第84話:雲の上の優しさ
俺はいま、リュリシアを連れて“空の上”を歩いていた。
イルクアスターは雲を突き抜け、陽の光を浴びてゆっくりと滑っている。
下を見れば、一面の雲海。
ついさっきまで雨に濡れていたはずなのに、もう世界は青く、静かだった。
風が吹くたびに、雲が形を変えて流れていく。
リュリシアは手すりに触れ、遠くを見つめていた。
その頬に、まだ乾ききらない涙の跡が残っている。
「……雲の上って静かね」
小さな声が風に溶けた。
「だろ? でも下はまだ雨だ」
俺は答えながら、胸の奥に残る焼き印の痛みを押さえた。
雲の上には、音がなかった。
誰も泣かず、誰も祈らない。
ただ、空が広がっていた。
「……行こう」
「はい」
リュリシアは涙のあとをぬぐい、ゆっくりと頷いた。
俺たちは雲の上を滑る甲板を渡り、
医務室へと続く扉に向かった。
扉を開けると、静かな空気が満ちていた。
窓の外から光が差し込み、白い布をやわらかく照らしている。
ベッドの傍らにはリシアンとゲールがいた。
リシアンは疲れきった顔で、声をかけることすらためらうほどだった。
アドリアンはまだ眠ったまま。
けれどその胸は、確かに上下している。
あの戦いの時とは違う。
“生きている”――その事実が、この空間を満たしていた。
リシアンがこちらに気づき、わずかに目を見開いた。
「アーク……目を覚まされたのですか」
「まぁ、なんとかな」
軽く返すと、リシアンは口を閉ざし、目を伏せた。
沈黙が落ちる。
リシアンは手に持っていた布を静かに畳み、立ち上がった。
「……私は席を外します」
その言葉を、リュリシアが遮った。
「待って、リシアン……叔父様」
リシアンの足が止まる。
リュリシアは父の傍らに膝をつき、
そのまま振り返って微笑んだ。
「……ここにいてください」
リシアンは小さく息を呑んだ。
「リュリシア……だが、私は……あの時、君を……」
「分かっています」
リュリシアは首を横に振った。
「私を眠らせようとしたのは、守るためだった。
お父様を失ったのも……リシアン叔父様のせいじゃない」
その声音には、怒りも涙もなかった。
ただ、静かな優しさだけがあった。
リシアンの喉が震えた。
「こんな私を……まだ叔父と呼んでくれるのかい?」
かすれた声でそう言うと、
ふっと視線を逸らし、肩を落とした。
「私は……なんてことを……」
彼の手が震え、堪えていたものがあふれ出すように膝をついた。
リュリシアは迷いなくその背に手を回した。
「もう、いいんです」
その一言で、リシアンの肩が大きく揺れた。
ゲールは目を伏せ、静かに医務室を抜けてい行った。
室内に、父の呼吸と娘の嗚咽だけが残った。
外の空は、まだ青く広がっていた。
――――――しばらくして
アドリアンのまぶたがゆっくりと震えた。
長い沈黙のあと、浅く息を吸い、
まるで遠い眠りの底から帰ってくるように、目を開いた。
「……ここは……」
声は掠れていた。
けれど、その瞳には確かな光が戻っていた。
「お父様!」
リュリシアが叫び、すぐさま手を取った。
アドリアンは微笑んだ。
「リュリシア……生きて……」
言葉は途中で途切れ、代わりに涙がこぼれた。
「無理はなさらないでください」
ゲールがそっと支える。
アドリアンは頷き、ゆっくりと体を起こした。
その仕草はまだどこかぎこちない。
死から戻ったばかりの身体は、魂の重さを思い出しているようだった。
「……少し、夢を見ていた」
穏やかにそう言って、アドリアンは天井を見上げた。
「リュリシアが、生まれたばかりのころの夢だ。
リリアンもいたよ。……笑っていた」
リュリシアは小さく息を呑み、
その場にしゃがみ込んで涙をこらえた。
アドリアンはその姿を見届けると、静かにこちらを長く見つめる。
そして、静かに言った。
「皆、すまない。……少しだけ、アーク君と話をさせてくれないか」
俺が目で指示するとゲールは黙って頷き、
リュリシアの肩を支えながら部屋を出ていった。
扉が閉じ、部屋には二人だけが残る。
しばらく沈黙。
アドリアンは小さく息を整え、
言葉を探すようにゆっくりと口を開いた。
「もう一つ……夢を見たんだ」
俺は目を細める。
「夢、ですか?」
「この場所じゃない。……まるで別の世界だった。
夜の雨の音がして……誰かが泣いていた。
手紙を握りしめて……“もう一度”と呟いていた」
息が止まる。
胸の奥が一瞬で熱くなった。
言葉を返そうとしても、喉が動かない。
アドリアンは穏やかに続けた。
「不思議だね。……それが誰かは知らないのに、
まるで“君の記憶”を覗いていたような気がした。
夢のはずなのに――妙に、現実のようだった」
静かな間。
アドリアンは微笑んだ。
「リュリシアが君を選んだ理由が……今なら分かる気がする。
そして、私が君を信じられると思っていた理由も……」
視線がまっすぐに重なる。
「……そうか。君も、誰かを失っていたんだね」
その言葉に、動揺を隠せなかった。
否定も肯定もできない……ただ、静かに息を吐いた。
「……そうかもしれません」
アドリアンはゆっくりと頷き、目を閉じた。
「なら、きっと――まだ間に合う」
「間に合う?」
「君が失い取り戻そうとしているものも、リュリシアが守ろうとしているものも。
“過去”に置き去りにするには、まだ早い」
部屋の外では、風が吹き、雲が流れていた。
「リュリシアが守りたいのは、あんたやエレナじゃないのか?」
アドリアンはゆっくりと首を横に振った。
「そうか……君でも、あの子のすべては見えていなかったか……
いや、君だからこそなのかもしれないね」
窓からの光が彼の顔を照らす。
その表情は穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。
「リュリシアが守ろうとしているのは、“人の優しさ”だ」
「優しさ……?」
思わず聞き返すと、アドリアンは静かに微笑んだ。
「リュリシアは、人の“優しさ”そのものを守ろうとしている。
それは国でも、信仰でもない。
人が、痛みや悲しみの中でも優しくあろうとする心……その灯だ。
君と出会ってから、あの子はそれを“信じていい”と思えるようになった」
胸の奥が、かすかに疼いた。
その言葉はまるで、過去の俺が抱えていた現実を、
静かに指でなぞるようだった。
アドリアンは続ける。
「あの子は昔から優しかった。だが、それは無垢な優しさだ。
何も知らないままの、柔らかな光だ。
けれど君を見て、傷ついて、学んだんだ。
優しさは時として綺麗なだけじゃ守れない。けれど、それでも信じる価値があるものだとね」
俺は言葉を失った。
生前、俺は優しさを知っていても、使う理由を持たなかった。
他人に干渉しても、何も変わらないと信じていた。
――その考えが、リュリシアの中で静かに覆されていた。
アドリアンは薄く笑い、ゆっくりと目を閉じた。
「そして君も、失ったものを取り戻せる。
あの子が生きているのは――君が見つけた“優しさの意味”が、まだこの世界に残っている証だからだ」
外では雲が割れ、陽の光が差し込む。
淡い金の光が、アドリアンの頬を照らした。
「だから、まだ間に合うんだよ」
その言葉が、静かに胸の奥深くに落ちていく。
アドリアンの言ったことを、俺はすべて理解できたわけじゃない。
何が“間に合う”のか――はっきりとは分からない。
けれど、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
守れなかったもの。
信じる意味を失った日々。
知らぬ間に息を止めていた。
気づけば、頬を伝うものがあった。
それが涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
視界がにじみ、足元の感覚がふっと抜けた。
気づいたときには、アドリアンの寝台のそばで膝をついていた。
握った拳が震える。爪が手のひらに食い込んでも、痛みは曖昧だった。
「……ッ、クソ……」
声にならない声が漏れる。
止めようとしても、涙は勝手に零れ落ちた。
アドリアンは何も言わなかった。
ただ静かに目を閉じたまま、そのすべてを受け止めるように、穏やかな顔をしていた。




