第62話:夜の中庭で
晩餐が終わったあと、侍女にひと言だけ伝えた。
「エレナ=シルヴァを中庭へ」
静かな空気が夜の石畳を満たしている。
風は冷たく、星は遠かった。
しばらくして、エレナが姿を現れる。
「…何のようだ?」
「……ああ。ここなら静かだと思ってな」
俺は小さく息をつき、正面に向き直る。
「感だ、この先色々まずくなる、だから――
ちゃんと知っておきたいんだ。何が起きていて、何を相手にしているのか。
でなければ、いざというとき……正しく動けない」
エレナの表情がわずかに引き締まる。
「俺の中じゃ情報が散らばってる。だから、まとめ直す。
あんたが知ってること、隠さずに教えてほしい」
「……わかった」
彼女はまっすぐに頷いた。
「まず、初代アルトリウス王が国を興し、そこから戦争があった。
これが慈悲と試練、この2つに内部が別れた原因…そしてその後、
今のこの国、アルシェルとして統一した均衡の王が生まれる。
こうして現在に至るまで王国には三つの勢力が内部で別れているのだ」
エレナは淡々と要点をまとめて続ける。
「“慈悲派”は聖堂と王妃陛下を中心に、祈りと民の平穏を重んじる。
“試練派”は軍部や一部の貴族を基盤とし、力と秩序を優先する。
そして――“均衡派”。
これはかつての時代のアルシェル王が立てた試練と慈悲の『均衡』を守る古い派閥」
「中立ってことか?」
「すこし意味合いが違うな。どちらにも偏らず、“均した上で、王が立つべき”という信念。
力だけでも、祈りだけでも、王国は続かない。
だからこそ……今の王都の偏りを、もっとも危うく見ているのが均衡派というわけだ」
「それで今回アドリア公とリュリシアがわざわざ呼ばれたってか…。
それで、今の王は病でやばいんだろ?、平和祈念舞踏会なんてやってる余裕あんのか?」
俺の言葉に、エレナの肩がほんの僅か動いた。
黙って、空を仰ぐように目を閉じる。
「だからこそ…あえてまつりごとを起こし、王の健在を示すのだ…」
その後エレナは珍しく、深いため息を吐いた…。
夜気が静まり返る。
星の光だけが、石畳に細い影を落としていた。
「…どうした?」
エレナは少し俯いたまま、動かなかった。
長い沈黙のあと、乾いた息がひとつ漏れた。
「……似てるんだ」
その声は小さかったが、確かに熱を帯びていた。
「かつて‥リュリシア様と私が経験したことが」
顔を上げた時、瞳の奥が赤く光ったように見えた。
光ではない。抑えていたものが、揺らぎ始めた。
「今のリュリシアの歳頃だった…。
私はアドリア様の屋敷で見習いをしてた…だが、
…ある日突然、身体がおかしくなった。
熱、震え、息が詰まって、頭の中に黒い靄が這いずり込む。
夢の中で何かに呑まれていくような……それは呪いだった」
唇を噛んで、息を吐く。
肩が震え、握った拳が爪で掌を切りそうなほどに強く握られていた。
「当時の呪いはまだ浅く、薬で抑えられる弱いものだった。
その薬をくださったのが、リュリシア様の母君だった。
私は助かった。――しかし、あの人も呪いに蝕まれていた」
エレナの声が一瞬途切れる。
強く噛んだ奥歯の音が聞こえた。
「誰も気づかなかった…私も…あの人自身も、自分が呪われたことに気づかなかった。
気づいた時には、もう遅かった…。
どうにもならないところまで、蝕まれていた」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
涙はない。だが、頬の筋肉が張り詰め、呼吸が荒い。
「私は、助かってしまった…。………あの人が死んで、私だけが生き残った。
それがどれだけおぞましいことか……。
どうして私じゃなかったんだって、それだけを何度も繰り返した」
俺はなんとか言葉を探したが…何も言えなかった。
その間に、エレナの言葉が重く落ちていく。
吐き出すたび、喉の奥で血のような音がした。
「呪いを使っていたのは、私の師だった」
エレナの目はそこにいない誰かを睨んでいる。
拳が震え、今にも剣を抜きそうだ。
「そいつは私に剣を教えた人間だ。誓いも、忠義も、正義も――全部、あいつから学んだ。
でもあいつは人じゃなかった…魔族だった」
その名を口にするように、目の奥が燃える。
表情は冷たいのに、内側から噴き上がるような怒気が滲んでいた。
「裏では、闇を撒いてた。
私が信じてた正義の言葉を使って、命を奪ってた。
あいつは…ただ力を求めて闇に魂を売った」
一歩、前に出た。
足音が乾いた音を立て、夜に吸い込まれる。
「だから斬った…。
信じた相手を、自分の手で。
あの瞬間の感触が、今でも手に残ってる…。
骨の奥まで焼き付いて、消えない…。
殺したのに…何も終わらなかった」
彼女の指が微かに震える。
その拳は剣の柄を求めるように、空を掴んでいた。
「あの時と同じにおいがする…。
今度はこの家に、同じ影が伸びてる……だから、私は誰かが奪われる前に…斬る。
魔族でも、王でも、誰でもだ…もう、二度と失わせない」
声が荒れたわけではない。
静かで、しかし燃えるような怒りが、言葉の奥から噴き出していた。
その瞳には涙はなく、ただ憎しみと罪が、ひとつに溶けて燃えていた。
俺は、これでわかった気がした。
あいつが“退かぬ刃”と呼ばれる理由が。
「その呪いについては、リュリシアは知っているのか?」
低く静かな問いかけに、エレナは目を伏せた。
吐く息が白く凍る。
「いや、リュリシア様には病で死んだことしか知らされていない」
その声音は固く、切り捨てるような響きだった。
痛みを押し殺すたびに、冷たさが増していく気がした。
「そうか、なら……いや…。やっぱお前…真面目すぎだな」
俺の苦笑交じりの言葉に、彼女の眉がぴくりと動く。
「なんだと?」
言い返すエレナの目が、わずかに怒りを滲ませた。
「なぁエレナ…今のが“お前の全部”なんだろ?
今度は全部聞いたから容赦なく言わせてもらうぞ…」
俺は一歩、彼女の方に近づいた。
そのまま勢いよく叫ぶ。
「…このバーカ!」
「なんだと!?」
返す言葉よりも早く、エレナの肩が跳ねた。
「だまってきけ!
…お前がリュリシアをどれだけ大事に思ってるのか、俺は知ってる。
バカメイドもアドリアのおっさんも!お前のことを“家族”だと思ってんだよ!」
俺の言葉に、エレナは珍しく動揺を見せた。
ぐっと唇を噛み、視線が揺れる。
「前に言ったろ? リュリシアはお前と仲良くしたいって言ってたんだよ!
たしかに、過去のことは変えらんねぇよ…。
俺がどう言ったって、お前も変わらねぇだろうが、
リュリシアは――あの子は、お前ともっと話したがってるんだよ!
見当違いな罪悪感なんか抱えてねぇで、さっさと騎士だとかそんなの抜きで仲良くしろ!!」
エレナの両拳が震えていた。
だがそれでも、目だけは逸らさなかった。
「だまれ……お前には分からん」
その声は、剣のように細く鋭かった。
「あぁ、わかんねぇ!、でもな!
そんなクソみてぇなやつのせいで自分が不幸になって、
そのせいで、そいつみてぇにリュリシアまで今も不幸にしてるってことにいい加減気づけこの−」
言い切る前に――
エレナが、燃えるように怒鳴った。
「私がリュリシア様を?不幸に…だと? 貴様ぁあああ!」
その瞬間にはもう、彼女は間合いを詰めていた。
一歩、二歩。地を裂くような足音。
そして――拳が振り上げられる。
俺は身を引かなかった。
抵抗も、反論も、しなかった。
「そんなのっ…もわからねえッ…からッ、バカッだ!つってんだよ!」
エレナのやつは拳を叩きつけ、俺は叫ぶのをやめない。
「だまれ! だまれだまれ!
私はあの方が死んでから誓ったのだ!!
たとえ、どんなことがあろうとも!
たとえ……たとえ私が!、リュリシア様にどう思われようとも!……お守りすると!!」
その拳がもう一度振り上げられた瞬間――
俺は、自分からその拳に額をぶつけて止めた。
ズゥウウガァンッ!
鈍い音が響く。
沈黙。
痛みと共に、言葉が溢れる。
「だったら!!
お前があいつを――笑わせてやらなきゃだめだろうが!!
……ポッと出の俺じゃねぇ、あいつの“姉ちゃん”みたいに、ずっと一緒にいたお前が……!」
その声には怒りもあるが、それ以上に必死さが滲んでいた。
エレナの奥にいる、もうひとりの彼女――
後悔と、罪と、守れなかった記憶に縛られたままの少女に、
…届いてくれと願うように。
「はぁはぁッ…貴様などに」
ドサッ
俺は今の一撃で視界をなくし後ろに倒れる、でもまだ言わなきゃ…伝えなきゃならねぇことがある…。
「前にも…殴りやがったろ…」
限界スレスレ、さっきから重力が歪む感じがす。
それでも俺はなんとか声を振り絞る
「はぁはぁ?…だからなん−」
「リュリシアが言ってたんだ…、お前は怒ってたんじゃなくて....泣いてたって…」
もう返答する余裕もねぇから…俺は勝手に続けた。
「…リュリシア…様が?」
「あいつ…ガキのくせに全部わかってんだよ....まだそこら辺走ってそうなガキなのに、
…分かってんだよ お前が辛そうなのも」
「....」
「だから…さ」
俺は殴られすぎてここで意識をなくした。
ーーーーーーーーーーーーー
視界の端で、星の光が滲んだ気がした。
冷たい金属の感触――鎧の腕だ。
そして、震える声。
「ッ…?、へへ」
「……なぜ、お前は……そんな顔で笑う……」
エレナの指が、胸元をぎゅっと掴んだ。
一瞬力がこもって、抜ける。彼女は言葉を飲み込み、ただ息を吐く。
「……不器用な女の、ためさ…」
重い左手を上げて、こぼれた涙を拭い、その頬をそっと撫でた。
俺の視界はゆっくり闇に溶けていく。
その奥で最後に聞いたのは小馬鹿にするようなエレナ声だった。
ーーーーーーー
朝。
リシアンの屋敷に、鳥の声と焼きたてのパンの匂いが満ちていた。
長い晩餐の翌日、食堂の卓にはリシアン、アドリア、リュリシア、セラ、
そして静かに控えるエレナの姿があった。
談笑の声が少しずつ戻りかけていたそのとき――
「……おはようございまぁ〜す」
扉の向こうから、妙に間延びした声が響いた。
全員の手が止まる。
ゆっくりと視線がそちらを向いた。
そこに立っていたアークは――
顔が腫れ上がり、
目がほとんど閉じかけ、唇は妙な形に曲がっていた。
まるで大きな梅干しが頭についているような状態だった。
沈黙。
リュリシアがスプーンを落とす音がやけに大きく響く。
「ア、アーク? その顔……どうしたの?」
「……ちょっと、中庭で星を見てたら、落ちてきてな」
「ほ、星?」
「……ああ、全力で」
セラがぷっと吹き出しかけ、
アドリアが口元を覆って咳払いをした。
リシアンは苦笑いをしながら席を勧めてくれた。
「だ....大丈夫かい?…スープが冷める前に食べなさい」
アークは「はい」と言いながら席につくが、
顔が潰れてどこに何があるか把握しきれない。
手探りでスプーンを探していると…。
卓の端、エレナは背筋を伸ばして座り、
銀のナイフを静かに置いていたけれど、その肩が、かすかに震えていた。
ほんの一瞬。
唇の端が、わずかに緩んだ。
「……ふっ」
誰にも聞こえない声で笑う。
腫れ上がった頬が痛んだが――
なぜか、それも悪くなかった。




