろうの抱く深い悲しみと絶望が、寿の胸に突き刺さる。
寿は涙が止まらなかった。
意識を取り戻したとはいえ、致命傷を負った身体はまだ動かせず、しんたろうはベッド生活を余儀なくされた。
えいじは初めこそ何度も嬲るような言葉をぶつけていたものの、一週間を過ぎる頃には興味をなくしたように、しんたろうの前に姿を現さなくなっていた。
「しんたろう、起きているか?」
「…しんじ?」
えいじと瓜二つの男が、しんたろうに語りかけてきたのは、月が無い夜のことだった。
刺青は今のえいじと同じもので、意味が分からず寿は混乱した。
寿の疑問にしんたろうの記憶が、彼がえいじの双子の弟・しんじだと教えてくれる。
枕元に手を置き、何かを決意した表情でしんたろうの顔を覗き込む。
「……今まで何もせず、苦しめ続けてすまなかった」
「…?」
苦しそうに顔を歪めるしんじの予期せぬ言葉に、しんたろうは耳を疑う。しんじは久是の、ひいてはイドラの思想に傾倒していたのではなかったのか。
だがしんじの顔は真剣そのもので、しんたろうは次の言葉を黙って待った。
「あいつはいつかお前を殺すだろう。全てを奪った後に」
「……知ってる」
「そうなる前に俺は──あいつを殺そうと思う」
突然の言葉に、さしものしんたろうも言葉を失う。
「このスイッチをお前に託す。噛み砕くことで起動するが、食事程度なら起動しない」
「起動…爆発物か?」
渡されたのは、歯に仕込む形のスイッチだった。
透明な蓋のようなそれを、しんたろうはまじまじと見る。
「それひとつで全ての施設が連動して爆発する。施設から二キロ以上離れると動作しないが、そこまで離れればお前も無事に逃げられると思う」
「……お前…本気か?」
「…間違いは正さなければならない。幼い頃母にそう教わった」
マザコンめ、と思ったがしんたろうは口に出さずにしんじを見つめる。
久是の言う真意に対し、今のしんじが言う意味は皮肉が込められていた。
「俺には間違いを正す力はない。かと言って全てに蓋をして見過ごす事もできない」
「…あの女は」
言いかけてしんたろうは口を閉ざした。
いつからか久是の姿を見なくなった。そして明らかに変わった権力図。
えいじが久是を殺し、そのポストを奪ったことは火を見るより明らかだった。
「……あの手から逃げる事さえ怖いんだ」
「…いや、まだ自分の意志で選べてるじゃないか」
今度はしんじが、驚いたような表情でしんたろうを見つめた。
自嘲気味に溜息を吐きながら、しんたろうの手を強く握る。
「絶対にチャンスはある。今は機を待とう」
「…分かった」
しんたろうの言葉に頷くと、しんじは部屋を後にした。
奥歯に起爆装置のスイッチをはめ込むと、思ったよりすんなり収まった。
生き続ける事が、最後にして唯一の希望。
狂った研究を全て破壊して、えいじをこの世から消し去れるなら。
そして全てが終わったら……
しんたろうは目を伏せ、祈るように拳を握りしめた。
『しんたろう……もしかして死ぬ気なの…?』
しんたろうの記憶が終わり、寿は再び暗闇の中にいた。
決意を固めたしんたろうの表情に、寿は一抹の不安を覚える。
(起きたら確認しなきゃ。しんたろうが死ぬのは…絶対嫌だ…!)




