第69話:街の仮面
街に陽が差し込んでいた。
王都は、他のどの都市とも比べものにならないほど華やかだった。
石畳の道に露店が並び、旗が風にはためく。
子供たちは花を売り、楽師が笛を鳴らしている。
その明るさは、まるで戦も悲しみも過去のことだと言わんばかりだった。
(だが、俺にはわかる…)
笑顔の下にあるのは“平穏”ではない。“不安”を隠す薄い仮面だ。
新王の噂が街を満たしても、まだ誰も本当に“信じきれて”いない。
人々の心の底にあるのは――「再び王を失うかもしれない」という恐れだ。
リュリシアは軽装の外套を羽織り、王印の飾りもつけていない。
ただの旅人のような装いで、俺とエレナ、それに数名の護衛だけを伴って歩いていた。
彼女はどこか儚く、それでも毅然としていた。
「まるで祭でも開いてるみたいだな」
俺が言うと、リュリシアは少しだけ口元を緩めた。
「人は、不安な時ほど賑わいを求めるのかもしれません。
声や音があれば、恐れを忘れられるから」
その声は穏やかだが、奥にある意志は強い。
……いちばん深い不安の中にいるのは、たぶん彼女自身だ。
道端では噂話が飛び交っていた。
「新しい陛下はまだ冠を戴かれていないらしい」「でも均衡派の血筋なんだろう? なら安心じゃ?」
「魔族がまた出たって南の方で……」「いや、王がいれば平気さ」
そんな声を聞きながら、リュリシアは一つひとつを噛みしめるように歩いた。
「怖くありませんか?……」
エレナが小声で問う。
リュリシアは少しだけ間を置いて答えた。
「……怖いです。でも、聞かなければならないのです。
この国の声は、私の責務そのものですから」
王冠をまだ戴かずに、もう“重さ”だけを背負っている――そう思った。
広場を抜けると、屋台が並んでいた。
果実酒、焼きパン、香草の串焼き――
香りだけで腹が鳴るほどの活気。
だが、笑い声の隙間に怒号が混じっていた。
配給をめぐる小競り合い。
兵士が群衆の子供を押し返し、子供が転ぶ。
小さな手から転がったパンが、泥に落ちた。
「やめて!」
リュリシアが一歩前に出た。
衛兵が慌てて止めようとしたが、彼女の方が早かった。
裾をかがめ、泥のついたパンを拾い上げる。
「子供を責めてはいけません!」
その声は静かでありながら、芯が通っていた。
「この国は、民を虐げるような国なのですか!」
兵士が気まずそうに頭を下げ、
子供は涙目でリュリシアを見上げる。
彼女は一度パンを見て、そっと子の手を握ってから立ち上がり、
懐から金貨を一枚取り出して屋台の男に渡した。
「これで、新しいのを焼いてください」
群衆が息を呑む――ざわめきが静けさに変わり、
次の瞬間、小さな拍手が波のように広がった。
エレナが眉をひそめ、低く囁く。
「陛下、ここは死角が多い場所です」
「ごめんなさい、エレナ。……でも、今の私は、この国に恥じない者でいなければならないの」
その言葉は、街の喧騒よりも静かに響いた。
俺にはそれが、どうしても寂しく聞こえてしまう。
その後、人目を避けた場所で、三人で屋台の端に腰を下ろし、焼きたてのパンを分け合った。
庶民の粗い麦の香り。
リュリシアが一口かじり、頬をほころばせる。
「……少し硬いけど。でも、温かくて美味しい!」
「温かいなら、十分だ」
俺がそう答えると、彼女はほんのわずかに笑った――
まるで、“王”という名の鎖が、ほんの一瞬だけ外れたように。
……もう、こんな短い時間でしか、彼女は笑えなくなってしまうのだろうか。
――――――――――
陽が傾くころ、王都の北端――〈試練派〉の訓練場に到着した。
ここは王都防衛の要であり、バルデス卿が治める場所。
剣戟の音と掛け声が響き、空気が鉄の匂いを帯びている。
「陛下、本当にこのような場所を?」
エレナが控えめに声をかける。
だがリュリシアは首を振った。
「いいの。……この目で見ておきたいのです。
この国を守る“力”が、どんな顔をしているのか」
中央で鍛錬を見守っていた巨躯が、振り向いた。
バルデス。試練派の象徴。
鋭い眼光と重い声が、兵士たちを一瞬で静める。
「陛下、直々に視察とは光栄の至り」
「突然の訪問をお許しください。……訓練の様子を見せていただけますか」
「もちろんです。民の平和は剣の上にこそある――どうぞ、ご覧あれ」
号令とともに、模擬戦が始まった。
木剣の打ち合い、砂の舞う音。
力と規律がぶつかりあい、
リュリシアはしばし無言でその光景を見つめていた。
やがて、バルデスが歩み寄る。
「……陛下。近頃の報告、ご存じのはずです。
あれ以来、下級魔族の出没が各地で増えております。
討伐隊の損耗も激しく、南境では村がひとつ消えた。
我が国は今、剣を鈍らせる余裕などありません」
「報告は受けています。けれど……“力”だけが国を支えるわけではありません」
リュリシアの声は、凪のように静かだった。
「しかし陛下――先にも小国とはいえ、近隣の一国が滅びました。
生還者はほんの数人、城は完全に崩れ、
空を覆う“船”が現れたと……」
アークの背がわずかに強張る。
(ッげ……俺の話か? だが無差別にやった覚えはないぞ……)
リュリシアはその言葉を、ゆっくりと飲み込むように聞いた。
表情は動かず、ただ瞳の奥だけが微かに揺れる。
――空を覆う船。
彼女は一瞬だけアークを見た。
その目に、恐れも疑いもなかった。
むしろ、静かな確信があった。
――“彼”なら、無意味な殺戮などしない。
「……バルデス卿」
リュリシアは顔を上げた。
声は柔らかかったが、響きは澄んでいた。
「確かに、恐るべき力が現れました。
けれど、私たちが恐怖で武を増やせば、
それは均衡を壊し、また新たな恐怖を生む。
“力を恐れる”ことと、“力に屈する”ことは違います」
バルデスが目を細める。
その声音に、かすかな苛立ちが滲んだ。
「陛下……お優しさは尊い。だが現実は非情です。
剣を持たぬ者は、守ることもできぬ」
「剣を抜くことだけが“守る”ではありません」
リュリシアは一歩前に出た。
訓練場の砂を踏む音が、やけに鮮やかに響く。
「均衡とは、誰かを縛るための秩序ではなく、
争いを止めるための“願い”です。
――私がいる限り、この国はその願いを曲げません」
その瞳はまっすぐで、何者にも揺るがなかった。
アークは隣で、黙ってその背を見守っていた。
ほんの数日前まで迷いを抱えていた少女の影は、もうどこにもなかった。
「剣が必要な時は、私が抜きます。
それまでは――誰の剣も抜かせません。
民を煽り、必要以上に兵を集わぬように命じます」
沈黙。
その中で、風が砂を撫でて通り抜けた。
陽光が白く、静かに彼女の肩を照らす。
バルデスは深く頭を下げた。
「……御意」
訓練場に、冷たい風が吹いた。
兵士たちの動きが止まり、
バルデスが一瞬、表情を失う。
アークは横目でその瞳を見た。
それは、服従の目ではない――
計り、測り、見定めている。
“この娘は王ではない”と、内心で結論を下す者の目だ。
(あの野郎……敵だな)
リュリシアはその視線を感じ取ったのか、
ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
「……この国は、力に頼る国ではありません。
守るために剣を掲げるのではなく、
争わぬために剣を下ろせる国でありたいのです。
我々は、過ちを繰り返してはならないのです」
その言葉に、風鈴のような沈黙が落ちた。
バルデスはわずかに唇を歪め、
「――陛下のお心、しかと承りました」とだけ答えた。
彼女が去ったあと、
バルデスは無言で訓練場を見渡し、短く命じた。
「徴募の枠を広げろ。傭兵団との契約草案も用意しておけ」
部下たちが敬礼し、走り去る。
その背を見送りながら、彼は低く呟いた。
「……優しすぎる。あれでは、この時代を生き残れぬ」
砂塵が舞い、兵士たちの掛け声が再び響いた。
その音は、まるで――遠い嵐の前触れのようだった。




