第91話:深淵と影
セリウスの指先がわずかに動いた。
それだけで、空間が軋む。
人よりも大きな黒い光が直線となり、エレナを飲み込もうとした。
反応する間もない――誰もがそう思った。
「――っ!!」
閃光が弾ける。
空気が震え、金属音が轟いた。
光の軌跡が逸れ、岩壁を穿つ。
瞬間、後方の山肌が音もなく吹き飛んだ。
「……あれ?」
リュカの声が掠れる。
エレナの目の前には――黒い影があった。
人の形をしている。
だが、それは地に落ちた影そのもの。
剣を握る腕の動きが滑らかで、まるで重力の制約を受けていない。
「…………アーク?」
リュリシアが息を呑む。
「ヒヒヒ…いつもよりは…イヒヒヒ、ましだな…」
その“影”が、ゆっくりと顔を上げた。
輪郭はコールと同じ。
だが、瞳は赤く光り、口も不気味に裂けている。
エレナの目が見開かれる。
「アーク…その姿は?」
コールの声が低く響く。
「イヒヒヒ……最高にいい気分だ…」
セリウスの唇が、わずかに笑みに歪む。
「ほう……面白い。
それが――お前の“生と死の狭間”の姿か」
再び、空気が震えた。
セリウスの手のひらから黒い刃のような波動が放たれる。
それを、コールが構えた剣で受ける。
金属音ではない。
“存在と存在”がぶつかる音。
衝突の瞬間、空気が爆ぜ、周囲の岩壁が波打つように吹き飛んだ。
だが、エレナたちの前には一切の衝撃が届かない。
コールが――そのすべてを逸らしていた。
リュカが呟く。
「……あれを……弾いたのかよ……」
セリウスが、愉悦の笑みを浮かべる。
「なるほど。影を媒介にして“因果”を反転させたか。
実に人間離れした発想だ。――いや、“人間”ではないか」
コールは黙ったまま、剣を構える。
影と一体化した彼の輪郭が、淡く揺れる。
その姿は、まるで夜そのものが剣を持って立っているかのようだった。
風が止む。
光が消える。
そして――闇の底で、二つの存在が向き合う。
祈りの剣と、深淵の使徒。
その狭間に、ひとりの“影”が立っていた。
沈黙を裂いたのは、乾いた銃声だった。
「ヒヒヒ……次はこっちの番、だぜ?」
コールがゆっくりと腕を上げその掌から伸びた黒い銃身。
次の瞬間――影の魔導銃が唸りを上げた。
銃弾は光ではない。闇そのものだった。
直線を描かず、空間を滑るように歪みながらセリウスを囲む。
連射。重なり合う発射音が、まるで心臓の鼓動のように鳴り響く。
だが――セリウスは避けなかった。
ただ片手を上げ、静かにその弾を受ける。
黒い弾丸が肉に突き刺さる。
それでも血は流れない。
次の瞬間、弾痕が蠢き、逆に肉が飲み込むように“再生”した。
「不死身?……イヒヒヒ」
コールが呟く。
セリウスが笑う。
「我は“理”の外側にある者。死も滅びも、もはや概念に過ぎぬ」
言葉が終わるより早く、コールが踏み込んだ。
――刃が交錯する。
光ではなく、影と影の衝突。
金属音にも似た衝撃が連続し、地面に深い亀裂が走る。
目にも止まらぬ速さ。
その中で、ふとセリウスの動きが止まった。
「……なに?」
彼の頬に、一筋の線が走っていた。
血ではない。
光――淡く白く輝く“裂け目”だった。
「……ば、かな。ヴァルセリクスでしか……」
コールの剣は紫の文様の他にも、わずかに光を帯びている。
その刃は影でありながら、確かに祈りの光を宿していた。
セリウスの表情が歪む。
「貴様のその剣……何だ……何故、“理”を傷つけられる!?」
コールが口角を吊り上げる。
「ヒャッヒャッヒャッヒャ!!さあな!!もっと切り合おうぅぜえええ!!ヒャッハー!!!!!」
セリウスが後退する。
その動きは優雅で、だが確実に警戒を含んでいた。
「……この感覚、懐かしい。…だが今は」
セリウスの身体がふわりと浮かび上がる。
風もないのに、彼の足は地を離れた。
黒い翼のような魔力が背から広がり、上空へと舞い上がる。
「おいおいおいおい……逃げるのかぁ?」
コールが顔を上げ、口の端を歪めた。
足元の影が波打ち、彼の身体を包み込む。
――影が、空へ昇る。
人の形をした黒い残光が、セリウスの後を追うように舞い上がった。
空間が歪む。音が遅れる。
羽がないのに、コールの身体は浮遊し、深淵の使徒と同じ高さに並んだ。
「なに!?……貴様…、何者だ」
セリウスの手から、黒い波動が放たれる。
だが、コールは一歩も避けない。
その一撃を真正面から受け、煙のように身体が崩れ――
次の瞬間、背後から現れる。
「……っ!? 消えた……だと!?」
セリウスの声に焦りが滲む。
影は“破壊”されても、“存在”を失わない。
闇が傷を飲み込み、すぐに元の形へ戻る。
「なんだよー、不死身どうし…楽しく遊ぼうぜぇエエエ!!ェヒャハッハッハッハ!!!」
コールが囁く。
刃と刃が再び交差する。
空を裂く閃光。
深淵と影――二つの異界が、夜空でぶつかり合った。
ーーーーー
天が裂けていた。
黒と紫の閃光が夜空を縫い、轟音が幾度も響く。
影と深淵がぶつかり合うその上空を、誰も直視できない。
だが――地上にも、もうひとつの“戦い”があった。
「……これが、お前の選んだ道か、バルデス卿」
エレナがヴァルセリクスを構える。
剣身の蒼光が、闇に揺れる灰のように煌めいた。
バルデスは既に人ではなかった。
片目の魔道具が黒く脈動し、皮膚の下では血管の代わりに魔の紋が浮かび上がっている。
その呼吸ひとつで、空気が焦げた。
「選んだのではない。
もはや我らに――“選ぶ自由”など残されていなかったのだ」
彼の声は震えていない。
ただ、底冷えするほど静かだった。
「偽善の行いで自国の民は飢え、王までも偽りを語る。
我らは試練を求めた。救いではなく、“意味”を。
だが……貴様らはそれすら奪った」
「……それでも」
エレナの声が低く響く。
「お前がいま殺そうとしているのは、この国の“心”だ。
リュリシア様を、そして未来を」
バルデスの口角がわずかに歪む。
「未来? 未来などとうに腐り果てた。
この世を正すのは、神ではない――力だ」
次の瞬間、地が裂けた。
バルデスの足元から黒い根のような魔力が走り、地面を這い上がる。
それは蛇のようにうねり、エレナへと襲いかかる。
「くっ!」
エレナが跳躍し、ヴァルセリクスを振るう。
蒼光が走り、魔の根を断ち切る。
切断面から黒い霧が立ち昇る――だが、すぐに再生した。
「無駄だ!この力は“深淵”より授かりし再誕の理!
斬っても、焼いても、消えぬ」
「ならば――貴様ごと貫く!」
エレナが突き出す。
ヴァルセリクスの刃が地を這う光となり、一直線にバルデスの胸を狙う。
しかし、黒い腕がそれを掴んだ。
鋼を握り潰す音が響き、剣身がわずかに軋む。
「……ぬるい」
バルデスの魔道具の眼が光を放つ。
瞬間、周囲の空気が圧縮され、岩が潰れるように沈んだ。
エレナの身体が吹き飛ぶ。
「ぐっ……!」
膝をつき、息を整える。
「お前の剣は確かに神聖だ。
だが、神の剣は“人”を救わぬ。
それが、この国の悲劇だ」
エレナは黙って立ち上がる。
剣を構え、静かに目を閉じた。
「……そうだ。神は救わない。
けれど――私は、“人を救うため”にこの剣を振るう」
ヴァルセリクスが震える。
光が拡がり、彼女の片目が青く染まった。
その瞬間、世界が一閃した。
蒼白い光が走り、黒い根をすべて焼き尽くす。
一瞬にしてエレナはバルデスの背後に立っていた。
「な……!」
彼の左腕が崩れ落ちる。
再生しかけた魔の紋が、光に触れて消滅していく。
「貴様……その力……」
エレナが静かに言った。
「“祈り”を忘れた者には、届かない」
バルデスが後ずさる。
空では影と深淵が激突し、轟音が響いている。
彼はその光景を見上げながら、苦笑した。
「……やはり我らは、“人”でしかなかったか」
最後の魔力が彼の身体を包み、砂のように崩れ始める。
「試錬の先に…王国に、繁栄を…………」
そう呟いたまま、バルデスは塵となり消えた。
風が吹く。
エレナは剣を下ろし、空を見上げる。
黒い閃光と紫の影が交錯するその上空――
影の中の男が、深淵の使徒と向き合っていた。




