第70話:少女に答えた声
王都の夜は、深く静まっていた。
昼の喧騒が去り、残ったのは薄い緊張の匂い。
宰相執務室の灯だけが、眠らぬまま揺れている。
積み上げられた報告書はどれも、好転とは程遠い内容だった。
「……試練派の動きが激しくなっています」
机越しに、リシアンが穏やかな声で言った。
慈悲派の筆頭、そしてアドリアンの遠縁。
若い頃からの付き合いで、彼は執務室への立ち入りが許されていた。
「徴募令の範囲が拡大し、民兵が再編されています。
さらに傭兵団も呼び戻されつつある。
バルデスは“防衛”を口実に兵を増やしているようです」
アドリアンは黙って書類をめくる。
紙の隙間から覗く赤い印――“徴発済み”。
持ちこたえていた王都の均衡は、もう限界に近かった。
「……やはり来るか」
アドリアンが低く呟く。
「均衡が崩れれば、誰も止められん。
試練派が動けば、王都は戦場になる。……まったく」
リシアンはうなずき、しばし沈黙ののちに言葉を続けた。
「ゆえにこそ、宰相閣下。陛下を、安全な場所へお移しするべきです」
アドリアンの視線が上がる。
「……避難、ということか」
「はい。慈悲派の本邸には護衛も結界も整っております。
万一の際には、陛下の身を守れる。
王都からそれほど離れずに済む、最も安全な地です」
アドリアンは少しの間、考えた。
その提案は確かに理に適っている。
慈悲派は中立を保つ姿勢を見せており、
なによりリシアンは親族――疑う理由などなかった。
「……善処しよう。だが、陛下にその話を伝えるのは私からだ」
「もちろんです。お任せします」
リシアンは穏やかに微笑んだ。
目の奥に、一瞬、光を飲み込むような静けさがあった。
その時、扉が叩かれる。
「報告! 東方エルヴァンにて、魔族の襲撃発生!」
部屋の空気が一変した。
アドリアンは立ち上がり、書類を乱暴に押しのける。
「……エルヴァンだと?」
「はっ、現地より使者が――街が炎上、避難民多数とのこと!」
アドリアンの顔色が変わる。
「私の領地だ。すぐに迎撃の準備を――」
「お待ちください、宰相殿!」
リシアンが立ち上がり、慌てて止めた。
「今あなたが離れれば、王都の均衡が崩れます!」
「だが民を見捨てるわけにはいかん!」
アドリアンの声が鋭く響く。
蝋燭が風に揺れ、二人の影が壁に大きく揺れた。
一瞬の沈黙――その間に、アドリアンは冷静さを取り戻す。
そして扉の前に立つ兵へと命じた。
「アークとエレナを呼べ。今すぐに!」
「はっ!」
兵が駆け出していく。
アドリアンは机の端を握りしめ、低く息を吐いた。
「……すぐに動けるわけではない。だが手は打たねばならん」
リシアンが口を開く。
「もし宰相殿が王都を離れるなら、陛下の護りは我々に」
「わかっている。だが、その判断は陛下に報告してからだ」
アドリアンの声に、リシアンはわずかに微笑む。
「もちろん。……陛下には静かにお伝えします。混乱を避けるためにも」
その時、執務室の扉が再び開いた。
エレナが入室し、その後ろにアークの姿。
二人の顔にはただならぬ緊張があった。
「報せは聞きました」
「状況は? 街が襲われたって、マジか?」
「エルヴァンが襲撃を受けた。詳細は不明だが、規模が大きい」
アドリアンは地図を広げ、指先で東部を示した。
「だがこの報せが本当なら、ただの下級魔族だけの仕業ではない」
エレナが口を引き結ぶ。
「リュリシア様はこのことをご存知で?」
「あぁ……いや、さっきまで俺と一緒に勝負やってて、寝落ちしてたから…知らねぇはず……」
「アーク、貴様というやつは……」
その時、扉の向こうから足音がした。
小走りの音、そして――
「お父様!」
「「リュリシア!?」」
驚きの声が重なる。
リュリシアが現れた。
眠るどころか、外套を羽織っている。
「外が騒がしいから……何かあったのですね?」
アドリアンは一瞬ためらい、そして嘘をつけないと悟った。
「東部で、魔族の襲撃があった」
「東部……それは――」
「エルヴァンだ」
リュリシアの表情が凍る。
あの街には、アドリアンの屋敷がある。
そして――侍女のアイリスが残っている場所でもあった。
「……アイリスが……」
掠れた声が漏れる。
アドリアンは言葉を選びながら言った。
「今、部隊を編成中だ。だがすぐに動くわけにはいかない」
その言葉に、リュリシアは即答する。
「なら、私も行きます!」
「駄目だ!」
アドリアンが遮る。
「お前はこの国の“均衡”そのものだ。動けば、すべてが崩れる」
リュリシアは唇を噛み、うつむいた。
エレナがその肩に手を置く。
「陛下、どうか我々におまかせを……」
「……わかっています」
それでも、リュリシアの目の奥には決意が灯っていた。
アドリアンがその表情を見て、嫌な予感を覚える。
「リュリシア? 何を考えて――」
少女は静かに息を吸い、顔を上げた。
揺らめく灯の中、その瞳はまっすぐに前を向いていた。
「アーク」
一言、名を呼ぶ。
それだけで部屋の空気が変わった。
彼は少し顔を上げ、軽く首を回してから、ため息をつき――
そして、ゆっくりと頷いた。
それはリュリシアが願い、街を駆け抜けたあの日のようだった。
護衛たちが口を揃えて「ダメだ」と止める中、
彼女が街を見て回りたいと訴えたあの時。
ただひとり、アークだけが頷いた。
彼は彼女を抱え――風の中を駆け抜けた。
暮れてゆく街で灯る明かりの一つひとつが、命のように揺れていた。
その記憶が、一瞬で蘇る。
そして今も、彼は同じように頷いている。
だから言葉に不安はなかった。
「……あなたに、命じます」
その声は確かな“王の声”だった。
「ヴァルセリクスを持ち、エルヴァンの現状を確認し、民を救いなさい。
……そして、アイリスを助けて」
アークは目を細め、苦笑のような息を漏らす。
そしてまっすぐに彼女の目を見て、一言だけ――。
「任せろ」
「駄目だ!」
アドリアンが声を荒げる。
「リュリシア、それは王の軽率な命令だ!」
リュリシアは震える唇で、それでも言葉を重ねた。
「……軽率でも、何もせずにはいられません。
この国を救う前に、私は人を――家族を見捨てられません」
アドリアンは言葉を失う。
王ではなく、娘としての真っ直ぐな意志――
それを止める術を持たなかった。
アドリアンが悔しげに吐き、低く呟く。
「……まったく、母と同じ目を」
リュリシアは振り返り、ヴァルセリクスを掲げる。
刃に映る手は重さに震えていたが、言葉と意志は揺れない。
「これは“国”ではなく、“人”を守るための剣です。私はそう思います」
アークは静かにその剣を受け取った。
「ずいぶん軽い命令だな、陛下」
「ええ。軽率で、愚かですよ〜だ」
「あぁ……それだ」
「?」
「そのほうがお前らしい。……行ってくる」
「……お願い」
「任せろ」
二人の視線が交わる。
短い沈黙のあと、アークは剣を背に掛け、背を向けた。
「王都は頼むぜ」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
静まり返った室内に、かすかな風の音だけが残った。
リュリシアはそっと胸に手を当てる。
鼓動が早い。
怖くないはずがない――けれど、不思議と涙は出なかった。
彼が頷いた。
あの時と同じように。




