第98話:風籠の巫女
回廊を進むたびに、音が消えていった。
鈴の響きも、祈りの声も、すべて遠のく。
残るのは、自分の足音と心臓の音だけ。
風を信仰する国のはずなのに――ここだけは、風が止まっていた。
案内の神官が立ち止まる。
「この先が、風籠の間です。巫女様は沈黙の中におられます。
……ですが、あなたを“見たい”とお告げになりました」
“見たい”。
それだけが理由らしい。
印が結ばれ、扉が開く。
中から、冷たい風が流れ出した。
目の前に、白い空間が広がる。
柱も壁も、すべてが薄布で覆われ、淡い光に揺れている。
その中心に――ひとりの少女が立っていた。
息が止まった。
胸が詰まり、喉の奥で何かが鳴った。
透き通るような青い髪。
淡い金の瞳。
まるで光の中から削り出されたみたいな少女だった。
巫女、ルミナ。
間違いない。
けれど――違う。
脳が勝手に、別の名前を呼んでいた。
……嘘だろ。
そんなはず、ない。
心臓が跳ねた。
あの声が、脳裏を過ぎる。
『……彼女は、…あの子に似ているから……すこし辛いかもしれないけど』
アーリアの忠告。
けれど俺は、その“似ている”がどれほどのものか、わかってなかった。
あいつの姿が、そこにいた。
よく笑う奴だった。
うざいくらい元気なくせに、風邪をひきやすくて。
朝が苦手で、眠そうに見えるその顔が好きだった。
最期のにあった前の日も笑ってた…。
冷たくなる手を握りしめても、その笑みだけは残ってた。
……もう、二度と会えないと思ってたのに。
ルミナがこちらを見た瞬間、
風札がひとつ、ぱん、と弾けた。
彼女の瞳が見開かれ、空気が一気に張り詰める。
神官たちが息を呑み、護衛が剣を抜いた。
「っ……!」
ざわめきが一瞬で波になる。
視線が俺を貫く。
何が起きたのかはわからない。
けれど――ルミナが怯えているのは見て取れた。
その目には、俺が“何か”に見えている。
ただの旅人じゃねぇ。
闇でも、災いでも、そういう類のものに。
構えられた剣先がきらめく。
動けば刺される。
でも、そんなことどうでもよかった。
胸の奥が焼ける。
頭が真っ白になる。
手足の感覚がなくなる。
頬を伝って、何かが流れた。
涙だった。
あまりにも自然に、勝手に零れた。
ルミナの姿が、霞む。
「……な……んで……」
それしか出てこなかった。
髪の揺れ方。
立ち方。
まぶたの形。
声の響きまで――全部、あのままだ。
どれだけ手を伸ばしても、
あの夜から一度も届かなかったのに。
いま、目の前にいる。
護衛の一人が近づこうとした。
だが、その時、ルミナが小さく息を呑んだ。
その声で、全員の動きが止まった。
「……泣いているの?」
その一言が、胸の奥を突き刺した。
刃の光が揺れ、神官たちが顔を見合わせる。
でも、もう何も見えていなかった。
涙が止まらない。
理由なんて、もうどうでもいい。
心の奥から、音を立てて何かが溶けていく。
「ぁ……」
声が掠れて、続かなかった。
手を伸ばしかけた。
護衛が剣を構えるのが見えた。
それでも、止まれなかった。
……届かなくていい。
ただ、確かめたかったんだ。
俺は息をすることも忘れていた。
ただ、風が頬を撫でていった。
涙の跡を、優しくなぞるように。
ーーーーー
風が、止まっていた。
この部屋には、音がない。
祈りの声も、鈴の響きも。
ただ、風の呼吸だけが生きている。
“風読の眼”が静かに開く。
風が語る。
いつもなら、それは人々の祈りや願い。
だが、今日は――違った。
光が割れた。
視界の奥に、知らない景色が走る。
赤…。白…。灰…。
塔が崩れ、風車が逆回転する。
空が黒い雨で満ちていく。
湖が干上がり、鈴がひとつずつ落ちていく。
“燃える”という言葉を知らない私でも、それが滅びだとわかった。
そして――その中に、男がいた。
風の中心。
影のような男。
形が曖昧で、見ているだけで風が痛む。
彼が歩くたび、街の光が死んでいく。
母の息が途切れ、鈴が黙り、すべてが夜になる。
……禍。
そう、思った。
だが次の瞬間、胸の奥がかすかに震えた。
痛みのようなもの。
初めての感覚。
風が告げた。
『来る』
私は口を開いた。
“今来ている男を通せ”と。
理由はわからない。
ただ、そう言わなければならない気がした。
扉が開いた。
白い空間に冷風が流れ込む。
光がゆらぎ、黒が立ち上がる。
幻で見た“男”が、現実に現れた。
黒い影。
風を拒む存在。
空気が歪む。
鈴が鳴らず、布が沈黙する。
それは、確かに“禍”だった。
「……」
喉が乾く。
風読の眼が勝手に開く。
視界がゆがみ、闇の奥に色が見えた。
――赤い痛み。
――深い喪失。
――誰かを抱きしめた記憶。
それは、風ではない……人の心の残響だった。
男の頬を、光が伝う。
その一滴が、風に触れて溶ける。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
黒が薄れ、光が戻る。
私は理解できなかった。
なぜ“禍”が泣いている?
なぜ、風がその涙を受け入れる?
胸の奥が熱くなる。
風ではない何かが、私の中で鳴っている。
知らない痛み…知らない震え…。
「……泣いているの?」
気づけば、声が出ていた。
男が顔を上げる。
その目の奥――見た。
“失った人の記憶”
“届かなかった祈り”
“もういない誰かの笑顔”
風の中に、私の知らない世界が流れ込む。
息が詰まる。
涙が出る。
これは神託じゃない。
けれど、風が告げていた。
『この男を、抱け』と。
足が勝手に動く。
護衛たちの声も届かない。
私は手を伸ばし、彼の手に触れた。
冷たい。
でも、生きている。
その熱が、私の中に流れ込んでくる。
胸が痛い…苦しい…。
でも、離せなかった…。
私はそのまま、彼を抱きしめた。
ーーーー
小さくて暖かかった…。
…俺は我に返った。
腕の中に、少女がいた。
巫女のルミナ。……いや、もう名前なんてどうでもよかった。
顔も、仕草も――全部、アイツと“同じ”だった。
頭のどこかでわかってる。
違う人間だ。別の世界の存在だ。
けど、心臓が勝手に動き出す、油についた炎のように。
「死なせるな」って。
その瞬間、俺の中で何かが切り替わった。
護衛たちが動く気配を感じた。
剣の抜ける音。
誰かの叫び。
だが、もう遅い。
体が勝手に動いた。
ルミナを抱き寄せ、背を庇うように覆いかぶさる。
そのまま腰の剣を抜き放った。
引き金を引く。
爆ぜた風圧が吹き抜けの縁を撃ち抜く。
剣が突き刺さり、鎖が走る。
もう一度、トリガー。
鎖が鳴り、体が浮く。
白布を裂き、光の中へ。
神官たちの叫びが遠のく。
風の流れを掴んで、屋根の梁に着地した。
瓦が鳴り、鈴が乱れる。
抱えたルミナの身体が微かに震えるのがわかった。
「っ……離しなさい!」
ルミナが声を上げた。
「何をする気!? 私には……使命があるのです!」
「うるせぇ!、黙れ!」
俺の声は自分でも驚くほど荒かった。
「その顔で、そんなこと言うな……!」
彼女は驚いたように目を見開いた。
それでも暴れようとする腕を、俺はさらに強く抱き締めた。
「……頼むから、今は黙ってろ」
息を整えながら、屋根の外へ目を向ける。
風がうねる。
下では神官たちの叫びが渦を巻いていた。
――追手が来る。
剣を構え直し、再び引き金を引く。
風が爆ぜた。
二人の影が空へ跳ぶ。
ルミナの悲鳴と、風の咆哮が重なった。
白い街の屋根を越え、風が二人を飲み込む。




