第77話:霧の墓地
……わけが分からねぇ。
だが一つ、確実に――リュリシアは生きている。
その事実だけが、胸の奥で音を立てた。
安堵でも、涙でもない。
混じり気のない怒りが、静かに心臓を叩いた。
俺は立ち上がる。
白い霧の向こうで、リシアンの一団が沈黙している。
「……説明しろ」
声は低く、冷えきっていた。
それとは逆に頭の中は今にも点火しそうだ。
リシアンはその怒気を受けても動じなかった。
ただ静かに息を吐き、霧の向こうで目を細める。
「落ち着きなさい、アーク。剣を向ける相手を間違えるな」
その声には、怒りでも恐れでもなく――哀しみがあった。
「彼女は“眠っている”だけだ。戦火に呑まれぬよう、女神の御心で守られている」
「守られてる? これがか?」
思わず声が上ずる。
「眠らせて、こんな場所に?……それを“守る”だと? ふざけるな!」
リシアンは首を振る。
「守るとは、戦わせぬことだ。血を流させぬことだ。
彼女がこの地にいる限り、すべての派閥が血を流し続ける。
ならば、今は眠りの中こそが唯一の救いなのです」
「それを決めたのは、あんたらか?」
ヴァルセリクスの柄に力がこもる。
「……これが“救い”だと? 俺にはッ」
ヴァルセリクスを抜いた瞬間、言葉が途切れる。
それと同時に――風向きが変わった。
霧の奥から、ざらりと土を踏む音。
続いて、鋭い声が響く。
「――いたぞ! 逆賊だ!! 偽りの王を殺せ!!」
リシアンが顔を上げ、俺も反射的に振り返る。
霧の向こうから、黒装束の兵が数名現れた。
胸には試錬派の紋章――炎を囲む双剣。
その眼は理性の光を失っていた。
「……間の悪い連中め」
リシアンが低く呟く。
背後では神官たちがリュリシアを庇うように後退する。
「殺せ! 偽りの血を残すなッ!!」
試錬派の兵の一人が叫んだ。
剣が抜かれ、霧を裂く。
「ッ!」
俺の怒りは弾けた。
リュリシアがなぜこんな目に合わなければならない。
あいつはただの活発で、好奇心が強いただの女の子だ……。
それを寄って集って――。
もういい……全員。
「……殺す」
その時、別方向から光が走る。
影が二つ、霧の間を横切った。
セラ1とセラ2。それに続いて、小柄な影が転がるように前へ出る。小ネリスだった。
「足止めは任せろ! 逃がすな!!」
小ネリスが叫び、ナイフやかんしゃく玉のようなものを投げつけ、
騎馬兵は馬から転げ落ちる。
「も〜数が多い!」
「しょうがないでしょ、逃げられたらもっと大変よ」
セラ達が呻き、霧の向こうから続々と試錬派の兵士が現れる。
「退けるな! 陛下がいる!」
リシアンが剣を抜いた。
彼の動きは静かで速い。
伊達に慈悲派を束ねているだけの実力はある。
その刃が一閃し、兵の喉を裂いた。
俺もそれに続いた。
ヴァルセリクスが唸り、霧を光の弧で断ち切る。
試錬派の兵士の叫びが風に溶けた。
俺の中でどす黒いものが煮え立って溢れている。
「……この腐れどもが、“偽りの血”だぁ?」
腹の底から黒い怒号が響く。
「だったら……てめぇらの血が何色か見せてみろッ!!」
剣と刃が交錯し、墓標の間に火花が散る。
セラたちは木々の隙間から暗躍し、小ネリスがさらに敵を撹乱。
「クソ!? 目が!?」
「はい……おしまい」
目を潰された兵士は、不意に現れたアイリスに首をかき切られ倒れ込む。
その動きは給仕の時のように無駄がなく、相手の首を正確に切り落とす。
まるで野菜でも刻むかのような、冷たい手並みだった。
「まったく……邪魔なお客様は嫌われるんですよ?」
リシアンの兵も加わり、短いが激しい交戦になった。
「陛下に指一本触れさせるなッ!」
リシアンの声が響く。
今だけは休戦そのものだ。
まだ全部は理解できねぇが、少なくとも――こいつはリュリシアを殺す気はない。
互いに頷き、敵を蹴散らしていく。
――敵も味方も境界が曖昧な戦いは、やがて静まりはじめた。
刃が霧を裂き、火花が朝の光に溶ける。
地に伏す兵の一人が、血にまみれた声で吐き捨てた。
「……偽りの血は……すべて……滅びるべきだ……」
その言葉に、俺は無言で剣を突き刺した。
「……黙れ。滅びるのはてめぇだ」
ヴァルセリクスが閃き、最後の敵を貫いた。
――霧の中で、世界が静まった。
試錬派の兵たちは沈黙し、墓標の列の間を血が細く流れている。
鉄と煙の匂いが混じり、風が吹くたび霧が揺れた。
俺はヴァルセリクスを抜き、刃についた血を払う。
赤い滴が石に散り、すぐに霧へと溶けて消えた。
「……まだ、終わっちゃいねぇ」
ゆっくり顔を上げる。
リシアンは墓地の中央に立ち、白衣に血を受けながら動かない。
その背後に慈悲派の兵。
俺の後方には、セラ1・2、アイリス、小ネリス。
さらにその奥に、包まれたリュリシアたちが横たわる。
俺は半歩前に出た。
ヴァルセリクスの刃が朝光を受け、霧の粒を散らす。
「それで……いや、これで敵はてめぇらだけだな?」
リシアンは静かに首を振った。
「アーク……それは違う。
よく聞きなさい。
君は粗暴だが、物事の本質を見抜く目を持つはずだ」
「は? てめぇが俺の何を知っている」
リシアンの目が一瞬だけ柔らいだ。
朝霧の光で、歳月の影が皺となって浮かび上がる。
「私は知らない。
だがリュリシアが君を選んだのには、それ相応の理由があるはずだ。
彼女は、私の姉譲りの“目”を持っているからね」
「姉……?」
その一言に、身体の奥で何かが弾けた。
言葉の端に、あの夜のアドリアンがちらつく。
「アーク――私はリュリシアを、私の姉が……リリアンが残したその子を守りたいのです」
リシアンの声は急に弱くなったが、その奥には揺るがぬ覚悟がある。
「だが今は敵があまりにも多すぎる。
私の兵だけでは守り切れない。
だから――時代の渦から彼女を遠ざけるしかなかった。
眠らせ、隠すことで……守るしかなかったのです」
言葉は簡潔だったが、その背にあるものは重い。
「……お前の姉ってのは、アドリアンの妻だったのか」
吐き出すように言う。
言葉が喉を抜けるまでに時間がかかった。
蓋をしていた何かが軋むように開いていく。
リシアンは黙って頷いた。
頷きの中に喪失の深さが宿っていた。
「私は彼女を見送った。
若き日の約束も、家族の笑顔も失った。
だからこそ――同じ痛みを誰にも味わわせたくない。
私の、本当の“慈悲”はそこから始まった。
だがこの選択が、君のように剣で語る者に許されぬことも分かっている」
胸がざわつく。
怒りと同時に、理不尽な理解が忍び寄る。
「……理解する気はねぇが、理由は分かった。
――だが、お前に勝手に“眠らせる”権利なんてねぇ」
リシアンの目がわずかに潤んだように見えたが、その表情は崩れない。
「私は権利を振るったつもりはない。ただ最善を尽くした。
だが……君が来た。想定外だ。
だからこそ、より安全に彼女を隠さねばならない」
その言葉の直後――
包まれていた布の下で、微かな震え。
リュリシアの指先が、ほんの少しだけ動いた。
エレナの眉がぴくりと跳ね、アドリアンの胸が小さく上下する。




