第58話:裏の顔
その日の午後――アークの姿が屋敷から消えた、という報告が入った。
「アーク様なら、午前中に街へ出られましたよ」
メイドの言葉に、リュリシアの心臓が跳ねた。
「街へ……? 一人で?」
「はい。『準備に必要な物がある』と仰って――」
それを聞いた瞬間、リュリシアは振り向いて廊下を駆け出した。
向かう先は、訓練場。
剣を振るっていたエレナが驚いた顔で振り返る。
「リュリシア様!? どうされました!」
息を整えもせず、リュリシアは両手を握りしめた。
「エレナ……お願い、少しだけでいいの。街へ出たいの。」
「……外出、ですか? 出立前のこの時期に?」
「どうしても、確かめたいことがあるの!」
瞳が真っすぐにエレナを射抜く。
その必死な様子に、エレナはわずかに息を呑んだ。
(……また、あの時の顔だ。
危険を知っていて、それでも踏み出そうとする時の顔)
しばしの沈黙のあと、エレナは剣を下ろした。
「……分かりました。護衛として同行します。」
リュリシアの顔に安堵が浮かぶ。
「ありがとう、エレナ。」
二人は外套を羽織り、屋敷を出た。
春の風が門の前を抜け、白い花びらが舞う。
「……アークが向かったのは市街の西区、市場通りの方角とのこと」
「じゃあ――行きましょう。」
馬車の準備も待たず、二人は石畳を駆け抜けた。
行き交う商人や子どもたちの声が、どこか遠くに聞こえる。
リュリシアの胸には、ひとつの思いだけが渦巻いていた。
(あなたが――あの人なら。
どうして、何も言わないの……?)
――――――――――――――――――――
風の音が、街のざわめきに溶けて消えていった。
リュリシアとエレナは、市場通りの外れで足を止めた。
人の波の向こうに、見覚えのある背中が見える。
黒髪をかき上げながら、露店の影を歩く――アーク。
「……いた。」
リュリシアの声はほとんど息になっていた。
エレナが小声で問う。
「どうされます? 声をかけますか?」
「いえ……もう少しだけ、見ていたいの。」
二人は屋台の陰に身を隠す。
人混みの中、アークはゆったりとした足取りで通りを抜けていく。
野菜の香り、鉄器の音、子どもたちの笑い声――
すべてが、まるで別の世界のように遠かった。
その時だった。
アークが足を止める。
視線の先――一軒の古びた酒場。
木製の扉に古い看板、“アムネリア亭”と刻まれている。
(……酒場? こんな昼間から?)
リュリシアが首を傾げた瞬間、
扉が勢いよく開いた。
「コォ~~ルさまぁああああ!!!」
耳をつんざくような声。
銀の毛並みをした獣人の少女が、全速力でアークに飛びついた。
その衝撃で、アークは思わず数歩後ろへよろめく。
「な!――おま!、ちょっ!? やめろ!! 酒くせぇ!!」
「ひどいですぅ~っ! 帰ってきてたなら言ってくださいよぉ!」
リュリシアの思考が一瞬止まった。
(コ、コール……? 今、“コール様”って……?)
その隙に、酒場の中からもう一人、黄色い毛並みの獣人少女が飛び出す。
「うぅ、コールぅうう! 早く帰ってきてくれよおお!
シアのやつお前がいないと飲んだくれるわ! 酒癖悪いわ! 助けてくれえええ〜!」
今度は横から抱きつかれ、アークは完全に身動きを封じられた。
「おまえら!?……まじでやめろ!! 離せ!!」
周囲の視線が集まり、酒場の前は一瞬で騒然とする。
アークは顔を真っ赤にしながら、両腕で二人を抱え、
そのまま慌てて路地裏へと消えていった。
リュリシアは呆然と立ち尽くした。
手が震える。喉の奥が、何かを飲み込んだまま動かない。
(……コール……? 今、そう呼ばれてた……)
エレナが小さく息を吐いた。
「……まさか、この街に知り合いがいたとは」
リュリシアが目を向けると、エレナは淡々と続ける。
「見覚えがあります。あの二人、以前大会に出ていた獣人です――それと私が“彼”をスカウトした頃、一緒にいた仲間のようですね」
「な、仲間……? じゃあ、あの人たちは……」
「ええ。おそらく昔の“旅の仲間”でしょう。
冒険者なら、偽名で活動することも珍しくありません。
“アーク”も、“コール”も……どちらが本名かは分かりませんが。」
リュリシアは息を呑んだ。
目の奥が熱くなる。
路地の奥へ消えていく黒い外套の背が、遠ざかっていく。
(あなた……やっぱり―)
風が吹き、白い花びらが市場を横切る。
その中で、リュリシアは静かに呟いた。
(――“空の男”、コール。)
――――――――――――――――――――
昼下がりの路地裏。
俺はようやく二人を引き剥がして、ため息をついた。
「……お前らなぁ。通りでそんな騒ぐんじゃねぇ。目立つだろうが」
シアが静かに笑う。
その瞳はまるで湯気の立たない茶のように落ち着いている。
「申し訳ございません。……ですが、あまりにお久しぶりで。
無事なお顔を拝見できただけで――」
「おいおい、まだ三日とか四日しか経ってねぇぞ?」
「そんなに離れていれば十分です、うぅ……コール様ァァァ……!」
「だから泣くなっつの。……てか禁酒だ。まさか、ずっと飲んでたわけじゃねぇよな?」
俺は隣のリュカを見る。
猫の耳がぴくりと動いた。目の下にはくまができていて、本人はへへ、と乾いた笑いを漏らす。
「あんまりシアが落ち込むもんだから、気分転換に誘ったんだよ。
……そしたら今日までこれだ。はは…」
「仕方ないんです…それにリュカ!、あなたまで付き合う必要はなかったでしょう」
「あのなぁ、放っとけって言ったって、放っとけるか」
リュカはふてくされたように腕を組んだ。
「“あの人はもう戻らない”とか言いながら、毎晩コップの縁撫で回しながら酒飲みまくってるんだ……こっちだって、飲まずにやってらんねぇわ!」
「やめろ、やめろ。恥ずかしい話をするな」
俺が頭をかきながら言うと、シアは目を伏せて小さく微笑んだ。
「――あなたの帰りを信じていました。
たとえ三日でも、三年でも、私は変わりませんから」
「は、はは、……そいつはどうも。それより今俺が護衛やってるのは知ってるな?」
「あぁ、公爵のなんたらの護衛だろ?」
「なんたらってなぁ…。まぁいい、とにかくそれが少しきな臭くなる、
…これから俺は王都に行く」
俺の言葉にシアは食らいつく勢いで前に出る。
「王都にですか!?、是非私もいかせてください!」
俺はその額を押し付けてなだめる。
「落ち着け、残念だが依頼人は少数がいいらしくてな…」
「そんなぁ…」
「だが正直俺も不安だ、そろそろ船も動かさねぇと」
「え、それって……まさか」
リュカの耳がぴくりと動く。
俺は人差し指を口に当てて、周囲をちらりと見た。
「自由時間はここまでだ」
シアが息を呑んだ。
「……ってことは?」
「ああ、船を出す」
俺は短く答える。
風のない路地に、その言葉だけが低く響いた。
リュカが腕を組んだまま、眉をひそめる。
「……また面倒なことに首突っ込むんだな。
ま、あんたが止まるわけねぇけど」
「止まれたら苦労しねぇさ」
俺は肩をすくめ、軽く笑ってみせた。
「とにかく、出発はすぐだ。
リュカ、お前はシアを頼むぞ。
……それと、必要な物資をできるだけ集めておけ。
“もしもの時”は、全員かっぱらって逃げる」
「了解」
リュカは短く答える。
「ったく……うちの船長は厄介事に首突っ込みすぎだよなぁ」
「言ってろ言ってろ」
シアはそんなやりとりを見つめながら、
静かに両手を胸の前で組んだ。
「――ならば、せめて祈らせてください」
「……やめろ!、縁起でもねぇ!」
俺は軽く頭を掻き、背を向ける。
「ま、王都に着いたら、またそん時に」
シアは深く頭を下げ、リュカはそっぽを向いたまま手を上げる。
俺はそのまま路地を抜け、陽の射す方へ歩き出す。
背後で、シアの声が風に混じって聞こえた。
「……どうか、ご無事で――コール様」
――――――――――――――――――――
少し離れた屋根の陰。
リュリシアとエレナは、息を潜めてそのやり取りを見ていた。
風が通り抜け、薄暗い路地の匂いが鼻をかすめる。
アーク――いや、彼は確かに“コール”と呼ばれていた。
「……聞き間違いではありませんね」
エレナの低い声。騎士らしい冷静さの奥に、わずかな警戒が混じっている。
リュリシアは答えなかった。
ただ視線を、陽の中へと消えていく黒い外套の背に向け続ける。
(――あの人は、やっぱり……)
エレナが小さく息をつく。
「どうなさいますか、リュリシア様」
「……今は、まだ。行かせましょう」
静かに言い残し、リュリシアはフードをかぶった。
白い花びらがひとひら、指先に触れて舞い落ちる。
(あの空の船…再び動くというのなら、
その行く先に−−)
彼女の横顔に、夕陽が淡く射していた。




