第82話:死を欺く禁呪
俺はシャドーズたちを全員、甲板に集めた。
そして――一度、融合する。
黒い波が足元から這い上がり、体に絡みつく。
無数の手が背中に触れ、影が喉の奥にまで流れ込んでくる感覚。
視界が反転し、意識が一瞬、暗闇に沈んだ。
体が膨張する。
人の大きさを超え、形が曖昧になる。
狂気が、血管を逆流するように脳を満たした。
――イヒッヒッヒッヒ。
笑い声が、自分の中から聞こえた。
俺は息を吐き、一気に解除する。
影が霧のように剥がれ、再び甲板に散った。
シャドーズたちは元の形に戻ると同時に、
まるですべてを理解したかのように一斉に動き始めた。
誰かが工具を持ち出し、誰かがテーブルを設置する。
甲板の一角に作業台が組まれ、砕かれた魔石が並べられていく。
彼らは何も言わない。だが俺の意図を、すでに理解していた。
染料を作る影、器具を温める影、椅子を運ぶ影――。
その動きはひとつの意志のもとに繋がり、まるで巨大な生き物のように統一されていた。
俺は甲板の中央に置かれた椅子に腰を下ろす。
「……鎧を外せ」
数体のシャドーズが近づき、静かに金具を外す音が響いた。
冷たい空気が肌を撫でた。
テーブルの上では、砕かれた魔石がすり潰され、液体が作られていく。
その色は血のように濃く、暗い光を帯びていた。
異様な静寂が続いていた。
金属の外れる音、魔石を砕く音――それ以外、何ひとつ聞こえない。
リュカが、ようやく口を開いた。
「おい、これなんだよ?……何を始めるつもりだ」
声は低いが、確かな焦りが混じっていた。
だが俺は答えない。
シャドーズたちは影のように周囲を取り囲み、器具を並べていく。
リュカが一歩踏み出そうとした瞬間、
その前に一体のシャドーが立ちはだかった。
黒い顔に目はない。だがその無音の威圧だけで、リュカは反射的に足を止めた。
「どけよ……!」
低く唸るように言っても、影は動かない。
代わりに、その背後で淡い光がひとつ灯る。
魔石から立ち上がる紫の炎。
「リュカ!」
シアの声が震える。
「待って……今、近づかないほうがいい。コール様の気配が……変わってる」
エレナがその言葉に目を細めた。
彼女はゆっくりと前へ出る。
風に赤い髪が揺れ、空気が重く沈む。
「……儀式か?」
その声は冷たく、それでいてどこか恐れを含んでいた。
俺は、わずかに目を開ける。
「……楽しい実験さ」
エレナの表情がぴくりと動く。
「実験?」
その瞬間、風が甲板を切り裂いた。
シャドーズたちの動きが一斉に止まり、空気が変わる。
誰も息をしなかった。
リュリシアが震える声で呟く。
「アーク…」
俺は答えなかった。
これは俺も約束ができないからだ。
そのとき、甲板の奥から金属音が響いた。
剣を抜いたザロが現れ、その背後には、彼の分身のように小柄な三体――ポロ、トロ、ノロが続く。
全員が剣を握っている。
「……来たか」
俺がそう呟くと、四人は無言で頷いた。
ザロの影がゆらりと揺れ、剣の刃が甲板の光を反射する。
リュカが声を荒げた。
「おい、やめろ! 何する気だよ!」
俺は顔を上げず、短く告げた。
「――手早くやれ」
その一言と同時に、シャドーズたちが動いた。
椅子に座ったままの俺の体を、四本の剣が一斉に上半身をなぞるように走った。
肉が裂け、血が飛ぶ。
切り口は深く、だが寸分の狂いもなく均等だった。
「ッッッッッッッ!?!?!?」
悲鳴は出なかった。
俺の指示を受けたシャドーズたちは、無表情のまま剣を滑らせ、
肩から胸、腕、腹へと“線”を描いていく。
血はすぐに染料のように広がり、シャドーズの手によって薄く伸ばされていく。
傷は模様になった。
幾何学のような、呪文のような、理解不能な線。
その中心に、俺は座っていた。
「やめろッ!!」
リュカが叫び、駆け出そうとする。
だがその前にハイポールの壁が立ちはだかる。
黒い手がリュカの足を絡め取った。
「コール様!!!!放せ!!!放してください!!!」
シアも声を上げたが、別の影に抱きとめられるように止められた。
エレナの声も震えていた。
「やめろ、それ以上は……!」
だが俺は聞こえていなかった。
傷口から流れる血と魔石の染料が混ざり合うように、体に擦り付けられていく。
それはゆっくりと、染料が傷に入り込み文様が体に浮き出ていく。
――呼び戻す。
この命を削ってでも。
(あの子に…誰かを失う思いはさせねぇ)
剣を構えたまま、ザロたちは無言で後退する。
残されたシャドーズたちが血の中に手を沈め、甲板で形を整え始めた。
リュリシアが泣き声を押し殺して叫ぶ。
「もうやめて……アーク! そんなの、違う!!」
俺は振り返らなかった。
「来るな!! エレナ! リュリシアを抑えとけ!」
エレナはリュリシアを抱くようにして抑えた。
甲板の扉が乱暴に開く音が響く。
「何をしている!?」
リシアンの叫び。
だが、その後ろで重い足音が続く。
ゲールだった。
その腕の中には――白布に包まれた“それ”があった。
リュリシアが息を呑む。
「……お父……様?」
リシアンは蒼白になって駆け寄ろうとする。
「やめろ! 外に出すなッ!」
だがゲールは答えず、血の滲む手でその布をしっかりと掴んだまま前に進んだ。
「邪魔をするな!」
俺の怒声にリシアンは足を止めた。
「何を…」
リシアンの言葉は途中で途切れた。
ゲールが布を外す。
その下から、冷たくなったアドリアンの顔が現れる。
甲板の光がその頬を照らすと、一瞬だけ、まだ生きているかのように見えた。
リュリシアが悲鳴をあげようとしたが、エレナがすぐに抱きしめて止めた。
「アーク!…本当に…」
エレナも俺を確かめるように見るが、それ以上言葉を続けない。
だが…俺は頷き、椅子の上で息を整える。
傷口から血が流れ続け、視界が霞む。もう止められない。
血の模様が、ゆっくりと光を帯び始めていた。
リシアンが俺を睨みつける。
「アーク! 貴方、まさか……!」
「間違っちゃいねぇよ」
俺は笑った。
「娘のために…帰ってこい」
リシアンが駆け寄ろうとするが、すぐに影の手が足を掴み、床に引きずり倒された。
「やめろ! 禁呪には理由があるからこそ封じられているのだ!
命を扱う術ともなれば君もただでは済まないぞ!!」
「知ったことか!!」
怒声が響き、空気が震える。
シャドーズたちはその瞬間、血の円陣の外周へと散った。
甲板の木目が赤黒く染まり、ゆっくりと光を帯びる。
ゲールはアドリアンの遺体を中央へと運び、
俺の前に静かに横たえた。
「……始めるぞ」
その声は、もはや自分のものではないように低く響いた。
俺の隣に一体のシャドーズ、モルトが立つ。
インデアンのような外装、自作の弓を持ち狩りが得意なやつだった…。
俺は向き合いそいつに手を伸ばし、握手を交わす…。
「すまない…」
「ッザ(敬礼)」
モルトは敬礼すると、ゆっくりと俺に融合していき、
俺の体に刻まれた模様が、内側から燃えるように光り出す。
…熱い。
皮膚じゃない。
骨の裏側から焼かれているような感覚。
それに呼応するように、甲板に描かれた血と染料の模様が光を帯びた。
赤黒い紋が、脈動するように明滅する。
「ッコール…」
リュカが言葉を失う。
甲板全体に、低い振動が走った。
船体がきしむ。空気が重く沈み、風の音が消える。
代わりに、耳鳴りのような低い唸りが世界を満たした。
シャドーズたちは円陣の外周に並び、同じ方向を向いて膝をつく。
その動きは祈りにも似ていたが、そこに捧げる相手が女神ではない…自らの主を崇めるように座す。
光は徐々に強くなり、
血で描かれた紋様が、白い線へと変わっていく。
「やめろ……やめるんだ……!」
リシアンが床に押さえつけられながら叫ぶ。
「それは“死”の冒涜だ!! 魂を引き戻せば−−−」
「うるせぇ……」
声に、自分でも驚くほど澱んだ響きが混ざる。
「冒涜? 上等だ!! 知ったことかよ!!」
アドリアンの頬が、光に照らされる。
冷え切っていた肌が、わずかに色を取り戻し始めていた。
リュリシアが震える声で父の名を呼ぶ。
「お父……さま……」
耳鳴りがひどくて、もう周囲の声がはっきり聞こえない。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
――呼び戻せ。
――繋ぎとめろ。
頭の中で、さっき見た記号と術式が勝手に並び替わる。
俺は、ただそれに身を任せるしかなかった。
胸元の紋が熱を増し、痛みが鋭く跳ねた。
「っぐぁ……ぁああああああああああああああっ!!」
堪えていた声が、ついに漏れる。
血で描かれた紋様が、一斉に白く燃え上がった。
眩い光が甲板を包み込む。
誰かが悲鳴を上げた。
誰かが祈りを口にした。
誰かが、ただ息を止めた。
すべてが、遠くで鳴っているみたいだった。
光の中――アドリアンの胸が、わずかに動いた。
一度…二度。
震える指先でアドリアンの喉に触れる。
「……はは」
かすれた声が零れた。
「やったぜ……」
リュリシアの目から、ぽろぽろと涙が落ちる。
「お父様……? お父様……!」
アドリアンのまぶたが、重そうに震えた。
固く閉じられていた瞳が、ゆっくりと光を映し始める。
「……リュ、リシア……?」
弱々しい声だった。
けれど、それは紛れもなく――生きている人間の声だった。
リュリシアが、エレナの腕からするりと抜け出して駆け寄ろうとする。
エレナは思わずその肩を掴みかけて、しかしその手が宙で止まった。
彼女の瞳にも、信じられないという色が浮かんでいた。
リシアンは、床に縫い付けられたまま呆然と呟いた。
「……馬鹿な……死の帳が……めくられた……?」
そのとき、俺の体の内側で何かが焼け落ちた。
模様が、肌の上で黒く沈んでいく。
さっきまで白く光っていた紋が、焼き印のように皮膚に貼りついたまま離れなくなる。
熱く痛い…。
でも、それ以上に――ひどく眠かった。
「……ははは、成功……大…成功……」
声が、自分でも驚くほど遠くに聞こえる。
視界の端で、アドリアンがゆっくりと上半身を起こそうとして、ゲールに支えられる。
リュリシアが泣きながら父の名を呼ぶ。
ああ、よかった。
そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
エレナの叫ぶ声が聞こえた気がした。
「アーク!」
誰かの腕が俺の体を支えようと伸びてきた。
だが、その感触を確かめるより早く、
俺の意識は、そこで闇に落ちた。
最後に見えたのは、
焼き付いた紋様から、まだ細く立ちのぼる白い煙だけだった。




