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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第96話:めぐりの風の街



 潮風が、どこか乾いていた。

 港の匂いは確かに海のものなのに、混じる香りが違う。

 果実を焼いたような甘い匂い――見慣れた世界とは空気そのものが違っていた。


 「……空の色も、薄いな」


 雲の切れ間から覗く空は淡い灰青。

 遠くに見える山並みは鋭く、地形全体がどこか硬質だ。


 リュカが首を傾げる。


 「同じ海の向こうでも、ぜんぜん別の国みてぇだな」

 「別の“世界”かもな」


 そう口にすると、シアが少し笑った。


 「コール様、まるで詩人みたいですね」

 「そりゃどうも」


 港の喧騒を抜け、さらに街へと入る。

 石畳は滑らかで、壁には紋様と札が刻み込まれている。

 足元に埋め込まれた小さな金片が光を受け、歩くたびに淡く瞬いた。


 「……これ、全部“祝印”のようですね」


 シアがしゃがみこんで石畳をなぞる。


 「信仰の形が、こっちでは地に根付いてるってことか」


 「リュリシアの国とは、ずいぶん違いますね。あちらは“塔と像”が中心でした」


 「確か……ここは地に祈る。――空じゃなく、大地の神だ」


 リュカが不思議そうに俺の顔を見る。


 「コール、ここに来たことあるのか?」


 「いや、ただ知ってるだけだ」


 その時、通りの先に白い像が見えた。

 女神の姿。だが――


 「……アーリア?」


 思わず足が止まる。

 長い布を纏い、片手に光輪を掲げている。

 表情は穏やか――けれど、俺の知るアーリアとは明らかに違った。

 あの“夢”の彼女は、悲しみや慈愛を感じさせた。

 だがこの像は、満足そうに笑っている。


 リュカが首を傾げる。


 「女神アーリア、か。どこでも人気だな」


 「いや……同じ名前でも、違う誰かだ」


 「え?」


 「わからねぇ。ただ――そう思った」


 通りを行く人々は、誰もが軽く頭を垂れて像の前を通る。

 その仕草は自然で、疑いがない。

 ここでは“アーリア”という名が、別の意味を持っているのだ。


 さらに奥へ進むと、屋台の香りが漂ってきた。

 焼き貝の煙と果実酒の甘い匂いが混じり合う。

 波止場の石は灰色で、太陽を受けてもどこか冷たい。


 「……見たことねぇ貝ばっかだな」


 リュカが串を手に、透けるような貝殻を覗き込む。


 「食えるのか?」


 「食べられますよ。ほら」


 シアが串を取って口に運ぶ。


 「……ん。塩と香草。意外と美味しいです」

 「へぇ、やるじゃん異国飯」


 俺もひとつほおる。舌に甘味が残る。不思議な味だった。


 屋台で貝料理を食べていると、シアが小さく指を差した。

 

 「ここの人たち、みんな風札を持ってますね」


 通りの人々が胸元に銀の札を下げている。

 ゆらめく紋は、螺旋を描く羽。


 「“母の息”の加護だとよ」


 リュカが他の屋台から料理を運びながら聞いた話を語る。


 「息?」


「この大陸じゃ、神様は“息を吹く母”なんだと。

 夜も昼も、命も風も、その息で回ってるって話だ」


 屋台の親父が笑いながら皿を差し出した。


 「旅の人かい? 今日は当たりだな。もうすぐ祭だ」


 「祭?」


 リュカが串を受け取りながら首を傾げる。


 「“めぐりの儀”さ。風を繋ぐ日だよ」


 「風を……繋ぐ?」


 親父は得意げに頷いた。


 「母様の息が途切れぬように、巫女が祈るのさ。

  あの子のお陰で風がまた動き出す。ありがたいことだよ」


 「巫女ってのは?」

 「ルミナ様だ。ほら、あの旗に描かれてる娘」


 親父が屋根の上の布を指す。


 旗には刺繍で、女神のような格好をした少女が描かれていた。

 笑顔の下に金の文字。――『めぐりを継ぐ光、ルミナ』


 「街じゅうで彼女を祝ってるのか」


 「街だけじゃねえ、国がだ。当然だろう? 母様のそばへ行けるなんて、あんな幸せはねぇ」


 リュカが箸を止める。


 「……そばへ行く、ねぇ」


 「ん?」


 「つまり、死ぬってことじゃねぇのか?」


 「なに言ってんだい。そんな言い方しちゃ母様に失礼だ。

  “還る”んだよ、母の息に。めでたいことさ」


 親父は笑いながら次の皿を並べた。


 リュカは黙って視線を逸らした。

 その顔を見て、シアが小さく首を振る。


 「……この土地では、それが“生きる”んです。

  止まれば世界が壊れる。そう教わっているんでしょう」


 「教わってりゃ正しいのか?」


 リュカの声は低く、硬い。

 親父は気づかないふりで笑い続けている。


 俺は串を皿に戻した。

 食欲が失せた。


 笑いながら人を送るこの空気が――どうしても受け入れられなかった。


 「……食ったら行くぞ」


 立ち上がると、潮と香草の匂いが混じった風が頬を撫でた。

 遠くで祭の笛が鳴りはじめていた。


(……胸糞悪い)


 美しかった街並みが、急に薄い膜をかけられたように見えた。

 光の下に沈む影。笑顔の底にある静かな狂気。

 俺は足を速めた。


 「コール様?」

 「……帰る」


 港へ戻る途中、通りのあちこちで祭の準備が進んでいた。

 花を編む娘たち、灯を吊るす少年たち。

 誰もが笑っている。


 「ルミナ様の風が吹けば、今年も嵐が来ないね」 「母様の息が届くように祈らなきゃ」

 「見られるなんて光栄だよな、あの儀」


 そんな言葉が耳に刺さる。

 誰も“死ぬ”とは言わない。

 それが誰か一人の犠牲で成り立つとも思っていない……いや、知っててこれなのか……?


 ――ゴミだな……。


 リュカが小声で呟いた。

 シアがそれをたしなめる。


 「……他人事だな。自分が行くわけじゃねぇから」

 「リュカ……」


 「わかってる。でも、腹が立つ……。…ん? なんだよ?」


 俺は無言でリュカの頭を撫で回し、そのまま歩く。

 それ以上、言葉を足す必要はなかった。


 「コール様〜?……ふふふ」


 ついでにシアもしてほしそうだったので頭を撫でた。

 二人の髪に飾られた青が綺麗に見えるのだけが救いだった。


 街の喧噪の中、こいつらの笑い声だけがやけに澄んで響いていた。


 宿の近くで、子どもたちが小さな灯籠を風に放っていた。

 淡い炎が空へ昇り、雲の切れ間に吸い込まれていく。

 シアが足を止める。


 「めぐりの灯、ですね」

 「……せめてもの祈りの代わりか」


 「……母の息が途切れぬように、だそうです」

 「ふん……自分らは、命の代わりに灯を飛ばすってか」


 灯がひとつ、またひとつ消えていく。

 まるでその光が、誰かの心を鈍く麻痺させていくようだった。


 俺たちは目を逸らし、歩き出した。


 港へ戻ると、行き交う人々が口々に“首都での大儀”の話をしていた。

 ――ルミナが祈るのは、この国の中心“セレスティア”だという。


 「……首都に、いるのか」


 風が頬を打った。

 背後で祭の音が遠ざかっていく。


 船着き場には、昼間と同じように潮が打ち寄せていたが、

 さっきまで柔らかく見えた水面は、どこか鈍く重たく見えた。

 甲板へ向かう足取りだけがやけに速い。


 船に乗り込むと、甲板の帆が鳴った。

 舵を握り、シアが無言で見上げる。

 さっき撫でた青い雫が、二人の胸元で静かに揺れていた。


 「……こんな所さっさとおさらばだな」


 ぽつりと、誰にともなく呟く声が口をついて出た。


 「そうですね……でもいいこともあったので立ち寄ったのは正解です」

 シアがそう言って、そっと雫を握りしめる。

 リュカも視線を逸らしたまま、短く鼻を鳴らした。


 俺は短く告げた。


 「セレスティアへ。――急ぐぞ」


 帆が風を孕み、イルクアスターは再び空を裂いた。

 空の色は、もう灰青ではなく、どこか鈍い銀に濁っていた。

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