第83話:焼きついた傷跡
白い光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
消毒液の匂い。
機械の規則的な音。
……あの病室の音だった。
ベッドの上で、アイツが笑っている。
細くなった腕、痩せた頬。
それでもいつもと変わらず、明るい声で笑っていた。
「ねぇねぇ〜! 春になったら……またあの丘、行こ!」
あの言葉を、俺は何度も聞いた。
何度も頷き、何度も“信じよう”とした。
「あぁ、行こう……」
あの日の俺は、それしか言えなかった。
夢はゆっくりと色を失っていく。
白い光が灰に変わり、次の瞬間、病室の音が止まった。
次には、自分の部屋だった。
雨の音がしていた。
カーテンを閉めたまま、窓の外の街灯だけが光っている。
スーツの袖には、まだ葬儀で握った花の香りが残っていた。
机の上には、退院祝いに買ったまま渡せなかったペン。
小さなリボンがついている。
リボンの色は、彼女が好きだった青。
「……なんで」
呟きは、自分でも聞き取れないほど小さかった。
最後に病院から電話があった夜。
『ははは、わかりました。“明日”渡しに行きますね』
その“明日”が来る前に……もう手遅れだった。
机の隅に封筒が置いてある。
俺宛の手紙。
葬式のとき、彼女の母親が渡してくれたものだ。
まだ……開けられない。
指先が震えて、封筒の端を掴む。
白い紙の上に、ひとしずく涙が落ちた。
滲んだインクがゆっくりと広がっていく。
その黒が、まるで呼吸するように波打った。
「……」
後ずさる。
でも、黒は止まらない。
インクは床に落ち、影になった。
そこから何かが立ち上がる。
“俺”の形をしていた。
けれど目がなかった。
ただ、静かに微笑んでいた。
【泣くなよ】
低い声が耳の奥で響く。
【泣く代わりに、俺が泣く】
「……なんだよ、それ……」
喉が塞がって声にならない。
次の瞬間、影の手が頬に触れた。
涙を拭う代わりに、黒い染みが皮膚に広がっていく。
冷たい。
けれど、その冷たさが心地よかった。
【……楽になるだろ?】
影が言った。
【悲しいのも、痛いのも、俺が持ってく】
視界が滲む。
その向こうで、アイツが立っていた。
病室の時のままの姿で、優しく笑っている。
「……ごめんな」
声が出た。
彼女は首を振った。
「ううん。……ありがとう。もう、いいの」
その体が光の粒になって崩れていく。
触れようとしても、手の中をすり抜ける。
「やめろ……行くな……」
影はアイツと一緒に消えていく。
言葉とともに光がすべて消えた。
世界は闇に沈み、
雨音だけが残った。
――――――
静かだった。
波の音もしない。
風の音もない。
ただ、自分の呼吸の音だけが大きく聞こえていた。
目を開けると、天井が見えた。
濃い赤の天蓋。刺繍の縁取り。
イルクアスターの船長室――ワイレッドが誂えた高価な寝台だ。
上半身を起こす。
包帯の擦れる感触。
胸の奥にまだ熱が残っている。
息を吸うと、焼け焦げたような痛みが走った。
「……っつ」
手を見下ろすと、焦げた線が皮膚の下で黒く残っていた。
「焼き印みてぇだな……」
モルトの意志が焼き付いた証。
部屋の隅のテーブルには、水の入ったグラスと包帯の残り、
そして畳まれたシャツが置かれている。
誰かがここまで運んで介抱してくれたのだろう。
……誰もいない。
扉も閉じられたまま。
窓の外に目をやると、雲が流れている。
どれだけ時間が経ったのか、わからない。
頭の奥に、あの夢の残滓がこびりついていた。
白い光。
病室の匂い。
雨の音。
あのときの“俺”が、まだ胸の奥で息をしている。
「……モルト」
小さく呟いた。
返事はない。
けれど、部屋の影が一瞬、波打ったように見えた。
右手で顔を覆う。
手のひらにざらつく血の匂いが残っていた。
助けたのか、壊したのか――もうわからない。
指の隙間から光が差し込んでくる。
昼か夕かもわからない。
ただ、まぶしかった。
机の上の紙が風にめくれる。
すごく汚いが、誰が書いたかわかる字だった。
「オキ‥タラ…すぐ?」
起きたらすぐ呼べ! 皆下で待ってる。
「リュカだな……あいつ、字が書けたのか?」
俺は紙を握り、ベッドから足を下ろした。
床に触れた瞬間、世界が現実の重みを取り戻す。
「行きますか……」
小さく呟き、船長室の扉を開けた。
扉の向こうは静かにざわめいていた。
足を踏み出した瞬間、甲板の音と風の匂いが戻ってくる。
――ようやく、現実だ。
階段を降りる手前、下の方から声がした。
「……ほんとに、生きてんのかなぁ」
リュカの声だ。
「死んでるみたいだったのに、エレナが“まだ心臓が動いてる”って……」
「リュカ? あまり縁起でもないことを言ってると……お仕置きですよ?」
「ひぃ!? ごめんなさい……」
シアの小声。
「まったくもう」
手すりの上から乗り出して下を見る。
視線に気づいたリュカがこちらを振り向いた。
「(ジー)」
「っわ!」
「――っコール様!? もう歩いて平気なんですか!?」
リュカは目を見開き、口を開けたまま固まる。
シアも息を呑み、慌てて立ち上がる。
俺は軽く手を上げた。
「おはよう……まだ死んでなかったらしい」
その言葉に、空気が止まる。
次の瞬間、リュカが顔をぐしゃぐしゃにして走ってきた。
「おいバカッ!! マジで死ぬかと思ったんだぞ!!」
肩を思い切り叩かれ、息が詰まる。
「……いってぇな」
リュリシアは少し離れて立ち尽くしていた。
涙で濡れた顔で、笑っている。
「……よかった……本当に……」
「よう」
その小さな声が、いちばん重く響いた。
その後ろで、エレナが腕を組んでいる。
視線だけが俺に向けられていた。
「……しぶとい奴め」
「しぶとさが取り柄だからな」
冗談めかして言うと、エレナは短く息を吐いた。
その横顔には、いつもの冷静さが戻っている。
だが視線が一瞬だけ泳いだ。
「……二度と、あんな真似はするな」
「……」
「あれを止められなかったのは、私の不覚だ。
次に同じことをすれば――私が本気で斬る」
そう言って踵を返したが、
すれ違うとき、わずかに肩が震えていた。
(……本気で、心配させたってわけか)
胸の焼き印がじくりと疼いた。
モルトの気配も、どこかで呆れている気がする。
「……状況の確認をしたいんだが」
わざと咳払いして全員を見回す。
リュカとシアが顔を見合わせた。
リュリシアは、さっきからずっと俺の方を見ている。
「まず一つ」
「な、なんだよ」
リュカが身構える。
「俺がぶっ倒れたあと、どうなった?」
問いかけると、空気が張り詰めた。
誰もすぐには口を開かない。
沈黙を破ったのは、リュリシアだった。
「……お父様は」
掠れた声で、しかしはっきりと言う。
「お父様は……生きています。
まだ目は覚ましていませんけど……ちゃんと息をしています」
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
焼き印の熱が、さっきとは違う色を帯びる。
「そうか……」
それ以上、言葉が出なかった。
喉がやけに乾いている。
リュカが気まずそうに頭を掻いた。
「医務室で寝てるよ。
ゲールとリシアンだっけ? あいつらが交代で見張ってる。
……起きるかどうかは、まだ分かんねぇけどな」
「上等だ」
思わず笑みが漏れた。
「死んでないなら、それでいい。あとは殴ってでも起こせばいい」
そう言うと、リュリシアがポロッと涙をこぼしながら小さく笑った。
今度はさっきみたいな崩れた泣き方じゃない。
張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ、そんな涙だった。
「……ありがとう、アーク」
その一言が、焼き印よりずっと重く刺さった。




