第94話:報酬と、始まりの風 (騎士編・完)
風が、草原を渡っていた。
王都の外縁。まだ修復の足場が残る白い城壁の向こうに、
一隻の船が浮かんでいる。
イルクアスター。
戦の夜を越え、今は静かに朝の光を受けていた。
帆は展げられていない。
それでも、船体の木肌が微かに光を帯び、
空に溶け込むように浮かんでいる。
甲板の上では、影たち、シャドーズが動きを見せていた。
彼らは声を発しない。
ただ、音もなく荷を整え、ロープを締め、出航の準備を整える。
俺は舵に手をかけ、ゆるやかな風を受けていた。
包帯は取れ、いつものように襟を緩く開けている。
頬をなでる風は冷たいが、胸の奥は静かに燃えていた。
「……さて」
独り声が風に溶ける。
振り返ると、草原の斜面に人の列が見えた。
リュリシアだ。
青の王衣をまとい、金の髪を風に揺らして立っている。
その隣には、白銀の鎧をまとったエレナ。
ヴァルセリクスを腰に帯び、凛とした眼差しを向けていた。
さらにアドリアン、リシアン、セラ、
アイリスと小ネリス、
そして王国の騎士たちがその後ろに並ぶ。
朝の光が、彼ら全員を包んでいた。
兵士を残しリュリシア達が船に上がってきた。
「……本当に、行くのですね」
リュリシアの声が届く。
王ではなく、少女の声で。
俺は軽く手を上げ、いつもの調子で笑う。
「王都の空気は俺には重い。しばらく風にでも当たってくるさ」
「それを、“旅立ち”と言うんですよ?」
リュリシアが静かに微笑む。
「戻る約束を、忘れないでくださいね?」
コールは少しだけ肩を竦め、
「……ああ。戻るさ」
とだけ言った。
その言葉に、リュリシアの瞳が柔らかく光る。
エレナが一歩前に出る。
「……身体は、もう平気なのか」
「ん?、まだ腰の辺りは痛ぇけどな。
ま、これくらいがちょうどいい」
「そうか」
短いやり取り。けれど、そこに多くの言葉が詰まっていた。
「聞きたいことがある」
エレナの声が、草原の風に溶けた。
朝の光を背に、彼女は静かに俺を見上げていた。
「……街道で、おまえが私たちを助けた時のことだ」
舵にかけていた手が、自然と止まる。
まさか、その話を今されるとは思わなかった。
「あの時、リュリシア様が“報酬は何がいいか”と聞いた」
「……あぁ」
「その時、おまえは何も望まなかった。
けれど……本当は違ったのではないか?」
俺は小さく息を吐く。
風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……あれをまだ覚えてるのか」
「だから聞いている…あの時お前はほとんどリュリシア様を見ていなかったな?」
その言葉に、心臓が一瞬止まった気がした。
エレナは続ける。
「視線は……私を見ていたのを思い出した…。だから、気になっていた」
俺は苦笑して、帽子の庇を指で押した。
「…そんなに気になるのか?」
「気になる」
「……真面目だな」
「答えてくれ」
風がひとすじ、二人の間を抜けていく。
その音がやけに遠く感じた。
焦げた馬車。
少女の隣に立つ――赤髪の騎士。
陽光を透かした髪が、やけに綺麗だった。
あの時、思わず目を奪われた。
喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
言えるわけがない。
命を拾ったばかりの他人に、そんなこと。
だから、笑ってごまかした。
「……ほんとに聞きたいのか?」
「教えろ…」
「…」
少しの沈黙。
風がエレナの髪を揺らす。
陽の光が頬を照らし、その横顔が――やっぱり綺麗だった。
「……なら」
俺は一歩、前に出た。
「今もらう」
エレナの瞳がわずかに揺れる。
その瞳の奥に映る自分が、妙に遠く見えた。
「な、何を――」
言葉の途中、風が吹いた。
マントが揺れ、陽光が一瞬だけ遮られる。
その隙に、俺は手を伸ばしていた。
頬に触れる。
指先に、冷えた空気と、熱が同時に伝わる。
「――っ」
エレナの息が止まる。
そして、…唇が触れた。
ほんの一瞬。
風よりも短く、火よりも確かに。
触れるだけの口づけだった。
沈黙。
草原を渡る風の音だけが、やけに大きく響く。
背後で、誰かの息を呑む音がした。
「え……?」
リュリシアの小さな声が、風にかき消される。
「「あぁー!?」」
リュカとシアは声を上げて互いに口を抑え、シアはすこし睨み気味、
アドリアンは固まったまま視線を逸らし、リュリシアの目を塞ぐ。
その隣でセラ達が真っ赤になって口を押さえ、
リシアンはため息をつき、
アイリスと小ネリスはきょとんとしたまま顔を見合わせている。
唯一、動かないのは――エレナだった。
離れると、彼女の瞳が揺れていた。
驚きと、怒りと、それでも――消えない何かがそこにあった。
「これで…あの時の報酬は受け取った」
俺は軽く笑って、帽子の庇を直す。
「ずっと貰いそびれてたからな」
エレナはしばらく黙っていたが、やがて小さく息をつく。
その表情は、怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。
「おまえ……最低だ」
「知ってる」
「……こんな…まったく」
言葉が途切れる。彼女は目を伏せ、かすかに唇を噛んだ。
「……やっぱり、ずるい奴だ」
「まぁな」
背後で、リュリシアがそっと微笑む。
その笑みには、呆れと温かさが入り混ざっていた。
「……それが、あなたの“報酬”だったのですね」
小さく呟くような声が、風に流れる。
ーーーーーそれから、それぞれが自分の場所に戻った。
俺は舵へ戻り、風に背を預けた。
イルクアスターの木肌が、淡い光を帯びていく。
帆が鳴り、朝の風を孕む。
エレナはしばらく立ち尽くしていたが、
やがてゆっくりと顔を上げた。
「………」
風が強くなり、草原の花が波のように揺れる。
小さくなる彼女たちの姿を見下ろしながら、
心の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。
――あの日、言えなかった言葉。
今ようやく、風に流せた気がした。
空はどこまでも澄んでいた。
それは“別れ”の色ではなく――“始まり”の青だった。




