第19話 【過去編】Transparent
施設は窓が広く取られ、食事の管理や部屋などの衛生状態は、常に清潔に保たれていた。
発狂されてしまっては元も子もないからだ。
窓に手を押し当て、しんたろうは空を仰いだ。どこまでも高く青い空が広がる。
どんなに身体的に無理するような状況でなくとも、しんたろうは精神的に沈みきっていた。目の前で奪われた父の最期の笑顔が、瞼の裏に焼き付いて消えない。
ここから逃げてやる…
警察に行けば、言い逃れできないはずだ…!
だが監視は厳しく、定期的に暴力を振るわれ、しんたろうは生きることで精一杯だった。
しかし、ある日を境に全く手を出されなくなる。不思議に思いつつもしんたろうは逃げる隙を狙い続けていた。
──その「ある日」が、燈火が拉致された日と同じとは。
拉致された燈火が、えいじによる壮絶な暴行を受けていたとは知らずに。
研究している部屋に訪れていたえいじが、自分に背を向けたその一瞬の隙を、しんたろうは見逃さなかった。
咄嗟に地を蹴りドアを開いて駆け出した。階段を駆け下り必死に走り続け、遂に何年かぶりの外へ脱出する。
外は豪雨だった。だが、そんなことに構っている余裕はなかった。
「誰かあいつを捕まえろ!!」
「必死に逃げてんなア」
手庇を作りながら、楽しそうにえいじがつぶやく。
「えいじさん! このままでは…」
「逃げられるって? ははっ、わざとに決まってんだろが」
狼狽する男たちを割って出てきたえいじは、ゆっくりとライフルを構えた。
視界の悪い中、懸命に走るしんたろうの背中を見て、愉しげに唇を歪める。
「はぁっはぁっ…! くそ…っ」
叩きつけるような豪雨の中、しんたろうは脇目も振らず走り続ける。出口らしき門がようやく見えて、しんたろうは歯を食い縛った。
その時、そう遠くない所から響いた銃声と共に、体が痺れたように息が詰まる。しんたろうは身を庇うこともできず転倒した。アスファルトに身体を打ち付け、鈍い痛みに喘ぐ。
「う…っく…」
しんたろうの体を穿ったのは筋弛緩剤だった。呼吸にさえ支障が出て、息をすることさえ苦しい。
震えながら蹲るしんたろうの腹を、えいじの足が容赦なく蹴り飛ばした。
二、三度転がりやっと動きが止まる。叩きつける雨の中、しんたろうはわずかに瞼を持ち上げた。
「てめぇごときムシケラが、逃げ切れるとでも思ったのか?」
「ぐぅっ!」
嗤いながらえいじは何度も腹を蹴りあげた。
衝撃に揺さぶられ、痛みに呻くしんたろうの姿を、心底愉しげに眺めながら。
「はははっ! 力が入らないと、蹴りの衝撃ももろにくるだろ?」
「ごほっ、ぐっ…!」
「クズが…少しは立場が分かったか?」
吐き出した血が、雨に流されて薄く広がっていく。
頭を踏みつけながら、えいじはにやりと嗤う。しんたろうは目線だけえいじに向け、荒い息の下叫んだ。
「俺は…帰りたい、だけ、だ…! くそやろう…が…!」
「うるせえんだよ」
一層強い力がしんたろうの胸を激しく蹴りあげた。
肋骨が圧し折られる音と激痛に血の気が引き、しんたろうは遂に気を失った。
「いっぺん死んでみるかあ?」
「…止めろえいじ、もう気絶している。本当に殺す気か?」
更に暴行を加えようとしたえいじの肩を、しんじが強く掴み制止した。
一瞬しんじを睨んだえいじだったが、舌打ちすると苛立ったまましんたろうの頭を再度踏みつけた。
「チッ。しんじに感謝するんだな」
舌打ちをするとえいじは踵を返した。
しんじは険しい表情でそれを見送りながら、近くにいた男に声を掛ける。
「そこの男、医務室へこいつを運べ。手遅れになる前に」
「……」
気が付いた時、しんたろうはベッドに寝かされていた。寛之が心配そうにしんたろうを見る。
胸を覆うコルセットが、呼吸すら遮ろうとする。バイタルサインの音が小さく鳴り続けていた。
——また、戻ってきたのか。
「くそ…っ…」
歯を食いしばり、拳も握れぬ満身創痍でしんたろうは天井を仰ぐ。
絶対に逃げてやると決意を新たにしながら。
──完治しないまま部屋に戻され、燈火と再会するのはその数日後。
***
ずぶ濡れのまま、えいじは真っ直ぐシャワールームへ向かった。
灯りも付けぬまま蛇口を捻ると、温かい湯が降り注ぐ。非常灯の灯りが、えいじの体を暗闇に浮かび上がらせる。
「…もってあと一年ってとこか」
脇腹を指で撫ぜながら、えいじはひとりごちた。その体はしんたろうを凌ぐほど深い傷で覆われていた。
特に深い脇腹の傷は、治りきっていないままえいじをじわじわ蝕んでいる。
「……あいつの体は、さぞ楽なんだろうなァ」
シャワーを止め手早く体を拭くと、えいじはすぐに服を着込んだ。
常に肌を晒すことはないえいじの体が、ここまで痛んでいる事は久是以外知っている者はいない。
いつだったか、シャワールームから出てきたばかりのしんじと鉢会ったことがある。鍛えあげられた無駄のない靭やかな体には、当然傷など一つもなかった。
赤い刺青以外、完全に同じ顔のしんじが、いやに驚いていた事を思い出す。
ふっと鼻で笑い、えいじは真っ暗なシャワールームを後にした。




