第17話 父の記憶──親友
気を失った寿は、真っ暗な闇の中で恐る恐る目を開いた。
暗闇の中にはやはり、虹色に輝くシャボン玉が浮かんでいる。
『……また、しんたろうの記憶?』
これ以上、何を見せようというのか。
何度も見るしんたろうの記憶は、寿に知らない感情を伝え続けてきた。
その度に自分が自分でなくなっていくようで、寿は見ることすら怖くなっていた。
『…ううん、怖いけどちゃんと知らないと駄目だ』
寿はぎゅっと唇を引き結ぶ。
たとえどんなに恐ろしく悲しい記憶だとしても、それは実際に起ったことであり、しんたろうを知りたい気持ちに変わりはない。
その記憶ごと抱きしめて、いつかしんたろうに会うんだと、寿は決意を新たにシャボン玉に触れた。
しんたろうは、殺風景な部屋のベッドに腰掛けていた。コルセットで固定された胸を押さえ、息をする度に奔る痛みと戦っている。
ベッドで仰向けになることもままならないのか、忌々しげに歯を軋らせた。
その時、突然無造作に扉が開かれ誰かが投げ込まれた。
倒れ込む男を無視して扉は再び閉まる。一瞬の静寂の後、男は後ろ手に縛られたまま小さく呻いた。
「ゲホッ、なんだってんだ…」
「……燈火?」
「…しんたろう? しんたろうか…?」
『しっかし、俺らも付き合い長いよな~』
『まあ小さい頃から近所だし。このまま縁は続きそうだよ』
しんたろうの脳裏に、若い頃の記憶が浮かぶ。
彼はしんたろうの幼馴染で、親友の燈火という男だった。
「なんで……怪我してんだよ」
「え、いや、その……いや待て、燈火の方がひどいじゃないか! なんだよこれ…!!」
現状を知らない燈火に余計な心配をかけたくないのか、しんたろうは目を逸らし口ごもった。
だが、燈火のあまりの状態に思わず掴みかかった。
「……ちくしょう…あいつ…約束…」
「約束…?」
悔しそうに歯噛みする燈火を見て、しんたろうは首を傾げる。
「俺の事はいい。しんたろうは大丈夫か…?」
「大丈夫だよ! 自分を心配しろよ!!」
しんたろうは燈火を抱き起こすと、後ろ手に縛っていたガムテープを外しにかかった。
何度も殴られたような傷跡には、嫌というほど見覚えがあった。
まるで自分の体を見ているような気分がして、しんたろうは顔を顰める。
「何でここに? その怪我はなんで…?」
「…気にするなよ、大丈夫だから」
しんたろうには、燈火が拉致される理由が見当たらなかった。
燈火はイドラが欲しがるような才覚は、無かった筈だったからだ。
「……なんでお前を攫う必要が…?」
「…?」
「父さんを殺したのは、俺への見せしめ…燈火が拉致されたのは……」
不意に燈火がここにいる原因に思い至り、しんたろうの背筋が粟立った。
「燈火、動けるか? 早くここから逃げろ!」
「何だよ急に…慌てて」
「いいから! 早く逃げてくれ!!」
ドアが静かに開き、ニヤニヤと笑いながらえいじが現れた。しんたろうは咄嗟に燈火を庇うように立ち上がる。
えいじは無言でしんたろうの目の前に立つと、囁くように言った。
「もう二度と逃げようなんて考えねえように、お前の立場を分からせてやるよ」
「なん…うっ!」
「しんたろう!」
掴み掛ろうとするしんたろうの手をスルリとかわし、えいじはその腹にスタンガンを叩き込んだ。
声一つ上げられないまま蹲るしんたろうを後目に、えいじは燈火の顔を嘲笑うように見下ろした。
「一ヶ月もご苦労だったなァ燈火。もう限界だろ?」
「てめえ…!」
「……何の、話を…」
えいじは、震える腕で立ち上がろうとするしんたろうの髪を掴み上げる。
痛みに顔をしかめるしんたろうに、口の端を吊り上げながら愉しそうに話し始めた。
「一ヶ月前にも同じような豪雨の日があっただろ? あの日こいつを拉致した」
「…は……!?」
「やめろ…黙れ…!!」
「妙だと思わなかったか? 一ヶ月近く俺はお前に手を出してない」
「…ま、さか…」
「”お前が代わりに殴られるなら、その間は手を出さないでいてやる” こいつはそれを飲んだ」
「……そんな...!」
「一ヶ月も保つとは思わなかったがなあ。体はぼろぼろだろうに」
驚愕したしんたろうは改めて燈火を見た。
自身が受けるはずだった暴行を身代わりに受け続けていた燈火。
血に塗れ千切れかけたスーツ。まともに食事もしていないのか、頬は痩け目の下には深いクマが刻まれた顔は青褪めている。
ほとんど治療もされずに放置されたであろう生々しい傷跡。そこから想像される暴行の苛烈さに、しんたろうの心は絶望に塗りつぶされていく。
「お前のせいだろしんたろう? お前が逃げなければ、俺はこいつを拉致なんざしなかった」
「…ぁ、あ……!!!」
絶望に怯えきった顔で、しんたろうはえいじの足に縋りついた。
その顔を見ながら、えいじは愉悦に笑みを深める。
「もう逃げないから、やめてくれ! 燈火を、助けてくれ…!!」
「ははははは! 見たかったんだよなぁ、絶望に歪むてめえのツラをなぁ」
「止めろ、止めてくれ…! 殺さないでくれ……!!」
自分の無力さに、しんたろうは心が引き裂かれそうだった。
燈火が自分を庇っていたなんて。
自分が逃げようとするたびに、殴られていたのだという事実に目の前が暗くなっていく。
この一ヶ月、自分は何度逃げようとした?
その度に殴られていたのだとしたら、治療もロクにされていないのだとしたら。
と、燈火は荒々しく息を吐きながら立ち上がり、その眼がえいじを見据えた。
「…俺が選んだんだ、お前のせいじゃない。それよりなんでしんたろうに手を出した…!?」
「ははははは! どうせもうお前はくたばるだろ? 契約は、もう終わりだ」
燈火は床に蹲るしんたろうに視線を移した。
血や汚れでボロボロの服。顔や服の端から覗く四肢には、痛々しいほどの痣や傷。
胸を覆うコルセットを見て、肋骨を骨折しているのだと気付いた。燈火の怒りが烈しく燃え上がる。
「ふざけやがって…!!」
殴りかかろうとした燈火に、えいじは笑いながら銃を向けた。
しんたろうが叫ぶ間も無く銃弾は空を裂き、燈火の肩を穿った。
憎悪と苦痛の混じったような悲鳴が部屋に響く。
「はははは!! てめェに俺が殺れるとでも思ったのか? クズが!!」
「うう… ち、くしょう…!」
床に膝をついた燈火の体に、再度銃口が向けられた。
しんたろうが手を伸ばしかけた瞬間、えいじはにやりと嗤って撃鉄を起こした。
「こいつを殺したら、お前はどんな顔で啼くのか…見ものだな」
「やっ、─────!!!」
「止めたいなら、自分の力でやってみろよ」
これ以上無い厭味な笑いを湛え、えいじは燈火の腹を撃ち抜いた。
「ぐっ…う…!」
「燈火ぁあ!!!」
倒れこんだ燈火は撃たれた腹を押さえ、掠れた声を漏らした。
押さえた腕の間から、どろりと血液が溢れ床を濡らしていく。
「お前の力では誰も救えない。無力な癖に反抗するからこうなるんだよ」
「やめ、ろ…っ足をどけろ……っ!」
痺れの残る体は意に沿わず倒れ込む。それでも必死で這いながら、燈火の元へ近づこうとするしんたろうを踏みつけ、えいじはせせら笑った。
伸ばした手は燈火に届かず、しんたろうは無力感に涙が止まらなかった。
「こんなのいやだ…燈火…死ぬな燈火…っ!」
「泣くなよ……お前のせいじゃない…」
「はははっ! 泣かせるなぁ。本音は違うだろ?」
えいじの嘲りを無視して、額に脂汗を浮かべながらも燈火はしんたろうに笑ってみせた。
傷口から溢れる血に服がどんどん染まっていく。
「謝んなって…しんたろう」
「燈火…ごめん……燈火…ッ」
「お前は生きて、ここを出ろ、よ…」
「燈火…!」
「会えて、よかっ…た」
優しく微笑むと、燈火は瞳を閉じた。
浅く早かった呼吸が、小さな溜息に似た吐息を最期に止まる。
「燈火っ!! 駄目だ…死ぬな…! 燈火…!!」
どう足掻いても助けられないと分かっていても、しんたろうは何度もその名を叫び続けた。
目を閉じた燈火は何も答えない。
「あああ……ごめん…燈火ッ…!!」
しんたろうは唯謝り続けた。
その様を愉しそうに見下ろすえいじのことなど、目に入らない様子で。
「可哀想になぁ。お前なんかと関わらなければ、早死することもなかったろうに」
「あ、ああああ…!!」
しんたろうはその言葉に目を見開いた。
自分がいなければ、友人でなければ、燈火はこんな所で殺されることはなかった。
他愛のない話をした高校時代や、初めて遊んだ幼い日々が脳裏にまざまざと蘇り、しんたろうは慟哭を上げ続けた。
『あぁ…! しんたろうの目の前でまた人が死んでいく…殺されて…!!』
しんたろうの強い後悔と悲しみが、再び寿を襲う。
寿は初めてえいじに強い憎しみを覚えた。
「あーーーいい加減うるせぇ、なっ!」
苛立ったように舌打ちしたえいじは、無慈悲にしんたろうの腹を蹴りあげた。怪我も相まって、しんたろうの意識は途絶えていく。
暴行を受けるしんたろうを見ながら、寿は無意識に自分が撃たれた時の事を重ねていた。
『どうしてえいじはこんな酷いことを…自分の欲望の…為だけに…』
返ってこない言葉。もう俺に話しかけてくることは二度とない。
生きて此処を出ろと言った燈火の言葉が、しんたろうを深く貫いていた。
徐々に記憶が擦れていく。それと共に暗闇が再び寿の視界を塞いだ。
『えいじ…! なんでこんな事ばっかりするの…!?』
現実に引き戻される自分の意識を感じながら、寿は叫んだ。
だがその言葉も虚しく暗闇に消えていった。
ただ、暗闇の奥で──えいじの声が微かに響いた。
***
最期まで。
最期まで思い通りにならなかった。
殺されるような目に遭ったら、原因であるしんたろうを恨むのが道理だろう?
殺そうとしている相手に、憎しみをぶつけるのが道理だろう?
なのに燈火という男は俺には目もくれず、
最期までしんたろうの体を気遣い、あろうことか笑って見せやがった。
──気に食わない。
燈火も、しんたろうも…!




