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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第75話 慈悲の祈り


 祈りの声が静かに響いていた。

 夜の冷気はまだ残っているのに、空の端が淡く朱に染まり始める。

 聖堂の高窓から、最初の朝日が差し込んだ。


 リュリシアは両手を組んだまま、目を閉じていた。

 額に当たる光が、まるで祝福のように柔らかい。

 燃える王都の幻が、まだ瞼の裏に残っている。


(どうか――この国を、救ってください)


 祈りの声が途切れたその瞬間。

 聖堂の奥の扉が静かに開いた。


 足音。

 ゆっくりと、数人の影が入ってくる。


 白と金の礼装を纏った神官たち――慈悲派の幹部貴族たちだった。

 その後ろには、銀の鎧を着た衛兵が控えている。


 皆、一様に無言。

 だが、彼らの立ち位置が異様だった。


 ――まるで、包囲するように。


「……リシアン様?」


 エレナがわずかに身を乗り出す。

 リシアンは微笑んだまま、聖堂の中央へと進む。


「陛下。ご無事で何よりです。

 ……どうか、少しだけこちらへ」


 リュリシアは立ち上がり、ゆっくりと振り向いた。

 差し込む光に、礼装の白が眩しく揺れる。

 その光景は祝福の儀式のようでいて――


 ――どこか、冷たい。


「……皆、どうしたのですか?」


 リュリシアの問いに、誰も答えない。

 ただ、足音だけが円を描くように彼女の周りを満たしていく。


 アドリアンが一歩前に出ようとした瞬間、

 背後で扉が閉ざされた。

 硬い音が、礼拝堂の空気を震わせる。


「……何をする気だ?」


 アドリアンの声が低く響く。


 リシアンは静かに目を伏せた。


「宰相殿。これは“守り”です。

 陛下を危険から遠ざけるための――慈悲の行動なのです」


「慈悲、だと?」


 アドリアンの拳が震える。

 エレナが身構え、リュリシアの前に立つ。


 光が、聖堂を満たしていく。

 白と金の影がゆっくりと彼らを囲み、

 祈りの空間は、静かに“檻”へと変わっていった。


 静寂が落ちた聖堂に、リシアンの声が響いた。

 その声音はいつもの柔らかさを保ちながらも、どこか冷たさがある。


「……愚かにも、試錬派は戦の火蓋を切りました。

 これは、もはや誰にも止められません。


 いまの均衡は、かつて戦を止めたような志を持つ者はごくわずか……。

 この目で見る限り、その本当の意思を持つ者は貴方様だけでした。

 ですが、いずれ均衡も二つに割れ、過去の“慈悲と試錬の戦”をなぞることになるでしょう」


 アドリアンの眉が動く。

 エレナは一歩、リュリシアの前に出た。

 聖堂の光がゆらぎ、ステンドグラスに映る影が赤と金に混ざる。


「その混乱の中で、我々が陛下をお守りするのは――もはや不可能です」


 リシアンの瞳には悲哀とも覚悟ともつかぬ色が宿っていた。


「ゆえに――陛下には、ここで“死んで”いただきます」


 リュリシアの息が止まった。

 エレナの手が、無意識に柄へと伸びる。


「……今、なんと?」


 アドリアンが低く問いただす。


 リシアンは首を振る。


「誤解なさらぬよう。

 本当に命を奪うわけではありません。

 表向きは、陛下が我ら慈悲派の庇護下にありながら、試錬派の追撃によって命を落とした――そう見せかけるだけです」


 彼は歩み寄り、聖堂の光の中で跪いた。


「陛下のような、まだ幼く清らかな命が、戦禍で散ることを……

 我らが主、女神アーリアはお許しにはならないでしょう」


 背後の神官たちが静かに香炉を掲げる。

 白い煙が流れ、光の筋に溶けていく。

 その香りは、花のように甘く、そしてどこか、深く眠りを誘う匂い。


 リュリシアは一歩、後ずさった。


「……わたくしを、眠らせる気なのですか?」


 リシアンはただ静かに目を閉じた。


「すべてが終わるまで――ほんのひと時の眠りです。

 どうか、恐れずに。

 これは、神が与えた“慈悲”なのです」


 その言葉に呼応するように、聖堂の鐘がひとつ鳴った。

 朝の光が、リュリシアの頬を照らす。


 ――そして、香の煙が静かに広がっていった。


 白い香が静かに漂い始める。

 甘い花の香りが、祈りの空気を覆い隠すように広がっていった。


 アドリアンが手を伸ばし、リュリシアの肩を抱く。

 その眼は、怒りとも悲しみともつかぬ光を宿していた。


「リシアンッ、お前までもかッ」


 低く震える声だった。

 親族を信じてきた男の、最後の期待が砕ける音がした。


 リシアンは目を伏せ、何も言わない。

 その代わりに、一歩進み出て静かに言葉を紡ぐ。


「宰相殿――そして、エレナ殿。

 どうか、これを“裏切り”とは呼ばないでいただきたい。

 これは、この国を救うための“選択”です」


「救うだと……!?」


 アドリアンの声が低く響く。

 しかし剣を抜くことはできなかった。


 リュリシアがすぐ傍にいる。


 そして――背後では、神官たちの手にした杖が淡く光り始めていた。


 エレナが前へ出ようとしたが、リシアンの視線がそれを制した。


「落ち着きなさい、騎士エレナ。

 この方の命は奪いません。

 ただ――“この時代”から一時、遠ざけるだけです。

 それに、これが一番この子にとって安全なのです」


 その声は静かで、どこか祈りのようだった。


「彼女が眠れば、我ら慈悲派は“王の血”を守り抜いた唯一の派閥となる。

 試錬派は暴走を続け、均衡もいずれ分裂する。

 ですが――陛下を“守り抜いた”我々にこそ正義が宿るのです」


 アドリアンの拳が震えた。


「……貴様、最初からそれを狙って」


「違います。私は最初からただ“慈悲”を全うしているだけ。

 私も、幼き頃から見ていた彼女を死なせたくないのです」


 リシアンの声は穏やかだった。


「リシアン……くだらぬ幻想に惑わされたかッ」


 アドリアンは叱るように言葉を向けるが、それは盲信する者には届かない。


「惑わされているのはあなただ!」


 だが、その声に反応したようにリシアンの声が震えた。


「守るという言葉だけを…履き違えないでいただきたい!。

 この場、この時代からリュリシアを遠ざけることこそ彼女を――私の家族を――これ以上死なせないためのものなのです!!」


 その言葉に、アドリアンの顔がわずかに揺らぐ。

 リシアンという男に…わずかに妻の面影を見た…。


 リシアンの瞳には、確かに“狂気”ではなく、“喪失を知る者の慈悲”が宿る。


「陛下が眠ることで、この戦は“正当な理由”を得ます。

 ――女神を侮辱し、幼き王を奪った試錬派。

 均衡の者たちでさえ、それを許すことはできないでしょう。


  …そうなればこの争いも長引かずに済むのです」


 エレナはリシアンの言葉に激昂した。


「貴様!!! リュリシア様の名のもとに正義を飾るつもりか!!!」


 リシアンは小さく頷く。


「犠牲ではありません。守護です。

 それに――宰相殿、そして貴女にも引き続き“協力”を願いたい。

 王が眠る間、国を導く者が必要ですから」


「ふざけるな…!」


 アドリアンの声が荒れる。

 だが神官たちが円陣を狭めるように一歩踏み出した。

 杖の先端が淡く輝き、聖堂の光が震える。


 リシアンはその中央で、淡々と告げた。


「どうか理解してください。

 陛下を守り抜けば、我々は均衡の支持を得られる。

 この国を立て直すための“大義”となる。

 そして、陛下が再び目覚めたその時――あなた方は“英雄”として、その傍に立っていられるでしょう」


 言葉が、冷たく響いた。

 アドリアンは唇を噛み、エレナは剣の柄を握りしめる。

 だが、香の煙が濃くなっていく。


 リュリシアのまつげがわずかに震え、

 膝がかすかに揺れた。

 リシアンはその姿を見つめ、静かに祈るように言った。


「……おやすみなさいませ、陛下。


 すべてが終わり、血の嵐が静まった暁に――

 再び、その御心をこの地に…どうか良い夢を」


 鐘が再び鳴った。

 聖堂の光が揺らぎ、少女の意識が遠のいていく。


 アドリアンの手が空を掴む。

 その瞬間、彼は悟った――リシアンは信仰と理性の狭間で、最も残酷な“正義”を選んだのだと。



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