第68話:影の思惑
塔を降り、長い廊下を抜けた先。
王城の一角に、ひとつだけ灯が残っていた。
アドリアンの執務室。
扉の前の兵が直立し、俺に気づいて敬礼する。
「セイヴァー殿、宰相閣下はまだ中に」
「知ってる。少しだけ顔出す」
軽く頷いてノックすると、
「……入れ」
いつもの低い声が返ってきた。
中は書類の山だった。
机の上には蝋燭がいくつも立ち、紙の海を照らしている。
その中央で、アドリアンが俯いたままペンを動かしていた。
「……働きすぎですよ、宰相殿。死人も休む時間くらいはあるだろ」
「……皮肉を言いに来たのか」
「いえ、見回りのついでです」
アドリアンは手を止め、顔を上げた。
蝋燭の火が、その疲れ切った横顔を浮かび上がらせる。
彼は少しの間、何かを迷うように沈黙していた。
やがて、低く掠れた声で言った。
「アーク……すまない」
思わず眉を上げた。
アドリアンが人に頭を下げるなんて、想像もしていなかった。
「何の話です?」
「その地位に就かせたことや、これまでのこと、すべてだ……」
アドリアンはペンを置き、掌で顔を覆った。
その指の隙間から、かすれた声が漏れる。
「……あの子の母が死んでから、私は最善を尽くしてきたつもりだった。
公爵家として、王の血を守る者として。
だが、愚かだった。
私の“最善”は、いつもあの子を追い詰める結果にしかならなかった」
言葉が重く、蝋燭の炎がわずかに揺れた。
「護衛を増やし……それが裏目に出て、内の者に裏切られ、
リュリシアは何度も命を落としかけた。――父である私が、一番あの子を窮地に追い込んでいた」
アドリアンはゆっくりと目を閉じた。
「私は、ただ……“王族のリュリシア”ではなく、
“ただの娘”として生きる道を用意してやりたかった。
血に縛られず、運命にも縛られず、
あの子が笑って過ごせる日々を……。
だが、それも叶わなかった」
机の端に置かれた銀のペンダントが、淡く光を反射した。
おそらく、亡き妻のものだ。
「そして――エレナにも、背負うべきではないものを背負わせた。
あの子を守らせるために、彼女を“騎士”に仕立ててしまった。
本来の彼女は、リュリシアと同じように穏やかで優しい子だった。
それを……私は自分の安心のために、“折れぬ剣”になるよう道を開いてみせた。
娘を護らせるために、もう一人の娘を犠牲にしたようなものだ……」
アドリアンの声が少し震えた。
初めて見る弱々しさだった。
「……結局、私は何も守れなかった。
妻も、娘も。
正義を語りながら、守るべき者を犠牲にしてきた。
そんな私が父を名乗るなど――笑止だろう」
長い沈黙。
蝋燭の音だけが、部屋を満たしていた。
何も言えずに立ち尽くしていた。
目の前の男が、ようやく一時責務から離れ“人間”に戻った気がした。
「でも……俺は、そういうのは嫌いじゃない……」
アドリアンがわずかに顔を上げる。
「……君は、皮肉屋だな」
「本音ですよ。血を守るとか、国を背負うとか……そんなのより、
“娘の笑顔を守りたかった”って言える人のほうが、ずっと信じられる。
……でなきゃ今頃、俺も金だけもらってとんずらしてますよ」
蝋燭がぱちりと音を立てた。
「……アーク」
「なんです」
「ありがとう」
俺は軽く頭を下げ、背を向けた。
廊下に出た瞬間、息を吐く。
部屋に戻る途中、石の壁に背を預けて窓の外を見上げると、空は薄明かりを見せていた――夜が明ける。
アドリアンの言葉が胸の奥に残っていた。
「守れなかった」と嘆く男の背中が、どこか穏やかに見えたのは、
きっと“誰かを想って”苦しんでいる証だからだ。
重たい空気を引きずったまま、俺は静かに歩き出す。
遠くで鐘が鳴った。
王都の朝を告げる音。
そして、その音とともに――議会の時が来た。
――――――――――
王城の大広間は、夜とは打って変わって明るかった。
窓から射し込む光が、白い大理石の床を反射してまぶしいほどだ。
中央には半円状の議席が並び、各派閥の代表たちが既に席についている。
慈悲派、試練派、均衡派――それぞれの紋章旗が掲げられ、
その前に重鎮たちが並んでいた。
アドリアンは最上段中央に座し、背筋を伸ばしている。
昨夜の疲労を微塵も見せず、宰相としての顔に戻っていた。
俺とエレナは、側面の警護席に立つ。
式の後ということもあって、まだ視線が刺さる。
「王剣を抜いた男」への好奇と警戒が入り混じった空気。
リュリシアは王座の前に座り、真っ直ぐに場を見渡した。
黒衣の喪服を脱ぎ、白銀の軽衣に身を包んでいる。
その姿は、幼い王女ではなく――“女王”そのものだった。
アドリアンが立ち上がる。
「――これより、国政会議を始める。
議題、襲撃事件の真相究明について」
ざわめきが走った。
リュリシア襲撃、王の死、そして“魔族の影”。
この一連の事件をめぐる真実を探るための議会だ。
「各派の報告を」
アドリアンの声に従い、順に各派代表が立ち上がる。
静まり返った空気の中、まず立ち上がったのは慈悲派のリシアンだった。
「陛下の御前にて申し上げます。
今回の襲撃で“魔術”が使用された痕跡を発見いたしました」
ざわめきが起きる。
“魔術”――その言葉が重く響く。
リシアンは続けた。
「魔法と魔術の違いは、知っての通りです。
魔法は魔族のみが行使できる特質。
詠唱も術式も介さず炎を生み、影を裂く……人の身では扱えぬ力。
ですが、あの晩は結界が張られていた。王城に魔族が干渉すれば、その時点で気づけたはず……
ゆえに、あの場に“魔術”の介入があったのは明白です」
試練派のバルデスが、机を叩いて立ち上がった。
「根拠のない妄言だ!」
「妄言ではない!」リシアンが声を張る。
「貴殿ら“試練”の者が密かに画策し魔族を招き入れたこと……我らは見過ごせぬ!」
大広間が一瞬でざわめきに包まれる。
バルデスの顔が引きつり、怒声を放つ。
「貴様ら慈悲派こそ、自らの無策を魔族のせいにして逃げるつもりか!
魔法と魔術の区別もつかぬ者が、何を語る!」
「では説明せよ!」リシアンが一歩踏み出す。
「魔術とは、術式や詠唱を介して人が模倣する“魔法の現象”だ。
だが現場には、詠唱の痕跡すらなかった!
術式の残滓も、道具の破片も、何もだ!」
言葉がぶつかり、怒号が天井に反響した。
それを、アドリアンが一喝して制する。
「――静粛に」
重々しい声が大広間を鎮めた。
「互いを罵り合っても何も生まれぬ。
我々の目的は“犯人捜し”ではない、“真実”だ」
彼はゆっくりと視線をこちらへ向けた。
「……アーク。君が現場で見たものを話してくれ」
一斉に注がれる視線。
重たい空気を吸い込み、前に出る。
「……俺はこの国の生まれじゃない。
だから魔族についての“正確な”情報は知らない。
だからこの場を借りて聞きたい――魔族を“操る”ことは可能か?」
リュリシアがわずかに身を乗り出した。
議場全体が静まり返る。
バルデスが冷笑を浮かべた。
「操るだと? 笑わせるな。魔族は人間を家畜としか見ぬ。従わせることなど――」
「それでも、あり得るんじゃないか?」
俺の言葉に、ざわめきが広がる。
「俺が見たのは、まだ本物の“魔族”じゃなかった。ありゃおそらく人間だった。元は平民だろう」
リシアンが息を呑む。
「……まさか、魔に取り憑かれた者が」
「どうやってなのかは知らん。
だが魔族が直接来たんじゃない。
“内側から”なら、さっきのあんたらの言い合い、どちらも通る部分がある」
アドリアンの目が鋭く光った。
「“魔に堕ちた人間”か……」
「問題は、誰がそれを“堕とした”のかだ」
再び議場に重い沈黙が落ちた。
リシアンが拳を握りしめる。
「……やはり、魔族と通じた者がこの城にいるかもしれません」
バルデスが怒鳴る。
「根拠もなく我らを貶める気か!」
「落ち着け。犯人が誰かとは言っていない。
だが過去に、リュリシアの馬車も襲われた。護衛の兵士に魔族が混じっていた」
俺はそのままカマをかける。
「確認だ。あの時の“追加の兵士”――たしか、あんたのほうから派遣された者じゃなかったか?」
「な、何を――我らを疑うか!」
「疑ってるわけじゃない。
死ねば砂になる。残るものは、風にさらわれる砂だけだ。
だから“配属経路”を確かめたいだけだ」
「確かに要請を受け兵を派遣した。だがその身分はもとよりこの国のものであったのだ!
それが魔族などありえん!」
「なら……敵は、そこら辺をごまかせる位置にいるってわけかもな?」
その一言で、重い沈黙が落ちた。
アドリアンの目がわずかに細められる。
彼は知っていた――“魔族の死”が痕跡を残さないことを。
「……正確に侵入の痕跡を辿る術はありませんね」
リシアンが低く息を吐く。
「ですが、王城の結界は生きていた。
やはり外から魔族が入り込むことは不可能です。
だとすれば――セイヴァー殿の言うとおり……」
「“内側”」
俺が言うと、リシアンが頷いた。
「はい。
ですが、ここで私は一つ思うのです。
もしも、魔族が“導かれた”のではなく――“既にいた”としたら?」
ざわめきが走る。
「……なんだと?」
アドリアンが顔を上げた。
リシアンは立ち上がり、議場を見渡した。
「古来この王国は、魔族との戦で築かれました。
だが、我々がいま目にする“魔族”は、せいぜい低級の徒――
人の形すら保てぬ、野に散る獣です。
しかし、かつては人の姿で言葉を操る“上位種”がいたと伝えられている。
もし、あの戦で滅びきらず、姿を変え、血を薄めて潜み続ける者がいたとしたら?
伝承にある“上位の魔族”――〈深淵の眷属〉。
もし、なお息づくなら……我らの対立も王の死も、すべて“掌の上”でしょう」
その言葉に、場の空気が一変した。
ざわつきは、やがて重い沈黙に変わる。
「リシアン……それはつまり」
アドリアンの声が低く響く。
「我らの対立も、“敵の思惑”であると?」
「断定はできません。しかし――我ら三者三様の志はあれど、
果たして前陛下を殺害し、このように国内を混乱させ、国の危機を招く理由はありましょうか?」
それぞれの派閥が視線を合わせ、皆が頷いた。
リシアンの瞳が揺れる。
「もしそうなら、互いに罵り合うことこそ、奴らの望みでしょう」
バルデスも言葉を失う。
彼にしても、“魔族の策略”という言葉には反論できなかった。
リュリシアが立ち上がる。
白銀の衣が、陽光にきらめいた。
「……もしそれが真実なら、争うことは罪です。
私たちは――この国を守るために、一つにならなければならない」
彼女の声が、静寂に染み込むように響く。
ほんの一瞬だけ、敵味方の線が消えた。
アドリアンがゆっくりと目を閉じ、言葉を結んだ。
「……よかろう。
“真実”を見つけるまでは、互いに剣を向けるな。
それが陛下の御前で交わす、最初の誓いだ」
鐘が鳴る。
まるで“誰か”が遠くで笑っているような、不気味な響きを伴って。




