第90話:封印の扉
山道を覆っていた魔の群れは――気づけばすべて消えていた。
誰もその瞬間を見ていない。
ただ、青と赤の光が夜を裂き、風が通り抜けたあとには、道がまるで祈りで清められたように続いていた。
「……すげぇな。もう山ごと切り開いたみてぇだ」
リュカの声にも、誰も返さなかった。
エレナが前に立ち、淡く光るヴァルセリクスを下ろす。
その光はまだ温かく、まるで導きの灯のようだった。
やがて――霧が開く。
目の前に現れたのは、石と光が入り混じる奇妙な空間。
山肌が円形に削られ、中央に巨大な“門”のようなものが埋め込まれている。
扉には刻印がびっしりと刻まれ、封じの鎖が複数の石柱へと延びていた。
そして――その扉の前。
黒い外套を纏ったバルデスが、静かに立っていた。
彼の足元には一本の剣が突き刺さっている。
形はヴァルセリクスとよく似ていた。
風が吹く。
鎖が鳴り、地面の刻印が淡く光る。
まるでこの地そのものが、彼の到来を待っていたかのように。
「……待っていたぞ」
バルデスの声は低く、岩壁に反響して響いた。
リュリシアが一歩前に出る。
「バルデス卿……封印の守人だったあなたがなぜこのようなことを」
バルデスは答えない。
ただ、目を細め、封印の扉を見上げていた。
その視線の先で、刻印がわずかに動く。
――封印が、“呼吸”している。
鎖が鳴り、空気が歪む。
バルデスの外套が、風もないのにゆらりと揺れた。
彼の唇がわずかに動く。
笑っているのか、泣いているのか判別できない。
「……偽りの王よ」
その声は、ひどく静かで、ぞっとするほど冷たかった。
「貴様はなぜ、この国を苦しめる?
我が祖国を――弱らせてまで、そんな異形を招き入れた」
エレナがわずかに眉を寄せる。
「異形……?」
「そうだ、忌まわしき外の者どもだ!」
バルデスの声が跳ね上がる。
足元の刻印が赤く光り、石が軋む。
「この地を穢したのは貴様らだ、我らが誇りを嘲い!
国を陥れた逆賊が!なぜ神の椅子に!……」
リュカが剣を構えた。
「……正気じゃねぇな」
バルデスは、ゆっくりとこちらを振り向く。
その瞳は、もはや人の色をしていなかった。
深紅の光が瞳孔を貫き、額の刻印が燃えるように輝いている。
「神はこの国を見放した、いや、試練を与えたのだろう…。
ならば――どんな手を使ってでもそれを乗り越えてみせよう!!!」
地鳴りが起きた。
封印の扉が震え、鎖が弾けるように鳴る。
バルデスの背から、黒い魔力の靄が立ちのぼった。
それはまるで、封印そのものと“同調”するかのように。
バルデスは懐から黒い円筒状の魔道具を取り出した。
脈動している…まるで生き物の心臓のように。
「やめなさい!バルデス卿!」
リュリシアの声が鋭く響く。
だが、彼は一歩も止まらなかった。
そのまま――自らの片目に、指で無理やりその魔道具を押し込んだ。
「――っ!」
乾いた音と共に、血が弾けた。
目の奥で黒い光が爆ぜ、魔力が暴風のように吹き荒れる。
封印の空気が震え、刻印が狂ったように赤く脈動した。
「これが……“試練”か……!!」
バルデスの声はもはや人のものではなかった。
空気が震え、影が形を失っていく。
彼は封印の前へ進み出る。
地面に突き刺さった“封印の剣”――それを両手で握ると、
魔道具の光が脈動し、刃に黒い血管のような紋様が走った。
「やめろ!!」
エレナが叫び、駆け出す。
だがその瞬間、バルデスの足元から“何か”が溢れ出した。
――闇。
それは煙のようであり、血のようでもあった。
エレナが目を細める。
「ッおのれ……!」
横合いから、ねじれた翼を持つ影が飛び出す。
人の形をしたそれは、顔を焼き爛れさせ、悲鳴のような声を上げた。
「くっ……邪魔だぁああ!」
エレナが剣を構え、切り払う――だが、その一瞬の遅れが命取りだった。
封印の剣が、地を裂くような音を立てて――引き抜かれる。
「ッ!!」
赤黒い光が空へと噴き上がる。
封印の鎖がすべて砕け散り、周囲の空気が悲鳴を上げる。
山全体が脈動し、地が唸った。
バルデスの瞳――いや、魔道具が埋まったその眼窩が光る。
そこから溢れた黒い光が、抜かれた剣にまとわりつく。
「ついに……応えたか……!」
彼の口から、喜悦とも絶望ともつかない笑い声がこぼれる。
封印の扉が、軋みながら開き始めた。
――剣が抜けた瞬間、空気が変わった。
音も、風も、息づかいすらも止む。
世界が一瞬、“待つ”ように沈黙した。
――巨大な門が、ゆっくりと開いていった。
黒い霧が、門の奥から流れ出す。
それは腐敗の臭いもなく、ただ冷たい。
夜の温度を奪う、静寂そのもののような闇だった。
「……成功、か」
バルデスが低く呟く。
声には狂気よりも、むしろ確信と満足があった。
「バルデス卿、何を――」
リュリシアが一歩踏み出す。
「我らは負け続けてきた。貴様ら異端共に。
だが――これで終わりだ。
神が見放したなら、自らが神に並ぶ力を手にする。それだけのことだ」
彼は血に濡れた片目を押さえながら、冷たく笑う。
その眼窩には、先ほど埋め込んだ黒い魔道具が淡く脈動していた。
「お前たちが異形を招くなら、我々もまた“異形”を用いる。
この国の未来を、奪い返すために!!」
その言葉に、エレナの表情が鋭く変わる。
「……あなた、まさか……!」
門の奥――何かが“形”を取ろうとしていた。
黒い霧の中に、人の輪郭が浮かび上がる。
背は高く、白い肌、長い髪。
動きは静かで、まるで落ちる羽根のように軽い。
「……あれが、上級魔族、深淵の眷属」
エレナがヴァルセリクスを構えた。
黒い霧の中に、人の輪郭が浮かび上がる。
背は高く、白い肌、長い髪。
その足が地に触れるたび、空気が軋み、世界の色がわずかに薄れた。
音はない。
だが、誰もが“言葉”よりも先に理解していた。
――この存在は、生き物ではない。
ゆっくりと、封印の門の奥から降り立つ。
黒い霧がその身体の形を成し、白い衣のようなものが揺らめいた。
その瞳は、底の見えない蒼黒――光をも呑み込む深淵そのものだった。
バルデスは、震える息を整えながら膝をつく。
「……貴殿が……“深淵の眷属”……」
その存在はわずかに首を傾け、静かに口を開いた。
声は低くも柔らかく、だが心の奥に直接響く。
「久しいな、人の子よ。
我を呼び覚ます者など、千年は経ったか?今暫くは我を呼び覚ますものは現れぬと思っていたが……」
バルデスは息を呑み、そして――誇り高く頭を下げた。
「我らは貴殿の名を伝承に刻み、再びこの地にその力を賜る日を待ち続けた。
どうか――約定の通り、この国に力を……」
深淵の存在が、ゆっくりと視線を落とした。
その眼差しは冷たいが、どこか愉しげでもある。
「ああ、約定は守ろう。
その器に宿る憎悪と渇望……実に良い味だ。
人の身でここまで己を捧げられるとは、称賛に値する」
バルデスの口元がわずかに歪む。
「……ならば、我らはついに神の座に並ぶ」
「神、か」
深淵の者――アビスロードは、淡く笑った。
「我が名はセリウス。
貴様らの言う“神”などよりも古く、そして深い場所に生まれた。
深淵の主に仕える使徒である」
その瞬間、地面の刻印が脈動した。
バルデスの魔道具の眼が黒く光り、身体がわずかに痙攣する。
「……っ!」
膝をつきながら、彼は歯を食いしばる。
「素晴らしい力だ、これがあれば我が国は……!」
アビスロードはその様子を見て、まるで人間の玩具を観察するように微笑んだ。
「ふむ。壊れぬだけの器は、珍しい…、だがそれよりも」
その視線が、ふいに動いた。
彼の瞳が、ゆっくりと別の方向へと向く。
「……面白い」
空気が凍る。
彼が見ている先には、地面に横たわる――コール。
「ん?なんだ?」
「ほう? この魂……人ではないな。
だが、魔でも聖でもない。
生と死の狭間にありながら、なお燃えている……」
アビスロードの足が静かに前へと動く。
その歩み一つで、空気が歪み、砂が浮かび上がる。
「なぜだ……お前、何者だ?」
リュカが咄嗟に前に出ようとする。
だがその瞬間、エレナの声がそれを制した。
「下がれ、リュカ!君たちの手に追えるものではない!!」
彼女の瞳が鋭く光り、ヴァルセリクスが再び蒼白い輝きを放つ。
「セリウス――あなたをここに留める」
「ほう。誓いの剣を携えし者か…懐かしい。
ならば、試してみよう、お前の“祈り”が、どこまで深淵を裂けるかを」
アビスロードが手を掲げた。
黒い光がその掌から滴るように零れ、空間に広がる。
――空気が裂けた。




