第65話:王剣の脈動
血と硝煙、割れた水晶灯の匂い。
息を呑む音が、あちこちで小さく弾けた。
刃鳴りがやむにつれて、魔族の影も目に見えて減っていく。
最後の一体が、大広間の柱の陰からふらつき出てきた。
膝が抜け、尻もちのまま後ずさる。
さっきまで紅く爛れていた目の色が、にわかに褪せ――ただの人間の濁りへ戻っていく。
黒かった爪は、ぽろりと剥がれ、指先は白い“手”に変わっていった。
「……化け者め」
近くの兵士が一歩踏み出すと、そいつは首を振り、涙だか汗だかわからない液を飛ばしながら叫んだ。
「た、頼む……待ってくれ……!俺は、俺はこんなこと、したくない……!」
喉が潰れた声。背中で床を掻きながら、必死に言葉を繋ぐ。
「“あいつ”が……あいつが俺に――」
パンッ――!
乾いた破裂音。
次の瞬間、そいつの頭部が内側から弾けた。
誰も動いていないのに、空気だけが歪んだような感触が頬を撫でる。
崩れた身体は、ゆっくりと形を失い、
衣だけを残して――砂になった。
舞踏会場の床に、静かな砂の円だけが残る。
「……口封じ、か」
俺が低く呟く。包帯の下で奥歯が鳴った。
へし折れた剣を投げ捨て、
俺はリュリシアたちの方を向いた。
「リュリシア! 怪我は?」
「ええ……だいじょ――」
その瞬間、天井が悲鳴を上げた。
石膏が裂け、音もなく影が落ちる。
空気が歪んだ。
「上だッ!!」
エレナが素早く反応し、剣を抜いた。
月光のような銀閃が走り、降下してきた一体の魔族を一刀のもとに両断する。
だが――
もう一体。
床下のテーブルを割り、黒い爪が這い出した。
狙いはリュリシア。
その赤い瞳だけが、まっすぐ彼女を見据えていた。
「くそっ……!」
俺は地を蹴った。
振り向いたリュリシアの瞳が、驚きで見開かれる。
その肩を掴み、力任せに引き寄せ――
「っ!!」
その勢いのまま、リュリシアを抱きかかえた腕を返し、
アドリアンの方へと投げ渡す。
「リュリシアッ!!」
アドリアンが受け止めた刹那、俺の手が――彼女の持っている王剣の柄を反射的に掴んでいた。
触れた瞬間、
脈のような鼓動が、掌に流れ込んだ。
眩い熱。
考えるより早く、体が動いていた。
ギィィン――!
金属の悲鳴が響いた。
青白い光が、瞬時に視界を満たす。
その輝きは、まるで自ら抜かれることを望んでいたかのようだった。
「うおおおおおッ!!!」
ヴァルセリクス。
伝承の王剣が、俺の手で唸った。
刃が弧を描き、
這い出てきた魔族の胴を真っ二つに裂いた。
黒煙が弾け、瘴気が焼ける。
悲鳴すら上げる間もなく、魔族の肉体は光に飲み込まれて消滅した。
残光が散る中、俺は荒い息を吐いた。
腕の中の剣がまだ震えている。
熱を持つように、低く――脈打っていた。
「なんつう剣だよこりゃ……さすが、王剣。……え?」
振り返ると、アドリアンも、リュリシアを抱えたまま凍りついていた。
まるでありえない何かを見るように。
「い、いやいやいや! 今のは仕方ないだろ、緊急事態だったし!」
俺の弁解に一切誰も答えない。
王剣抜いたのそんなにまずいのか……? 命より?……。
俺はだんだん背筋が寒くなり、急いで剣を拭いてリュリシアの持ってる鞘に剣を戻した。
「すまん……返す」
リシアンが俺の顔を見て一言。
「……馬鹿な」
(いや、抜いたのは悪いけど……)
普段詐欺師みたいに笑ってるリシアンでさえ、今は驚愕の表情から戻らない。
なんかやばそう……。
エレナが呆然と呟く。
「その剣は……王族にしか……」
「え?」
なんかもっとヤバそうなセリフがエレナから聞こえた……。
落ち着いて周りを見渡す。
「……え?」
膝をついている兵士、肩を貸されている貴族、逃げ遅れた客――
その場の全員が俺を見ていた。
……静かだった。
あれだけ響いていた怒号も悲鳴も、もうどこにもない。
焦げた匂いと血の鉄の味だけが、まだこの部屋に残っていた。
誰もが――俺を見ていた。
抜かれた王剣を、握っていたこの手を。
「……な、なんだよ、その目」
笑ってごまかそうとしたけど、喉が乾いて声が掠れる。
誰も返事をしない。
王もいない。衛兵も震えてる。
まるで、俺が――“何か”になっちまったみたいに。
エレナの声が、やっと割り込んだ。
「……その剣は、王族にしか抜けぬはずだ!」
「いや、だからそんな……たまたまだって!」
「偶然で抜けるものではない!」
彼女の声が、いつになく鋭かった。
まるで怒りじゃなく、“恐怖”を押し殺しているような響き。
俺は息を呑んだ。
「おい、待てよ……マジで?」
頭の中で厄介ごと知らせるサイレンが鳴り響く。
その時、アドリアンが動いた。
ゆっくりと歩み出て、俺とリュリシアのあいだに立つ。
周囲の緊張を一瞬にして断ち切るように、低い声で言った。
「……この場にいた全員、聞け!」
彼の目は、鋭くも冷静だった。
「今は誰が何を見たかなど詮索するな! すぐに負傷者を救え!」
兵士たちは一斉に背筋を伸ばす。
反論できる空気じゃなかった。
その言葉には、王命にも近い重みがあった。
「……おい、マジか」
俺が言いかけると、アドリアンはわずかに振り返り、
無表情のまま、低く呟いた。
「――今は、口を閉じろ」
その声音に、普段の優しそうな男の影はなく、妙な圧があった。
俺は言葉を飲み込む。
リュリシアを見る。
彼女は、何かを言いかけて――結局、言わなかった。
ただ、俺の手元をじっと見ていた。
鞘に収まった王剣。
その柄のあたりに、青い光が一瞬だけ、脈打つように走った。
ーーーーー
石壁の冷気が、背中に張りついていた。
夜が明けても、部屋の窓は開けられなかった。
いや、そもそも開ける許可がなかった。
「……軟禁、ってやつか」
苦笑いと一緒に、ため息が出た。
食事は出る、見張りもいる。
けど誰も話さない。
見張りの兵まで、俺を見ると妙に背筋を伸ばす始末だ。
(まるで……犯罪者だな)
昨夜のことを思い出す。
血と硝煙。王の死。
そして、あの剣。ヴァルセリクス。
――王族にしか抜けない剣。
頭では何度も否定しているのに、手のひらがまだ熱い気がした。
まるであの剣が、今も中で脈を打っているみたいに。
扉が軋む音。
鉄の靴音。
見張りの兵が、無表情で告げた。
「冒険者アーク。議場にお越し願います」
(ついに来たか……)
鎖はない。けど、見張りの数は四人。
案内されながら歩く廊下は、まるで別の城みたいに静まり返っていた。
昨夜の血の匂いは消え、代わりに重たい香が焚かれている。
それが余計に息苦しい。
大扉の前に立たされる。
兵士が告げた。
「開門」
重たい音を立てて扉が開いた瞬間、
一斉に視線が俺を刺した。
議場――。
中央に円卓、その周りをぐるりと囲む十数名の貴族と騎士たち。
奥の席にはアドリアン。
隣にリュリシア。
リシアンとエレナもいる。
けれど、誰も笑ってはいなかった。
議場に冷たい空気が流れていた。
誰もが口を閉ざし、俺の一挙手一投足を見逃すまいとしている。
アドリアンの声が響く。
「冒険者アーク――昨夜、王剣〈ヴァルセリクス〉は確かにお前の手で抜かれた。
それは事実だな?」
「……ああ、抜いた。だがあれは緊急時だ。魔族を斬るためで……!」
「緊急であれ、抜けたこと自体が問題なのだ」
アドリアンの声には怒気はなかった。
けれど、議場のほうはざわめき出す。
「ただの人間が……あの剣を?」「いや、そんなはずは……血筋の選定が……」
「まさか、王家に代わる者が――」
その喧騒を抑えるように、アドリアンが片手を上げた。
「静まれ。……ならば確かめよう」
ざわめきが止まる。
アドリアンは短く命じた。
「――剣を」
兵が布に包まれた長箱を運び込む。
蓋が外され、封印札に覆われた鞘が露わになる。
空気が重くなる。
「王家の血を引く者、前へ」
椅子の列から、一人の若い貴族が立ち上がる。
緊張で顔色を失っていたが、胸を張って歩み出た。
「レオン=アルトリウスの傍系、参ります」
アドリアンはうなずく。
「抜け」
レオンは深く息を吸い、膝をつき、柄に手をかけた。
一瞬、淡い光が走る。
だが次の瞬間――
ビリッ、と音を立てて彼の指先が弾かれた。
「……っ!」
火花が散り、手が焼けたように赤く腫れる。
議場がざわつく。
「拒絶……?」「なぜだ、王家の血だぞ!」
「やはり継承の儀を行わなければ!」
「しかし王剣は一度抜けてしまったのだぞ?!」
アドリアンは目を伏せ、重く息を吐いた。
その沈黙が、かえって全員の不安を煽る。
俺はたまらず口を開いた。
「なぁ……いい加減やめねぇか? 俺が抜けたのは偶然だろ。
たまたま触ったら抜けた、それだけだ!」
「偶然ではない」
エレナが静かに立ち上がった。
その声に、議場が再び静まる。
「あの剣は、女神アーリアの加護を受けた……“主の血”を受けた者にしか反応しない。
……王家の血を、確かに感じ取っていた」
(やめろよ……そんな言い方……)
俺は心の中で頭を抱えた。
“王族”なんて冗談にもならない。
「では、冒険者アーク……抜きたまえ」
そう言って今度は俺の前に剣が出される。
俺は腹の底からため息をついて、剣を握った……だが。
「はぁ……あれ?……ん?……抜けん」
何度引いても剣は抜けなかった。
「何をしている?」「抜けぬふりをしているのではないか?」
「ばかな! 既に何人も奴が剣を抜いたのを見ているのだぞ!」
周りがざわつき、俺に「いいから抜け!」と怒号を飛ばすやつまで出てきた。
「しょうがねぇだろ!マジで抜けねぇの!!」
場の緊張が頂点に達しかけたとき――
アドリアンがゆっくりと立ち上がった。
「……もうよい」
重い声だった。
彼は深くため息をつき、
壇上を降りてこちらへ歩み寄る。
「リュリシア」
名を呼ばれた少女が、はっと顔を上げる。
隣席にいたリシアンが小さく頷き、道をあけた。
リュリシアは、アドリアンのあとを追って円卓の中央へ出る。
「すまぬ――もう隠せぬ時だ」
アドリアンはそう呟き、全員を見回した。
「聞け。
この者、リュリシア・アルトリウスこそ、
かつて失われた初代アルトリウス王の“直系”に当たる者だ」
議場が爆ぜた。
「なっ……!」
「直系……!? そんなはずは――」
「伝承では途絶えたはずの血だぞ!」
「ならば、剣が抜けたのは……!」
アドリアンは手を上げ、声を強めた。
「静まれ! 事実だ。
我が家は長く“代理”として王家を支えてきたが、
真の血脈はこの少女に流れている。
それを隠してきたのは、混乱を避けるためだ」
「はぁ!? マジかよ……」
リュリシアは唇を噛みしめて俯く。
小さく震える肩が、議場の照明の下で光った。
アドリアンは続けた。
「ヴァルセリクスは自らの王の意思を汲み、“主を護る者”を認めた。
冒険者アーク――お前が剣を抜けたのは、リュリシアの血が呼応したからだ」
静寂。
言葉を失う人々の中で、俺だけがぽかんと立っていた。
「……おいおい、マジかよ」
口から漏れた言葉に、誰も返さない。
アドリアンはもう一度、議場を見渡した。
「この国には今、王がいない。
ゆえに我らは、真の血を守らねばならぬ。
彼女を――そして彼女を護る者を」
その言葉を最後に、議場は静まり返った。
そして、アドリアンがリュリシアを見ると、彼女は頷いてヴァルセリクスの柄を握りしめた。
青い光が窓から差し込み、
封印された剣の封蝋がかすかに脈を打った。
まるで――この瞬間を待っていたかのように。
リュリシアはゆっくりと一歩前へ出て、膝をつく。
両手で柄を抱えるように握り、静かに息を整えた。
「――ヴァルセリクス」
囁きが落ちる。
封蝋に刻まれた紋が、ふっと青白く明滅した。
次の瞬間、封が音もなく解け、空気が震える。
まるで心臓の鼓動みたいに、光が柄から刃へ脈打って――
シャラリ、と鈴のような金属音。
剣は、抵抗なく抜けた。
青い光が円卓の面を滑り、壁の紋章を撫で、天蓋を照らす。
刃身の古いルーンが一字ずつ目覚めるように輝き、
双翼の白竜と金の剣が、刃の中にゆらめいて見えた。
誰も、声を出せなかった。
リュリシアは立ち上がり、両手で剣を胸の前へ。
震えていない――その目だけが、強く澄んでいる。
アドリアンが静かに告げる。
「見た通りだ。これが真実。初代の直系は――在る」
ざわめきが爆ぜるより早く、彼は続けた。
「評議は宣言する。リュリシア・アルトリウスを暫定の“王位継承第一位”と認め、
同時にその“剣の守り手”として、冒険者アークを保護下に置く。
拘束は解く。以後は王家直轄護衛として任ずる」
「へぇ……王家直轄、ね……!」
(俺が王家の!?)
「待たれよ!」
試練派の列から、バルデス=カーンが立ち上がった。
「儀礼を省き、血統を口上のみで定めるつもりか!」
アドリアンは一歩だけ視線を動かした。
「口上ではない。“剣”が証だ。異議は剣に向けよ。――出来るならば、な」
バルデスは唇を噛み、椅子の肘をきしませて沈黙する。
その時、反対側の席からリシアンがゆっくり立ち上がった。
淡い金髪が光を受けて揺れる。
彼は静かに言った。
「是非もなし」
ざわめきが止まる。
「剣が王を認めたのなら、我ら慈悲派としても口を挟む余地はない。
――その加護が真であるならば、女神は見ておられる」
そう言ってリシアンは軽く頭を下げ、再び席に戻った。
アドリアンはわずかに頷き、場の空気が落ち着いていく。
慈悲派の老司祭が胸に手を当て、低く祈りを結んだ。
ざわめきは、ゆっくりと畏れに変わっていく。
俺は、ただその光を見ていた。
昨夜、掌に響いた鼓動と同じリズムが、いま刃の中で鳴っている気がした。
エレナが横に来て、小さく囁く。
「……これで、お前は“客”じゃない。逃げ場も、ない」
「知ってるよ」
苦笑いすると、包帯の下で頬が引きつった。
リュリシアがこちらを見た。
視線が合う。
彼女は剣を抱いたまま、短く――けれどはっきりと、
すこし、俺にだけわかるような不安を一瞬見せたあと、覚悟を決めたように頷いた。
(……やれやれ。舞踏会どころじゃないな)
アドリアンが最後に評議へ向き直る。
「本日の評議はここまでだ。王都の封鎖は維持、王殺害の捜査は直ちに継続する。
魔族を導いた者を――必ず洗い出す。異論は許さん!」
槌音が落ち、重い扉が開く。
光の中で、リュリシアの剣がもう一度だけ脈打った。
まるで――次の戦場を指し示すように。




