第89話:祈りの光
世界が、息を呑んだ。
風も炎も、音すらも止む。
戦場のすべてが一瞬、絵のように静止した。
ヴァルセリクスの刃を中心に、光が地を裂き、天へと昇る。
それは炎ではなく、祈りの光。
青白く、穏やかに――だが確かに“生の力”を宿していた。
光の柱の中、エレナの身体がゆっくりと浮かび上がる。
焦げた血が蒸発し、傷口が淡く輝いて塞がっていく。
その瞬間――彼女の瞼がわずかに動いた。
ゆっくりと、目を開く。
右の瞳は、いつもの深紅。だが――左の瞳が、静かな蒼光に染まっていた。
青い瞳は、怒りではなく慈しみの光を宿していた。
それはヴァルセリクスが、彼女の“誓い”を受け入れた証。
剣の意志が、彼女の魂とひとつになった証だった。
エレナはその光の中で、静かに微笑んだ。
「エレナ……」
俺はその姿を見届けて、安堵の息を漏らす。
光が眩しくて、視界が滲む。
「……あと、頼む」
そう呟いた途端、膝が崩れた。
「……任せろ」
エレナの声が聞こえた気がした。
それは風の中に溶けるほど静かで――それでも、確かに力強かった。
次の瞬間、光が弾けた。
――誰も、動きを見ていなかった。
ただ、空気が裂ける音だけが連続して響く。
青い残光が、走るたびに刻印者たちの身体を貫き、
黒い紋様だけを切り離していく。
血は流れない。
傷もない。
ただ、刻まれた“呪い”だけが剥がれ落ち、
砂のように風へと散っていった。
「……あれが、ヴァルセリクスの……」
リュカが息を呑む。
エレナは一歩、二歩と進むたびに風を纏い、
その身を淡い光が包んでいく。
剣を振るうたびに、戦場が静まった。
悲鳴が消え、呻きが止む。
――まるで“祈り”そのものが形を持ったようだった。
刻印者たちの呻きが、次第に途絶えていく。
その代わりに――
低く、濁った唸り声が、戦場の奥から這い出した。
試練派の兵たち。
彼らの身体はすでに人の形を保っていない。
刻印が全身に拡がり、血肉が黒い煙を上げながら崩れていた。
「……もう、人じゃないのね」
リュリシアの声が震えた。
エレナはその言葉に、ただ小さく頷いた。
青い瞳が、淡く光を宿す。
次の瞬間、彼女の姿が掻き消えた。
風が走る。
剣閃がひと筋、空を裂いた。
それは怒りの刃ではなかった。
涙のように静かで、祈りのように穏やかだった。
切り裂かれた試練派の兵たちは、一声も上げずに崩れ落ちた。
血は流れず、骨も残らない。
ただ、光の粒子となって風に散りゆく。
やがて――静寂。
立っているのは、エレナひとり。
風が止み、光が薄れていく。
その中で、彼女は目を閉じた。
青い瞳の輝きがゆっくりと消え、
ヴァルセリクスが再び静かに眠りにつく。
――だが、戦いはまだ終わっていなかった。
砂となった兵たちの影から、新たな足音が響く。
赤い槍の紋章を刻んだ鎧――試練派の増援部隊だった。
「退けっ! 退けぇッ!」
先頭の兵が叫ぶ。
その胸には黒い魔導具が埋め込まれていた。
「ッチ……まずい」
小ネリスが息を呑む。
彼らは一斉に胸の装置へ手を当てた。
次の瞬間、血が爆ぜた。
肉体が砕け、血液が地を染める。
――血の結界。
犠牲によって張られる、最も忌まわしい防壁。
生きた命を媒介にして、あらゆる生の力を封じる。
リュリシアが悲鳴を上げた。
「やめなさい! それ以上は――!」
しかし、結界はすでに展開されていた。
血の霧が空を覆い、光を飲み込もうと広がっていく。
――だが、今回は違った。
エレナの足元に残る青白い光が、霧を拒んだ。
まるで祈りが、血の呪いそのものを拒絶するように。
「……無駄だ」
エレナの声は低く、静かだった。
結界が鳴動する。
赤い膜が震え、青の光とぶつかる。
だが、血が音を立てて蒸発しはじめた。
「なっ……ありえない……!」
残っていた試練派の兵が叫ぶ。
エレナの瞳がわずかに細まる。
右の赤が炎の意志を、左の青が祈りの誓いを宿していた。
「あなたたちはもう、“生”を拒んだ。
だが――私は“死”すら奪わない」
ヴァルセリクスが低く鳴いた。
音ではなく、響き。魂に届く声。
次の瞬間、青い光が広がった。
血の結界が裂け、燃え、風に還る。
兵たちの身体は静かに崩れ、光の粒子へと変わった。
誰ひとり、悲鳴を上げなかった。
それは滅びではなく、救済だった。
エレナは剣を下ろし、深く息を吐いた。
「……これで、終わりか」
祈りの光が静かに消えていく。
青い瞳が、最後に一度だけ揺らいだ。
風が静まり、夜が戻ってくる。
焦げた大地の上、ただ一筋の光だけがまだ消えずにいた。
その中心で、エレナは剣を収め佇む。
「……エレナ!」
リュリシアが駆け寄る。
彼女が抱きとめたとき、エレナはかすかに微笑んだ。
――青と赤の瞳が、ゆっくりと閉じていった。
「やっぱ、綺麗だな……」
俺は地面に横たわりながら、その光景を見上げた。
「ぐぇっ!?」
頬に妙な痛みが走った。
視界の端から、シアの指がにゅっと伸びてくる。
「おい、やめろシア……まだ動けねぇって……」
「そうですねぇ〜?」
まったく聞く気がない。
ぐりぐりと頬を突かれながら、俺は情けなく助けを求めた。
「リュカ……止めろ……」
「無理だな」
腕を組み、にやりと笑う。
「お前のほっぺでもち焼くんだって、知らねぇけど」
「……は? そんなこと……ぐぇっ! 痛ってててて、穴開く!穴開くって!?」
シアの指はさらに容赦なくほっぺをえぐる。
リュカの笑い声が混じって、
――戦場に、久しぶりの“人の音”が戻ってきた。
ーーーーー
戦が終わって、まだ一時間も経っていなかった。
風は冷たく、夜の匂いが漂う。
俺たちは北西の斜面を抜け、封印の地へ向かっていた。
バルデスの気配があったあの高台のさらに先。
地面には、焦げ跡と血の砂がまだ残っている。
そこを、俺は――
「おい……せめて歩かせろって……!」
影たちに大の字で担がれたまま、運ばれていた。
四人がかりで器用に肩に乗せられ、前後に揺られながら進む。
「どいたどいた、祭りだよ〜見世物だよ〜」
リュカが変な掛け声混じりに影を先導する。
「お前ら絶対楽しんでるだろ……」
影たちはまったく無表情のまま、歩調を崩さない。
少し前方では、リュリシアと小ネリスが話をしていた。
「封印の地はこの先です、バルデス卿もそこに。……アーク、少しでも休んでください」
「してるよ! 強制的にな!」
「ップ…だっせぇ」
シアは隣で口を膨らませ、俺の頬をまだいじろうとしてくる。
「シア、もうやめろ……」
「は〜い」
全然やめない。
空の端には、まだ青い残光が揺れていた。
あの“祈りの光”の名残が、封印の地へと導くように道を照らしている。
空の黒さと相対するように。
山頂を目指していたその途中、リュカがふと足を止めた。
「……おい、後ろ見ろ」
振り返ると、遠くの街に赤い光が瞬いた。
次の瞬間、炎の柱が立ち上る。
「……火の手か?」
側にいた影の一人ゴーグルが腰の望遠鏡を差し出す。
リュカはそれをひったくるように受け取り、目を細めて覗き込んだ。
「……あれは、魔族だ」
低く、確信を帯びた声。
リュカの眉間に皺が寄る。
街の中を黒い影がうごめき、炎の中で人の悲鳴が上がっていた。
その奥、別の光が走る。白と銀の鎧。
整然とした動きで街へ進軍している部隊がいた。
「……あれ、見覚えがあるな」
「確か…リシアンさんでしたか?」
シアがつぶやく。
リュカは望遠鏡を外し、短く息を吐いた。
「街に向かってる、助けに行くみたいだぜ」
リュリシアが静かに頷いた。
「ええ。――でも、私たちは行かなくては。
封印が開けば、あの火すら意味を失います」
その言葉に、誰も反論できなかった。
夜風が、焦げた匂いと血の残り香を運んでくる。
影たちは歩みを緩めず、俺を担いだまま進んでいく。
空の彼方では、炎と祈りの光が混じり合い、夜を染めていた。




