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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第79話:少女の願い


 誰かが、息を呑んだ。

 最初はただの霧の揺らぎだと思った――だが違う。


 墓地の上、霧を割って木造の船が頭上に浮かんでいる。

 

 「……なんだ、あれは……」

 「…神よ」


 慈悲派の兵士が声を失い、剣を取り落とした。

仲間が呆然と空を仰ぐ。

誰もが、目の前の光景を“現実”として受け止めきれなかった。


 音はなかった。

 ただ木の軋みだけが、静かな世界に滲んでいた。


 リシアンは無意識に手を組み、祈りを捧げる姿勢を取っていた。


 「これは……女神よ。あれが、彼の“手段”か」


 その背後で――リュリシアが小さく息を吸う。


「……アーク……」


 俺はゆっくりと振り返った。

霧の光が、鎧に反射して白く滲む。



「……俺は俺だ」


声は低く、静かだった。


「どこにいようと、こんな鎧を着てようと……名前がアークだろうが関係ねぇ。

 俺は――お前の知ってる俺だ」


 リュリシアの唇が震える。

霧が流れ、朝の光が二人のあいだを照らす。


 俺はヴァルセリクスを肩に担ぎ、もう一歩だけ近づいた。


「さぁ、選べリュリシア。

 お前の望み――俺が叶えてやる」


 リュリシアはゆっくりと顔を上げた。

 父アドリアンの顔…リシアンや、倒れた兵たちの血、祈る神官、傷だらけ…。

 ――誰もが、自分のために剣を抜き、血を流していた。


 「……このまま国に残っても、私は……何もできない……でも私は」


 声が震え、そこで止まった。

 王の責務、家、民、信仰――全部が胸の中で絡まり、言葉を奪っていく。


 沈黙を裂いたのは、俺の声だった。


 「…リュリシア」


 ゆっくりと名を呼ぶ。


「お前はたしかにいい土に生まれて、今じゃ王様って肩書きももってる…。

 だけどな――俺からすりゃ、お前なんざそこら辺のガキと変わらねえんだよ」


 リュリシアが顔を上げる。

 驚きと、少しの怒り。けれどすぐに、それは困ったような表情に変わった。


 俺は構わず続けた。


「たしかにお前は王の血筋だ…。


 でも、そこにくっついてる“責任”だの“使命”だのなんて、

 所詮は周りが勝手に押しつけた言葉だ。


 そんなもんに、お前が縛られる必要なんてねぇ」


 言葉が静かに霧を抜けた。

リュリシアの瞳が揺れる。


「だからリュリシア――お前は、自分がどうしたいか、ちゃんと考えろ」


 しばらくの沈黙。

風が髪をなで、白い霧の向こうに王都の影がぼんやりと見えた。


 リュリシシアは小さく息を吐き、目を伏せる。


「……でも、私がいなくなったら……国は……」


「……あの時と一緒だ」


俺はかぶせるように言った。


「二人で街を回った時のこと、覚えてるか?」


リュリシアの唇がわずかに動く。


「あの時……“お嬢様”でも“殿下”でもなくて……ただの、わたしでいられた」


「そうだ」


俺は短く笑った。


「その“わたし”でいいんだ。


  自分で選べ――お前の意志でな。


 王様じゃなくリュリシアって一人の人間として」


 リュリシアの瞳が揺れた。

 言葉を探して、喉が震える。


「……もう、ヤダ……」


声はかすれ、空気に溶けた。


「もうヤダよ……血を見るのも……誰かが死ぬのも……見たくないよぉ……」


 大粒の涙が頬を伝い、止まらなかった。

白い霧の光が、涙に反射してきらめく。


「お母さまの顔も、覚えてないのに……

 お父さままで……エレナまで……みんな、いなくなっちゃう……ヤダ…」


 震える声が途切れた。

 王としての誇りも、血筋も、教えられた使命も――

 全部その一言で崩れていくようだった。


 誰も、その涙を止められなかった。

 リシアンは唇を噛み、アドリアンは目を閉じた。

 神官たちは祈りの言葉を失い、ただ静かに頭を垂れた。


 リュリシアは肩を震わせながら泣いていた。

 嗚咽が空気を震わせ、涙が頬から滴り落ちて地に落ちる。

 その音だけが、墓地の静寂を揺らしていた。


 俺はゆっくりと歩み寄り、リュリシアの前で膝をついた。

 鎧の膝が石を鳴らす。

 そっと手を伸ばし、彼女の頭に触れた。


 髪が微かに揺れ、リュリシアはびくりと肩を震わせた。

 けれど逃げなかった。


 ひくひくと幼い呼吸の合間に、

 赤く潤んだ瞳が俺を見つめ返した。


 嗚咽が胸の奥からあふれて止まらない。

 細い肩が震え、涙が次々と落ちる。


「……怖いか?」


 リュリシアは小さく首を振りながら、

 ふらつくように身を乗り出した。


「……お願い……」


 かすれた声で、それだけを絞り出す。


 次の瞬間、彼女は俺の胸に飛び込んでいた。

 鎧に抱きつく音が、乾いた墓地に小さく響く。


「お願い……アーク……皆……連れてって……」


言葉の合間に、嗚咽が混じる。


「もう、誰も死んでほしくない……お願い……」


 その腕は震えていたが、

 それでも俺を掴む力だけは、必死で離そうとしなかった。


 俺は何も言わず、静かにその小さな体を抱き締めた。

 肩越しに見える霧の中で、木造船が帆を広げている。


「……任せろ」


 俺は低く答えた。

 

 リュリシアをアドリアンとエレナに預ける──その一瞬で場の空気が一段と引き締まった。

 アドリアンは戸惑いながらもそっと前へ出て、泣きじゃくる娘を抱き寄せる。

 エレナは刃を鞘に戻さず、しかしその瞳にはもう反対の色はない。


 俺はゆっくりと立ち上がり、リシアンの方へ振り返る。

 彼の顔は先程よりも疲れていた。白衣は血に染まり、目は赤く、口元には消えない苦悩の皺。


 こいつも本心では眠り決断を痛んでいるのが…表情に滲んでいた。


 リシアンは言葉を探すように一瞬口を開いたが、声は震え、続ける力がなかった。

 やがて彼はゆっくりと両手を組み、短く頷く。――承諾ではなく、覚悟のような何かだった。


「……これは女神のお導き」


 背後の神官たちがざわめいた。

 兵の一人が「ですが、司教……」と口を開きかけたが、

 リシアンはすぐにそれを制するように手を上げた。


「見よ!」


 彼の声は、もはや動揺ではなく、信仰という名の建前で固められていた。


「この空に浮かぶ船を!。


  これが奇跡でなくて何だ!。


 ヴァルセリクスに選ばれた者が、真の王を連れ出そうとしている。

 神がその行いを否としているなら、なぜこの奇跡が起きるのです!」


 神官たちが息を呑む。

 兵たちは互いに顔を見合わせ、ざわめきが静かに鎮まっていった。

 誰もが――理屈ではなく、信仰という言葉にすがるしかなかった。


 リシアンはほんの一瞬、俺を見た。

 その瞳は“司教”のものではなく、“叔父”のものだった。

 罪と祈りの間で揺れるような、苦しい光が宿っている。


「……アーク」


 わずかに掠れた声で、彼は言った。


「頼みましたよ…」


「あぁ」


 俺は短く応じ、ヴァルセリクスの柄を握る。

霧の奥で、船が低く唸るように帆を鳴らした。


「――そういうことだ。文句があるやつはいるか?」


 誰も、口を開かなかった。

 ただ、霧の中の船を見上げていた。

 奇跡。そう呼ぶしかない光景に、誰もが言葉を失っていた。


……そのときだった。


 ぐしゃり、と湿った音。

 地に転がっていた“試練派”の兵の一人が――動いた。


「……ッ?」


 誰かが息を呑む間もなく、そいつの皮膚が黒く爛れ、背骨が軋む。

 眼球は闇に沈み、口が裂け、死体は異形の影へと変わった。


「リュリシアッ!!」


 それは、真っ直ぐに彼女へ跳びかかった。

 誰よりも早く動いたのはアドリアンだった。

 娘を庇い、両腕で抱き寄せ、かばいながら正面から受け止める。


 黒い爪が、その胸を貫いた。


――ぶしゅ、と音がした。


 アドリアンの体がのけぞり、血が霧に散る。

 リュリシアの瞳が、一瞬、理解を拒むように開かれた。


「……お、お父さま……?」


 アドリアンの口元が震える。

何かを言おうとしたが、声にならない。

そのまま膝が崩れ、リュリシアの腕の中に倒れ込んだ。


「やめろおおおおッ!!」


 エレナの咆哮が空気を裂いた。

刃が閃き、黒い影の胴を一閃で断つ。


「ッッックソが!!!」


 俺は血に濡れたヴァルセリクスを振り下ろし、

エレナが斬った異形の体をさらに叩き割った。


 だが、遅かった。

 アドリアンの胸から流れ出す血は止まらない。

 リュリシアはその腕に縋りつき、震える声で呼び続けた。


「お父さま……いや……いやぁ……!」


 アドリアンは、かすかに笑った。


「……泣くな……リュリシア、行きなさい……お前は、幸せに……」


 言葉の続きを言う前に、血の泡が唇を覆った。

その目が――ゆっくりと閉じていく。


「――ッ!」


 リュリシアの叫びが墓地に響き渡る。

霧の中、残った試練の死体たちがまるで応じるように再び蠢き始めた。


 リシアンが青ざめ、神官たちが悲鳴を上げる。


「陛下をお守りしろ!!!」


 墓地の奥で、乾いた笑い声がひび割れた。


「脆弱ですねぇ…」


 声の主はゆっくりと姿を表す。

 俺は血に濡れたヴァルセリクスを構え、低く唸った。


「……てめぇ、地獄の底に沈めてやる」

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