第10話 【過去編】悪夢の始まり
意識を奪われたしんたろうは、暗闇の中にいた。
冷たく何も見えないそこで、しんたろうの瞼の裏に父の笑みが過る。
『……父さん……?』
いつもの優しいその笑みに、言い得ぬ不安が胸に広がった。
その光景は少しずつ遠ざかり、世界が冷たく沈んだ。
「……」
「やっと目が醒めたか」
その声にしんたろうは一気に覚醒した。だが体を起こそうとして動けないことに気づき、声の主に顔だけ向けてきつく睨みつける。
「……お前一体…」
「えいじ、だ。まあ覚える必要はないがな」
肩を床に押し付け、なんとか身を起こすと、しんたろうはえいじを見上げた。
見覚えのない部屋を見回すが、どこにいるのか見当もつかなかった。
「なんで…なんで父さんを撃った!!」
「用済みな上に、通報でもされたら面倒だからだよ」
「ぐッ…!」
後ろ手に拘束されたままのしんたろうの腹を、えいじは容赦なく蹴り上げた。
硬いブーツの爪先が鳩尾にめり込み、しんたろうの体が崩折れる。
「ここは研究機関だ。イドラのな」
「……イドラ…製薬会、社…?」
「まあつっても、非公開の施設だけどな」
痛みに呻くしんたろうの顎を掴むと、えいじは強引に引き寄せながら当然のように告げた。
えいじの蒼い瞳が、怒りと苦痛に揺れるしんたろうの瞳を愉しげに覗き込む。
「お前を拉致したのは、お前の父親が放棄した事を再開するためだ」
「何、言って……俺は絶対…手なんか…!」
「お前に選択権はねえ」
再度えいじの爪先が鳩尾を穿ち、しんたろうは声も出せず歯を食いしばった。
痛みに身体が傾ぎそうになるのを、意地だけで何とか支える。
「ッ…」
「そういやさっき俺に対して、やけに反応が早かったな。格闘技でもやってたのか?」
「…だったらなん…っ!」
横薙ぎの蹴りがしんたろうの顔面を捉え、受け身も取れぬまま、床に強かに打ちつけられた。
額を切ったのか、流れる血が右の視界を覆っていく。
「面白え。抵抗してみろよ!」
「がっ、ぐっ、う…!」
倒れたままのしんたろうの体を何度も蹴りつけながら、えいじは愉しそうに嗤った。
後ろ手に拘束された状態のしんたろうに、反撃の手など皆無だと分かりきった上で。
「お前はただの道具だ。俺のためのな!」
「…がは、ッ…」
痛みに呼吸もままならず、しんたろうの意識は闇に塗りつぶされていく。何もできない悔しさに、涙が滲む。
その瞬間激痛が体を走り、掠れた悲鳴と共にしんたろうは背を仰け反らせた。
「があっ!」
「誰が寝ていいつった?」
胸倉を掴みあげながらえいじはにやにやと嗤った。その手にはスタンガンが握られている。
激痛に霞む視界の中で、金色がぼんやりと滲んでいた。
「く、そ…やろ、う…」
「まだ始まったばかりだろ。もう少し愉しませろよ」
「あ、が…ぁ…っ!!」
自力で起き上がることもできないしんたろうを掴んだまま、えいじはその腹に膝を打ち込んだ。
みしりと肋骨が軋む音と激痛に、悲鳴を上げることもままならない。ただ身体が痙攣し、堪えきれない震えが走る。
「……おい、えいじ。頭は狙うなよ、あとやり過ぎだ」
「うるせえな。分かってるさ、しんじ」
「ぅぐっ!」
赤い二つの爪痕を模した刺青を顔に入れた、えいじと同じ顔の男が嗜めるように言った。
えいじはしんじと呼んだその男を一瞥すると、再度しんたろうの腹を蹴り上げる。倒れ込んだ体を踏み躙られて、しんたろうは掠声をあげた。
繰り返される暴行に、しんじの表情が不快そうに歪む。
「平和ボケしてるお前には分かんねえかなァ? こういうのは最初に、キッチリ躾けといた方がいいんだよ」
「……寛之に治療の準備をするよう言ってくる」
なおも蹴りを重ねるえいじの暴行を見るのが耐え難くなったのか、しんじは逃げるように踵を返した。
えいじはその様子を見ながら嘲笑を浮かべる。
「ハッ! 久是の傀儡が」
殴られ続けるうちに、激痛に意識がぐちゃぐちゃに溶けていく。
何に巻き込まれたのかも、これからの運命も見えず、ただ暗闇が何度も視界を覆っては、何度も叩き起こされた。
一体何が起こっている…?
父さん…燈火…み、そ…ぎ……
途絶えかけたしんたろうの意識の狭間で、日常の面影が一瞬浮かび霧散した。
***
医務室へ真っ直ぐ向かいながら、しんじは眉根を寄せる。
苛立ち混じりに歩く音が、無機質な廊下に響いた。
「…母さん、何を考えてるんだ…」
しんじは今回起こった事に納得できていなかった。
「久是の一族は、世界の間違いを正さねばならない」。確かにそう教わってきた。
だが真一郎を殺害し、しんたろうを拉致してまでやろうとしている事は正しい事なのか?
「……」
いや、としんじは首を振る。母はいつでも正しい。正しかったはずだ。
しんたろうが抵抗する事が間違っている。彼が膝を折り、久是の一族に尽くすべきだ。
しんじは無理矢理そう考えると、医務室へ向かった。
しんじの考えとは裏腹に、しんたろうは脱走未遂を繰り返した。
──えいじの暴力は、日増しに酷くなっていく。




