第80話:沈黙する神域
突如現れた紅い目をした男――。
東の街を襲い、助けを求めていた男を破裂させた、あの魔族。
白い霧の中から、ゆらりと姿を現す。
「まったく、人間とは脆弱で愚かな……」
唇の端を上げながら、そいつは淡々と続けた。
「もう少し利用できると思いましたが……これは、いささか計算外でした」
そして、俺を見た。
その紅い眼が、霧の奥でゆらめく。
「……邪魔をするな、と言ったはずですが。やはり――人間程度では理解できませんでしたかねぇ?」
背後ではエレナが銀剣を振るい、兵士たちとともに襲いかかる魔族を斬り伏せていた。
祈りと怒号が交錯し、血と鉄の匂いが霧の中で混ざり合う。
俺はヴァルセリクスを抜いた。
青白い光が刃に走り、空気が震える。
その瞬間――数体の魔族が一斉に飛び退いた。
まるで何かの合図を受けたように、円を描いて俺たちを囲む。
奴らは懐から黒い魔具を取り出し、迷いなく自分の胸に押し当てた。
黒い魔具で胸の刻印ごと貫く。
肉が裂け、血とともに魔紋が光を放つ。
次の瞬間――地が鳴った。
血が地面を這い、複雑な紋を描く。
血の印が繋がり、墓地全体が黒い光で満たされる。
それはまるで、地そのものが呼吸を始めたようだった。
「これは!?…………ッ!」
エレナが剣を構え直す。リシアンの顔が青ざめた。
「結界です!……ですがこれはッ!」
祈祷師の一人が、震える声で詠唱を始めた。
「女神よ――我らに――」
だが次の瞬間、光が掻き消える。
掌の印が黒く焼け、彼女は悲鳴を上げて崩れ落ちた。
「祈りが……届かない!?」「癒やしはまだかッ!?」
別の神官が立ち上がるが、癒し手の光も出ない。
傷口から血が止まらず、兵士が次々と膝をつく。
「司教様! 祈りが封じられましたぁッ!!」
盾を構えていた前列が叫ぶ。
崩れた隊列に、黒い影が一斉に飛び込んだ。
爪が閃き、悲鳴が続く。
「前衛が――やられた! 陛下を退避させろ!!」
リシアンが叫ぶが、すでに兵は半数が倒れていた。
結界の中では、誰の祈りも神に届かない。
ヴァルセリクスの刃が震えた。
光が一瞬、強く脈動し――次の瞬間、音もなく沈む。
青白い輝きが消え、鈍い金属光だけが残った。
空気が重く、息が詰まる。
まるで力そのものが奪われたような感覚。
「……光が、消えた……?」
俺は歯を食いしばり、握った柄を見つめた。
“主の加護を拒む地”――そんな言葉が脳裏をよぎる。
目の前で、あの魔族がゆっくりと笑った。
「これが我らの地。貴様の剣は、ここでは息ができぬ…という訳です」
にやりと笑った魔族の目つきが再び変わり、鋭く俺を睨んだ。
「貴様らの神は沈んだ。次は――」
その声を聞き終える前に、そいつの姿が掻き消えた。
目の前。
黒い影が霧を裂き、爪が眼前に迫る。
「チッ――!」
とっさに身をひねり、剣でいなしながら肩越しに銃を抜いた。
二度、引き金を引く。
轟音と閃光。
弾丸が空気を裂き、魔族の腹と腕を貫いた。
黒い血が霧に散り、肉が抉れて風穴が開く。
「ぐ……ぅ……これは……」
魔族が呻き、裂けた腕から煙を上げる。
「煩わしいものを……お持ちで……」
紅黒い瞳が俺を射抜く。
だが次の瞬間――上空から、別の影たちが降りてきた。
地面にぶつかり、黒い霧をまといながら、ゆっくりとそいつらは立ち上がる。
イルクアスターの影の船員たち――〈シャドーズ〉が現れた。
「野郎ども!! 化け物を皆殺しにしろ!!!」
「「「(ッザ)」」」
号令を受けた影は一斉に動き出す。
片や不死の影。
片や不死の魔族。
墓地の上で、闇と闇がぶつかり合う。
鋼の刃と黒い爪が交錯し、火花が散る。
銃声、祈り、咆哮。
血と霧と光が渦を巻く。
俺はヴァルセリクスを構え直し、低く息を吐いた。
光は沈んだまま――だが構うものか。
「殺すッ!」
魔導銃を相手に向けて、二度引き金を引く。
だが、弾丸は空を裂くだけだった。
「――ッ!?」
魔族の身体が、滑るように横へずれる。
霧の中で、音と風圧のずれを読んで避けた。
腹を狙った弾は虚空を抜け、墓標を粉砕する。
「やっぱ速ぇな……」
小さく吐き捨て、再び引き金を引く。
(距離があると躱される――なら、詰めるしかねぇ)
銃を構え直し、ヴァルセリクスを深めに持ち替える。
霧の中を滑り込むように突進し、相手の反撃を誘う。
「ッチ、この!?」
「やはり脆弱…遅いですね」
声が吐き出されると同時に、黒い影が蠢き、距離が一瞬で詰まる。
爪が薙ぎ、鉄が鳴る。
俺は足を踏ん張り、荒く剣を振るって相手の視界を遮る――俺はまともな騎士じゃない。
力任せに刃を振るって相手のリズムを崩し、銃の狙いを作る。
さすがにまともに狙って撃っても、距離が空けば敵は弾を避けやがる。
仕方なく、俺は敵を懐に招いた。
「ッグ!?」
爪が肩をかすめ、鎧ごと肩の肉を切り裂く。痛みが走る。
血が滲むのを感じながらも、銃を抜き、敵の意識外から攻撃を放つ。
いくら魔族でも、この距離では弾より速くは動けない。
体の一部に銃弾が命中する。
「ッ小賢しい……」
「お褒めの言葉をどうも」
だがこちらも無傷ではない。ふらつきながら前へ出る。
俺たちは何度かぶつかり合う。互いに肉を切らせて骨を断つような動き。
(クソ……分が悪い)
シャドーズを集めようにも、向こうも守らせている…こっちに加勢させる余裕はねぇ。
墓地のあちこちで悲鳴があがる。
慈悲派の兵が一つ、また一つと倒れる。
祈りを捧げる手は震え、癒しの光は結界に潰される。
エレナが懸命に周囲を切り裂いているのが見える。
彼女が一人で何体かを斬り伏せ、リュリシアの側を守っている――その姿が俺の胸を締め付けた。
「こっちもカッコつけなきゃな……ッ!!」
右腕が痺れ、銃の反動が指に刺さる感触が増していく。
だが一度作った隙は逃さない。
刃を乱暴に振り回して相手を誘い、相手が踏み込んだ瞬間に引き金を引く。
今度の弾は魔族の胸を抉り、黒い血が飛ぶ。相手が膝をつく。
ほんの少しだが、それが生き残るための時間になる。
「そこだぁあああああッ!!!」
「ッおのれ、人間風情がぁあ!!」
未熟な使い手が振り下ろしたヴァルセリクスの刃は、肩口から腹へと深く抉り――そこで止まった。
「グァッッッッ! 人間ごときに!」
「黙れ」
「ッあの方の扉が開かれるまで、私は滅び――!?」
相手は片膝をつき、黒い血を吐きながら、なおも刃を抑え、爪を振るおうとした。
だがその眼前には、虚空を宿す金属の筒が置かれていた。
銃声が響く――雷鳴のような轟音。
魔族の頭蓋は爆ぜ、力なく体が後ろに倒れた。
ヴァルセリクスが突き刺さったままの体は再生せず――徐々に砂に消えていった。
「そのまま、くたばれクソ野郎…」
荒く息を吐き、煙る空気の中で敵の亡骸を見下ろした。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
霧の向こう、リュリシアたちの姿が見えた。
慈悲派の兵はすでに全滅している。
立っているのは、彼らを守るように囲む影たち――〈シャドーズ〉だけだった。
その中央には、横たわるアドリアンに縋り泣くリュリシア。
剣を地に突き、肩で息をするリシアン。
そして、剣を静かに納め、顔は見えなくても涙を堪えているとわかるエレナ。
彼女の背筋はなおも真っすぐで、騎士としての威厳を失ってはいなかった。
その傍らで、セラたちが膝をつき、震える手で祈りを捧げている。
戦いの音は止み、残るのは静けさの中にある嗚咽だけだった。
俺は剣を引き抜き、声の残る方へ向かう。
風が止み、霧の向こうで空が低く唸った。
遠くで雷鳴のような音が響き、冷たい気配が肌を撫でる。
――雨が来る。
…まるで、すべてを洗い流すように。




