第81話:雲上の絶望と要求
朝の雨は止む気配を見せなかった。
船は雨を避けるため、雲の上へと上昇していく。
イルクアスターの甲板では、風が灰色の幕を引くように流れていた。
リュリシアは濡れた髪をそのままに、甲板の中央に座り込んでいた。
セラたちが中へ移そうとしたが、膝を抱えたまま動かない。
扉が軋む音がして、全員の視線が集まる。
ゲールとリシアンが現れた。
どちらも服に血が滲み、手にはまだ包帯が握られている。
リシアンの掌からは、癒やしの光の残滓が残っていたがやがてそれも消えた。
ゲールは俯きリシアンがゆっくりと首を横に振った。
その瞬間、空気が凍った。
リュリシアの指先が、小さく震えた。
唇が開いたが、声は出ない。
頭では何が起きたのか分かっているのに、心がそれを拒んで、首を横に振る。
「いや……いや!、いやいやいやいや!!!」
リュリシアの声が甲板に響いた。
誰も返せない。
ゲールは拳を握りしめ、ただその場に立ち尽くす。
リシアンは俯いたまま、血に濡れた指先を握り締めていた。
そのとき、エレナが駆け寄り、何も言わずにリュリシアを抱きしめた。
濡れた髪と血の匂いが混ざる。
リュリシアの肩がびくりと震え、
次の瞬間、堰を切ったように泣き声が溢れた。
「うあああああああああっ!!」
「リュリシア様……」
エレナの声も震えていた。
強く抱きしめる腕の中で、少女の小さな体が壊れそうに泣きじゃくる。
俺はその光景をただ見ていた。
何か言おうとしたが、喉の奥で言葉が消えた。
何度も見たはずの“死”が、今だけは、どうしても口にできなかった……。
雲の上にでた…陽の光が差し込むが、それがなぜか残酷に見える…。
リュリシアの泣き声を背に、俺はリシアンと共に扉を押し開けた。
中は静かだった。
医務室の床には、血と薬品の匂いが漂っている。
ベッドの上で、アドリアンが眠るように横たわっていた。
胸は動かない。皮膚はもう冷たく、血の色だけが生々しく残っている。
ゲールは不甲斐なさに拳を握り、肩を震わせていた。
闇に浮かぶ黄色い光は涙を流せない…だがその奥は揺れていた。
リシアンは黙って頷き、布を取る。
「殿下の前に出すなら……せめて顔だけは」
声がかすれた。
俺はその横顔を見つめながら、やっと口を開いた。
「……リシアン」
彼は手を止めずに、耳だけを傾けている。
「なんでもいい。…生き返らせる術は、ないのか?」
室内の空気が、ぴんと張りつめた。
ゲールがゆっくりと顔を上げ、リシアンが息を飲む。
「……そんな術があるのなら、私はとっくに神を裏切っているでしょう…
この命を差し出せるのならそうしてでも…」
リシアンの声は静かだった。
「私は…信仰をもっています…でも…本当はただ家族を守りたかっただけなのです…それなのに…」
言葉の先で、彼の肩がわずかに揺れた。
彼は血に濡れた手を見つめ、唇を噛んだ。
「ですが結果として…戦いを呼び込み、アドリアンを……死なせた。
私は守ろうとして…あの子から父親まで奪ってしまった…」
声が掠れ、祈りの言葉は出なかった。
沈黙の中で、わずかに震える指先が光を求めるように宙を掴んでいた。
沈黙が支配する。
俺は壁に寄りかかり集中する。
どれだけ頭の中の知識を探っても死人を生き返らせるなんて情報はない…。
だが禁呪なら?。
そう思い何度もつなごうとするが、次第に電気で弾かれるような感覚に襲われ始めた…。
使者の復活…死の拒否、
不死…蘇生…。
この探し方で弾かれる…つまり、隠されているが方法はある。
女神が俺を転生させた時に与えた知識、
あらかたの魔法や言語、種族、風習まで事細かに見ることができる。
だがなぜか禁呪に関することは毎回弾かれる…。
「……ふざけんな」
低く呟いた声が、徐々に熱を帯びていく。
気づけば、拳が震えていた。
胸の奥に溜まった怒りが、抑え切れずに爆ぜた。
俺は扉を蹴り開け、甲板に出る。
眩しいほどの陽光が目に刺さる。
リュリシアを抱くエレナたちがこちらを振り返った。
そんな視線など構わず、俺は近くにあったザロの短剣を掴み、空に向かって突き立てた。
「アーリア!!」
声が風に散る。だが止まらない。
「俺を転生させて、船と力を与えて……見てねぇわけがねぇ!!」
空に向けて叫ぶ。
「だったら今すぐ教えろ! 禁呪についての知識を――全部、よこせ!!!」
その声は、雲を突き抜けるように響いた。
エレナたちは言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。
あまりに唐突で、あまりに必死な叫びだった。
この状況で、何をしているのか――誰も理解できなかった。
「……コール様?」
「おい、コール!」
背後でリュカが声を上げた。
隣でシアも小さく息を呑む。
泣き声の残る甲板に、怒声だけが響いていた。
リュカが慌てて駆け寄り、腕を掴む。
「やめろよ……! こんな時に、何してんだよ!」
だが、その手を振り払う。
「離せ!」
リュカを突き飛ばし、シアがそれを受け止める。
「黙って見てろ!!」
喉の奥から絞り出すような声が出た。
リュカが歯を食いしばる。
「てめぇ、何言ってんだよ! 今はリュリシアが!」
「黙れって言ってんだッ!!」
怒鳴り返す声が、空を裂いた。
リュカとシアはびくりと体を震わせ、そのまま黙った。
誰も声を出さない。
甲板の上を、ただ風だけが流れる。
俺は空を見上げた。
雲の向こう、どこまでも白い光の中に、気配を探す。
「……そうか。何も言わねぇんだな?」
喉の奥で笑いが漏れた。
乾いた、感情の抜けた笑いだった。
そのまま、俺はザロの短剣をゆっくりと自分に突きつけた。
刃先が喉の下に触れ、冷たさが肌を刺す。
「なら――見てろよ」
エレナがはっと息を呑んだ。
リュカが急いで止めようと動く。
「…!?」
「このバカッ!?」
一瞬…風が、止まった。
次の瞬間、視界が白く反転し、耳の奥に、何かが“開く”音が響いた。
女神の沈黙を貫いていた壁が、ひび割れるような感覚。
「……っぐ……!」
めまいに襲われ、俺は短剣を落とした。膝が崩れる。
リュカがすぐに短剣を拾い上げる。
「おいコール! なに考えてんだよ!」
焦りと怒りが混ざった声が甲板に響いた。
周囲もざわつき、セラとシアが駆け寄る。
エレナもついにリュリシアのそばを離れ、俺の前に歩み寄った。
その眼には怒りと恐怖が同居している。
「貴様――正気か!」
鋭い声が飛ぶ。
「こんな時に、お前まで死ぬ気か!」
息が上手くできない。
頭の奥で、文字と記号が滝のように流れ込んでくる。
見たことのない言語、理解できない構文――それは“知識”だった。
封じられていた禁呪の情報が、強制的に書き換えられていく。
「……はぁ、はぁ……来た、か……」
声が掠れた。
胸の奥が焼けるように熱い。
リュカが眉をひそめ、短剣を懐に構えたまま叫ぶ。
「何が来たってんだよ!? お前……本当に、どうしちまったんだよ!」
エレナが俺を睨みつけた。
「説明しろ…いま”来た”といったな?」
風が再び吹き出した。
雲の切れ間から、白い光が差し込み始めた。




