第76話 眠りの王女と墓地
リシアンは聖堂の奥に立ち、祈りの間を見つめていた。
白い香の煙の向こうで、リュリシアは穏やかに眠っている。
その傍らには、同じく深い眠りに落ちたアドリアンとエレナ。
――今度は守り抜いた……これで静まるはずだった。
だが、その静寂を切り裂くように扉が開く。
「リシアン卿! 報告です!」
伝令の神官兵が駆け込んだ。顔は土埃にまみれ、息は荒い。
「どうしました?」
「それが、試練派が――この街を攻撃しています!」
「……なに?」
リシアンの眉がわずかに動いた。
「馬鹿な……ここは慈悲派の信徒街、それに刃を向けるなど」
「それでも、押し寄せています! “偽りの血を祓え”と叫びながら!」
伝令の声が震えていた。
「信徒も民も関係なしです! すでに西門は炎上、避難者が……!」
聖堂が、低く揺れた。
遠くで爆音が響き、ステンドグラスの光がわずかに震える。
リシアンは一瞬、言葉を失った。
胸の奥が冷たくなる――まさか、ここまでとは。
「……狂ったか、試練派!」
静かに呟いた声は、怒りと悲哀を帯びていた。
「女神の名を騙り、信徒ごと焼くというのか!」
外から怒号。兵士たちの声。
慈悲派の防衛隊が迎撃を始めたらしい。鐘の音が重なり、聖堂の床が再び震える。
副官が駆け寄る。
「リシアン卿、どうなさいますか! このままではこの聖堂も――!」
「……っ、陛下をここに残すわけにはいかんッ」
リシアンは振り返る。
眠る少女の頬が、光に照らされていた。
その無垢な顔を見た瞬間、彼の表情に決意が宿る。
「旧聖堂墓地へ向かう!」
「し、しかしあそこは……記録にも載っていない場所で危険では?」
「だからこそ今は安全なのだ!……いまは神すら静まる場所が必要だ」
副官は息をのんだが、すぐに頷く。
「はっ!」
「必ずや試練派を打倒さねば……皆、最善を尽くしなさい!」
伝令たちが号令とともに走り出す。
眠るリュリシアたちを担ぐ者、香炉を消して出口を封じる者。
聖堂の奥に隠された通路の扉が開かれ、冷たい空気が流れ込む。
「……お許しください、陛下」
リシアンは小さく呟いた。
「この国を、あなたの眠りごと燃やさせはしない」
外でまた爆音、光が赤くゆらめく。
信徒の叫びと祈りが交錯し、街全体が戦場に変わっていく。
「陛下を! 急げ!」
部下の声が響く。
やがて石の階段を下りる足音が重なり、扉が静かに閉じた。
リシアンは最後にもう一度、祭壇を振り返った。
崩れゆく聖堂の中で、白い香の煙だけが静かに揺れている。
その光景は――祈りというより、葬送のようだった。
外では、火の粉が夜空を覆い尽くす。
壁が崩れ、炎の渦が風に舞う。
リシアンは顔を上げ、荒れ果てた空を睨んだ。
「……試練派よ、そこまでして“王の血”を恐れるか」
その声は怒りよりも、深い哀しみを帯びていた。
数騎の馬が、聖堂裏の回廊へ回り込む。
布に包まれたリュリシアを抱え、神官たちが慎重に乗せる。
アドリアンとエレナも同様にして運ばれた。
「西はもう持ちません! 北の街道から回れば!」
「いいや、北はすでに封鎖されている。……南東へ抜けろ。森を越えた先に旧聖堂墓地がある」
「旧聖堂……?」
「今は誰も訪れぬ地だ。古き神の祠が残っている。――そこなら、誰の目にも触れまい」
部下たちが頷き、手綱を引く。
夜明けの光が遠くの丘を照らし始めていた。
炎と煙の中、馬蹄の音が石畳を叩く。
リシアンは一度だけ聖堂を振り返る。
赤く燃える屋根、崩れ落ちる塔、そしてまだ鐘を鳴らし続ける影。
その音が、まるで国の断末のように響いていた。
「……この命に代えても」
低く呟くと、彼は馬に跨がった。
炎の空を背に、慈悲派の騎士たちは闇へと駆け出した。
目指すは、誰も知らぬ聖なる墓地。
そこに――“眠りの王女”を隠すために。
ーーーーー
朝の霧が、墓標の列を白く包んでいた。
鳥の鳴き声もなく、ただ風が草を撫でる音だけが響く。
夜の火の匂いはまだ遠くに残っているが、この地はまるで別世界のように静かだった。
「……ここだ」
リシアンが馬を降りる。
古びた墓碑の間を抜け、崩れかけた石堂の前で足を止めた。
蔦の絡まるその扉は、長く誰にも触れられていない。
「急げ。陽が完全に昇る前に安置を」
部下たちが慎重にリュリシアの体を布ごと降ろす。
その頬はまだ温もりを帯びており、穏やかな寝息を立てているかのようだった。
アドリアンとエレナも傍らで同じ眠りに沈んでいる。
リシアンは手袋を外し、指先で彼女の髪を払った。
「……どうか、この穏やかさが続きますように」
その声は祈りというよりも、懺悔に近かった。
神官たちが祭壇の周囲に灯を置き、安置の準備を進める。
霧の向こうで、陽が昇り始める。
光は柔らかく、白い空気の中で溶けるように広がっていった。
――その時だった。
遠くから、蹄の音。
最初はかすかだったそれが、次第に明確なリズムを刻み始める。
乾いた土を叩く音が、霧の中に吸い込まれてくる。
「……誰だ?」
兵士が剣に手をかける。
リシアンも顔を上げ、霧の向こうに視線を凝らした。
やがて、白い靄の向こうに影が浮かび上がる。
馬上の人影。
差し込む朝の光を背に、青い外套がゆるやかに揺れていた。
――その姿を見た瞬間、リシアンの表情が凍る。
「……なぜここが」
霧を割って進み出たその男は、血と灰の匂いを纏っていた。
その傍らには、青い髪のメイド――アイリス。
湿った草を蹴り上げながら、馬が墓標の間を駆け抜ける。
蹄音が白い霧を裂き、静寂を切り裂いた。
「止まれっ!」
兵士の制止も虚しく、アークの馬は勢いそのままにリシアンの目前で土煙を上げた。
砂利が跳ね、冷たい風が吹き抜ける。
「リシアン!」
アークが荒く息を吐きながら睨みつける。
「何をしてやがる!」
「それはこちらのセリフです……」
リシアンは動じなかった。
霧の中で静かに目を細め、その背後の神官たちに指示を出そうとする。
だが、そのとき――。
アークの視線が、ふとその背後へと向いた。
神官たちが運ぶ布。
その端から、金色の髪が覗いた。
「……っ!」
空気が凍る。
アークの瞳が見開かれ、全身の血が逆流する。
「――おい、それを、どこへ運ぶ気だ」
低い声。
誰も答えない。
神官の手がわずかに震える。
アークは馬上から飛び降りた。
足が地を踏む音が異様に響く。
「答えろ……今すぐに!」
リシアンが口を開こうとした瞬間、
アークの手が剣に伸びた。
鋭い金属音が霧を裂く。
王剣〈ヴァルセリクス〉が鞘から閃光を放ち、湿った空気を震わせた。
「貴様……何をしたッ!!」
アークの叫びが墓地に反響する。
霧が風に巻かれ、墓標が影のように揺れた。
兵たちがざわめき、神官が後退する。
リシアンの白衣が風にたなびき、彼はただ静かにその怒りを受け止めた。
「……アーク、誤解です。剣を収めなさい。
その怒りは、いずれ自身を壊す」
霧を裂くように王剣〈ヴァルセリクス〉が閃いた。
冷たい光が墓地の白霧を照らす。
だが――アークは次の瞬間、その剣をゆっくりと下ろした。
「……チッ」
息を荒げ、刃先を地に向ける。
金属が湿った土に触れ、鈍い音を立てた。
「分かっていただけましたか――」
リシアンがわずかに息をつく。
だが、その安堵は一瞬で終わった。
アークの足が、止まらない。
次の瞬間――。
アークは剣を握ったまま、一歩踏み込み、
リシアンの肩を力任せに突き飛ばした。
白衣が揺れ、リシアンの体がよろめく。
「アークッ!」
リシアンの制止も届かない。
アークは一直線に神官たちの方へ歩を進めた。
霧の中で、重い靴音が響く。
「どけ」
低く、地を這うような声。
誰も動けなかった。
神官の一人がとっさに布を抱き締める。
だが、次の瞬間――。
アークの蹴りが横から突き上げられた。
鈍い衝撃音。
神官の身体が崩れ、布が宙に舞う。
その端をアークが掴み、荒々しく引き剥がした。
白布がはらりとめくれ、朝の光が差し込む。
金の髪がこぼれ、静かな寝息がその唇から漏れた。
「……リュリシア」
アークの声が震えた。
周囲の兵がざわめき、リシアンはただ静かに目を伏せる。
アークは膝をつき、震える手でその頬に触れた。




