第07話:干しイカの舞
舵を握りしめ、レバーを全開まで上げる。
「野郎ども!! 出航だぁあああ!!!!!!!!!」
船体がギギギギと悲鳴のような音を上げ、揺れながら咆哮する。
大気が震え、空気が光の粒を孕んだように揺らめいた。
影たちの気配が船全体に広がり、イルクアスターはゆっくりと海面を押し退けながら浮上を始める。
その後ろには、船よりも巨大な影――クラーケンが張り付くように中空に姿を現した。
「離すなよォ!!!」
縫い止めた銛がギチギチと軋み、シャドーズたちは船の加護がないヴァックスを飛ばされぬよう必死に抑えている。
船は後ろが重くなり、上を向くような体勢になるが、シャドーズと俺はまるでトカゲのように甲板に張り付き、普通に立っていられる。
「こ、コールさん!? これ! だだだ大丈夫なんですか!?」
不安そうに声を上げるシャンディの顔が視界の端に入る。
その必死な表情が、妙におかしくて、思わず笑っちまう。
「はははは! いっくぜぇ〜!!」
「い、いやぁ〜〜〜〜!!」
船の角度はさらにきつくなり、高度を上げていく。
空が近い。雲が手に届くほどに。
「おい! タコ野郎!」
シャンディを支えながら振り返ると、クラーケンは触腕を船に絡めたまま、うねりながらも身動きが取れずにいた。
その巨体は宙に浮かびながらも、まるで釣り上げられた魚のように暴れ切れず、ただ重たくぶら下がっている。
「海じゃ元気だったが、空は苦手かぁ? ……なら返してやるぜ」
最後にレバーを叩き込み、舵をぐるりと回す。
イルクアスターが半回転し、船首が真下を向いた。
風が甲板を裂き、空気が悲鳴のような音を立てる。
「ひゃっほぉぉぉぉぉぉぉうッ!!」
笑いながら叫びを上げ、それとは対照的に、シャンディの絶叫が風を裂いた。
「いやぁぁああああああああ!!!!!」
船は矢のように空を切り裂いて一直線に落ちていく。
クラーケンはまだ触腕を絡めたまま、なすすべなく一緒に墜ちていく。
空中という、生まれてこのかた一度も味わったことのない場所。
風圧は凄まじく、あの巨大な頭すらぐにゃぐにゃと歪み、
ぶら下がった触腕が風にペチペチ叩かれて、まるで干しイカの乱舞のように頭が揺れる。
伝説の――威厳のカケラもない。
その様子に、さらに腹を抱えて笑う。
「ァハッハッハッハッハッハ!!!!!! ひゃっほーう!」
「いぁあ〜〜〜〜!」
そして――船は水面で向きを変え、好き放題に引きずられていたクラーケンが海へと還る。
ズドォォォン!!
海面を撃ち抜いた一撃で、巨大な水柱が爆発のように噴き上がった。
空と海が混ざり合う。
やがて水煙が晴れ、海は静けさを取り戻す。
そこに浮かんでいたのは――
ぷかぷかとぐったりと浮かぶ巨大な伝説の成れの果て。
触腕は何本かちぎれ、水に沈みきらず、だらしなく波に揺れていた。
空をもがきながら泳ぐという、一生に一度の体験は……クラーケンには、あまりに刺激が強すぎたようだ。
海の上の静寂。
さっきまで響いていた絶叫も、笑い声も、今はもうない。
濡れた床に尻餅をついたまま、シャンディは口を半開きにして水平線を見つめていた。
空を裂き、海を撃ち抜いたあの瞬間、何かを置いてきてしまったようだ。
「……生き、てる?」
ようやく声を出し、空気が動き始める。
振り返り、シャンディを見ながら――
「最高だったなぁ!」
沈黙を破ったその一言に、乗組員たちは思わず視線をそらし、
シャンディは一言。
「…………うん」
乾いた返事だった。どこか、魂の抜け殻が口だけ動かしているような。
彼女の瞳はまだ、水平線に取り残されたままだった。
しばらくの時間が過ぎる。
港に死体を持ち帰るため銛を持ち、海に浮かぶタコに上陸。
表皮はまだぬるぬると湿っていた。
巨大な触腕の上に足をかけ、本体の腹部に乗り上げたそのとき――
「……動いた? まさかな?」
ぬるん……と腹の表面が、わずかに盛り上がった。
波のせいか、と思っていたが明らかに動いている。
「全員船にッ!」
避難の号令を出す前に、ずぶぅ、と音を立てて腹が割れた。
墨とゲルにまみれた何かが、内側から這い出してくる。
シャドーズたちが警戒態勢になり集まり取り囲む――その中心でもぞりと顔を出したのは……
墨で真っ黒になった黒い棒のようなもの。
それは空で揺れていたクラーケンの触腕のように暴れ、時間をかけてなんとか自力で這い出してきた。
俺も含め銃を構えていたが……その形は見覚えのあるひょうたんのボディ。
「お前食われてたのか……」
……ハイポールだった。
海を割るように船は港へ進む。
船尾に繋がれたロープが音を立て、重たく沈んだクラーケンを引きずって。
港の見張り塔から、それが見えたのは昼を少し回った頃だ。
「……おい、あれ! あの船! でっけぇの引いてやがるぞ!?」
「な、なんだって!? クラーケン? クラーケンだ!!」
漁師の一人が声を上げたその瞬間、港の空気は爆発した。
「え!? クラーケンが……死んでる!!」
「やったぞおおおお!! クラーケンがやられたあああああ!!」
「ひっぱってんの誰だ!? あの船か!?」
ざわめきが一気に歓声へと変わり、港の人々は桟橋へなだれ込む。
子どもたちが走り、母親たちが手を叩き、男たちが拳を突き上げる。
船がゆっくりと港に近づくたび、その波紋のように歓声が広がっていく。
「おい、誰かバルカディを呼べ!!」
「ヴァックスが戻ってくるぞ! あの船に乗ってた!!」
船が桟橋につく頃には、港中の人々が押し寄せていた。
桟橋に飛び降りると人々の注目を一身に浴びた……悪くない気分だ。
「……あいつが、やったのか!?」
「おい、おめぇ英雄だぞ!?」
「酒持ってこい!! 魚だ! パン焼け! 祝いの準備だぁ!!」
一気に押し寄せる歓声と拍手。
俺は反応するまもなく肩を捕まれ、担がれた。
「のわ! おわ! ちょっと! ま! てって!」
港の男たちに胴上げをされているところに、バルカディが到着した。
口元は驚きのまま固まり、やがてそれが笑みに変わっていく。
そのままバルカディは振り返り、大声で叫んだ。
「この街は救われたァアア!!! 今日は祝いだぁあああ!!!」
「「「ぉおおおおおおおーーーー!!!!」」」
町の人々は歓声を上げ、誰かが太鼓のような楽器を持ち出して鳴らし始め、
それを合図に港はお祭り騒ぎとなった。
仮設の酒場ができ、魚が串焼きにされ、浜辺には焚き火が並び、子どもたちが笑い声を上げる。
ヴァックスとシャンディは船の縁からぐったりとしながら、海風に揺られその様子を眺めていた。
「生きてて……よかったですね」
「ははは、助かった……本当に、助かったぁあああああ!!!」
ぐったりと疲れ切っているシャンディを横に、ヴァックスは空に向かって声を上げたのだった。
宴は夜まで続き、まだ盛り上がりが収まらない。
ヴァックスは早々に飲みつぶれテーブルに突っ伏し、シャンディはすでに船で眠っている。
この騒ぎでも起きないくらいに疲れているらしい。
焚き火のそば、樽の横に並んだシャドーズたちは、
一心不乱に酒をグビグビと飲んでいた。
「え!? あいつら何杯目よ……さっき樽持ってきたわよね?」
「さっきから一度も止まってねぇ……」
グビッ、グビッ、グビビビッ……
空のカップが高速で積み上がっていく。
しかし彼らはまったく酔った様子もなく、酒に溺れ、
それに負けじと他のやつも踊りはしゃいでいる。
ひとりが跳ねると、もうひとりがくるりと宙返り。
そのまま回転しながら片足で着地。無言のまま腕を上げ、底にもう一人が着地し大道芸を披露。
「おお!」
「お見事!」
最初はシャドーズ達におっかなびっくりだった港の人たちも、もうすっかり慣れていた。
その様子を船の近くのテーブルから眺めながら見ていたのだが、
酒飲みの漁師が酒を勧めてきたので、手下に負けじと飲みまくっていた。
……のだが、記憶がない。
最後の方は花火代わりに船から大砲を撃ちまくっていたとか……我ながら何をやってるんだ。
「う、気持ちわりぃ……」
完全に二日酔いである。




