第92話:明日をつなぐ影
空では、まだ戦いが終わっていなかった。
黒と紫の閃光が、夜空を裂くように交差している。
セリウスの手のひらから伸びる闇の刃は、もはや天の線そのもの。
一振りで雲を裂き、一呼吸で雷を飲み込む。
「……人の身でここまでやるか」
セリウスの声が低く響く。
「だが、その“影”は生命ではない。命なき存在が、我に何を見せる?」
次の瞬間、セリウスの掌がわずかに傾いた。
――空間が歪む。
黒い閃光が放たれ、コールの胴体を貫いた。
音もなく、影の身体が二つに裂ける。
だが、そこに血は流れない。
切断面から黒い霧がふわりと立ち昇り、
まるで時間そのものを巻き戻すように、コールの姿が元に戻った。
「イヒヒヒ……効かねぇよ」
裂けた口が笑う。
「影には臓もねぇし、心臓もねぇ。ただ“俺達”がある…ヒッヒッヒッヒ!!」
セリウスの瞳がわずかに細まる。
「不快な存在だ。……ならば、消滅させるまで」
次の瞬間、光ではなく“歪み”が奔った。
空間が裏返り、あらゆる音が飲み込まれる。
深淵の法則がコールを裂く――はずだった。
しかし、その刃は何かに弾かれた。
コールの剣が、青黒い軌跡を描いている。
刃が光を呑み、空気を裂く。
「やっぱテメェも……これが怖ぇんだなぁ?ヒャッハッハッハッハ」
セリウスの眉がわずかに動く。
彼は初めて、一歩下がった。
「その剣……禍々しい造形の割に、祈りを帯びているな。
我が理の外にある“希望”の形……忌まわしい」
「ヒヒヒ……希望?何いってんだがさっぱりだぜぇ?」
コールが剣を軽く回し、銃を影の中に沈める。
「銃はダメみてぇだが――こっちはぁあああああ?」
「ッチ、おのれ…煩わしい!!」
セリウスが手を振ると、数千の闇刃が生まれ、
まるで星座のように夜空を覆った。
コールは笑う。
「ぉお〜きれいだな。……じゃあ、ぶっ壊すか」
影が凄まじ勢で回転する。その動きは光よりも速く、
迫る黒い刃が次々と砕け、残響が夜空に溶けていく。
セリウスの眼が見開かれる。
「なぜだ――“深淵”が、押されている……だと?」
影の剣が、再び光を宿した。
祈りの剣の残滓が、コールの闇に混ざって脈動している。
「お前の理はここまでだ。次は……俺の番だ」
影が跳んだ。
黒と光の軌跡が交差し、
夜空そのものが――悲鳴を上げた。
もはや光も闇も区別がない。
深淵の理と、影の意志がぶつかり合い、世界そのものが軋んでいるような音が響き渡る。
セリウスの瞳が紅を帯びる。
冷徹なはずの声が、低く揺れた。
「なるほど。確かに、理の外だ。ならば……その理ごと、壊すまで」
周囲の空が沈み込む。
星々が裏返り、夜が“落ちて”いく。
その中心で、セリウスの体から黒い紋様が放射状に広がった。
「《アトラ・ヴェルム・アビス》――深淵反転陣」
空気が鳴動した。
風が消え、音が止む。
次の瞬間、天地が反転した。
大地が空に浮かび、空が地へ沈む。
すべてが“裏側”にひっくり返ったような錯覚。
存在の境界が消え、影も光も同じ形に溶けていく。
「これが、我が全て……理の核。
世界を一度、無に戻す!」
セリウスの声が震えた。
その両腕は裂け、血ではなく虚無が流れ出す。
彼自身が崩壊を代償に、世界を消し去ろうとしていた。
「消えろ、“影”よ! 理の外に居るお前は、この反転に耐えられぬ!」
次の瞬間、光も闇も飲み込む閃光が爆ぜた。
大気が反転し、空が白一色に塗り潰される。
――静寂。
セリウスは息を荒げていた。
空に浮かんだまま膝を曲げる、身体の半分が崩壊しかけている。
それでも、その唇に薄い笑みが浮かんでいた。
「はぁ、はぁ……これで……消え去ったか……」
そう呟いた、その背後で――何かが“笑った”。
「……イヒ、ヒヒ……」
影が、音もなく再び形を取る。
焼けた世界の残滓の中で、黒い輪郭がゆらりと立ち上がった。
コールの影だ。
身体の半分が崩れ、空気のように透けながらも――笑っていた。
「ヒッヒッヒッヒ……お前の理、つまんねぇなぁ〜?」
セリウスの瞳が、驚愕に見開かれる。
「貴様……存在が――なぜだ!!」
「理がねじれる?関係ねぇ。俺は“外”から来たんだろ?
なら、この世界のルールに従う義理はねぇんだよなぁ〜、まぁ、わかんねえけど!アッヒャッヒャッヒャ!!」
コールの声が、狂気が響く。
剣が再び形を取り、影の中で淡く蒼く輝いた。
その光は、まるでエレナの祈りが遠くで呼応したように震えている。
セリウスが叫ぶ。
「来るな――!!」
だが、叫びは遅い。
影が跳ぶ。
その刃は光も闇も貫き、深淵の核を正確に裂いた。
「……バカな、理が、逆流する?!」
崩壊が始まった。
セリウスの身体が内側から砕け、無限の光を放つ。
闇が蒸発し、世界が元の“表側”に反転していく。
「……こんな…私は」
虚無の光が消え、夜が戻る。
影はその中央に立っていた。
コールは空を仰ぎ手を伸ばす。
「……いいおもちゃだった、もっといねぇかな?ヒャッハッハッハッハ」
……夜空には、不気味な笑い声だけが残った。
風が止み、闇が静かに沈んでいく。
光も、深淵も――すべてが消えた。
残ったのは、ひとつの“影”だけ。
コールの姿が、ふらりと揺らぐ。
笑い声が途切れ、息が漏れた。
「……疲れた……、あ…やべ」
影の輪郭が崩れはじめる。
煙のように散り、肉体の形が戻っていく。
頬は白く、髪が黒に、眼の紅が――淡い灰に変わっていく。
「……っ……やっぱ、無理しすぎ……これ……」
その声には、疲労と痛みが滲んでいた。
笑っていた口元から、黒い血がひとすじ零れ落ちる。
胸の奥で、深く鈍い痛みが広がる。
今になって初めて――“理の外”で受けた衝撃が、肉体を蝕んでいることに気づいた。
「……なるほど、効いてたわけだ……はは、やるな……」
力が抜けた。
浮遊していた体が重力を取り戻し、
次の瞬間、音もなく空から落ちていった。
黒い雲を割って落下するその軌跡は、
まるで燃え尽きた星のようだった。
「「コール!様!」」
リュカとシアの声が響く。
空が裂けたような音とともに、何かが地に叩きつけられた。
砂煙の中に横たわる影達――その中心にいたのはコールだった。
「っ、アーク……!」
リュリシアが駆け寄る。
その体は酷く焼け爛れていた。
だが、まだ――呼吸があった。
エレナが跪き、ヴァルセリクスを地に突き立てる。
剣の光が淡く震え、
彼の胸の鼓動に合わせて明滅する。
「……生きている。だが……このままでは危険だ」
剣の光が彼を包む。
まるで祈りが、彼の命の形を繋ぎ止めているようだった。
リュリシアが呟く。
「……空の戦いは、終わったのね」
エレナは頷く。
「はい…これでようやく」
ヴァルセリクスの光が、最後に一度だけ強く瞬いた。
その光は静かに彼の胸に沈む、そして夜が明けていく。
――長い長い夜の底に、初めて“朝の色”が差し込む。
山の端が、かすかに紅く染まり始めていた。
焼けた石も、黒く煤けた地面も、
淡い光を受けて、ただの「風景」へと戻っていく。
冷たい風が吹き抜ける。
血と灰の匂いを運び去り、代わりに、僅かな湿り気と土の匂いを連れてくる。
それは、戦場ではなく――“明日”の匂いだった。
リュカが腰を下ろし、空を仰いで大きく息を吐いた。
「……終わった、んだよな。マジで」
「ええ。……終わりました」
コールを膝の上で寝かせシアが小さく答える。
その反対でリュリシアはそっと、コールの手を握る。
まだ冷たいその指先に、自分の体温を分け与えるように。
「……アーク。あなたが繋いだ“明日”……絶対に、無駄にはしませんから」
エレナは静かに目を伏せた。
左の青い瞳だけが、朝焼けを映して淡く光る。
ヴァルセリクスは何も語らない。
けれど、その沈黙は――確かな“了承”のようでもあった。
遠く、山の下のほうから、遅れて鐘の音が響いた気がした。
それが街のものか、誰かの魔具かは分からない。
ただ、それが“始まり”を告げる音のように聞こえて、
誰も、しばらくのあいだ口を開かなかった。




