第55話:それぞれの夜
手当てを終え、まだ火照りの残る頬を軽く押さえながら執務室の前に立つ。
扉の向こうから、柔らかな灯の筋が洩れていた。
深呼吸をして、ノックを三つ。
「入りなさい。」
穏やかな声。
それだけで、少し肩の力が抜けた。
扉を開けると、アドリアン――リュリシアの父が、机の前に座っていた。
黒衣の胸元をゆるめ、手には香草茶のカップ。
その姿には威厳よりも、どこか“父親の顔”があった。
「……頬の方は、大丈夫かい?。」
「まぁ……見た目ほどじゃないです。ちょっとした洗礼でしたね」
「ふっ……あの拳を“ちょっと”で済ませるあたり、さすがといったところか。」
アドリアンが目を細めて笑う。
怒気はない。けれど、静かな重みが部屋に満ちていた。
「座りなさい。……少し話をしよう。」
「はい」
椅子に腰を下ろすと、アドリアンがもう一つのカップを差し出してくる。
湯気とともに、草の香りがふわりと漂った。
「飲みなさい。冷める前に。」
「ありがとうございます」
香草茶を一口。苦みと温かさが喉に落ちて、張っていた神経が少し緩む。
アドリアンはしばらく黙ったまま、窓の外の夜空を見ていた。
そして、穏やかに口を開く。
「……リュリシアから聞いたよ。
屋根を飛び、街を駆け、屋台でパンを食べたそうだな。」
「あはは……まぁ、ちょっとした観光を」
「“ちょっと”で済む騒ぎではなかったようだがな。」
その声に笑いが混じる。怒ってはいない。
ただ、少し呆れた父親の声だ。
「でもな、アーク君。あの子が笑って帰ってきた。
それだけで、私は十分に報われたよ。」
「……はい?」
「長いこと、あんな顔を見ていなかった。
あの子が“普通の娘”のように笑っていた――それは、君のおかげだ。」
アドリアンはゆっくりとカップを置き、両手を組む。
その指の隙間から漏れる灯が、どこか温かく見えた。
「父として、礼を言う。ありがとう、アーク。」
「……俺はただ、息抜きをしただけですよ」
「それができる者は少ない。あの子の立場では、皆が“王族”として接する。
けれど君は“リュリシア”として見てくれた。それが嬉しかったのだろう。」
その言葉に、少し胸が熱くなる。
アドリアンは視線を落とし、静かに続けた。
「ただ……次は、もう少し大人しく頼む。
エレナが血相を変えて戻ってきた時は、さすがに心臓が止まるかと思ったよ。」
「あぁ……すみません。でも、多分またやるかもしれません」
「それはやめてくれ……とも言い切れないところだ。せめて…私に一言たのむ…。」
「……はい」
「……わかってくれればいい。エレナは怒っていたが、同時に君を気にかけてもいた。
彼女もまた、あの子の母を失って以来――ずっと苦しんでいる。」
一瞬、部屋の空気がわずかに重くなる。
アドリアンの瞳の奥に、深い悲しみがちらりと見えた。
「……あの夜のことは、私も決して忘れない。
だが、もう誰も過去の罪で縛られてはいけない。
リュリシアも、エレナも、そして君もだ」
俺にはそれが何を指し示すのかはわからない、でも言葉が胸に刺さる感じがした。
父としての声は優しいが、その優しさがいちばん痛みを感じさせる。
「……アーク。」
「はい」
「君は娘を笑わせた。――それは、私にとってかけがえのないことだ。
だから、今日は叱らん。心から、ありがとう。」
その一言に、思わず背筋が伸びる。
アドリアンは立ち上がり、机越しに俺の肩へそっと手を置いた。
「もう行きなさい。あの子はまだ起きている。
君の顔を見なければ、安心して眠れんだろう。」
「……はい」
扉へ向かおうとしたとき、背中に穏やかな声が届いた。
「アーク。」
「……はい?」
「リュリシアを――頼む。」
短く、それだけだった。
でも、その声音は静かな命令ではなく、父としての“願い”に聞こえた。
俺は少しだけその場で考えて、ようやく言葉が決まる。
息を吸い込み、振り返らずに答えた。
「……次に旅立つ時までは、確かに」
アドリアンはその言葉に目を細め、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔に、王ではなく“父親”の姿が確かに見えた。
ーーーーーーーー
廊下には、夜の香が漂っていた。
灯りは落とされ、月明かりが石壁にやわらかく反射している。
静寂の中で、風がカーテンを揺らす音だけがかすかに響く。
リュリシアの部屋の前まで来たとき、
扉の隙間から小さな光が洩れているのが見えた。
……やっぱり、まだ起きてるな。
軽くノックを二つ。
「リュリシア、入っていいか?」
少しの間があって、柔らかな声が返ってくる。
「……どうぞ。」
扉を開けると、
窓辺に腰かけたリュリシアがいた。
膝の上に毛布をかけたまま、月を見上げていた。
長い金の髪が、夜風にそっと揺れている。
振り向いた彼女の瞳が、月明かりを受けてかすかに光った。
「……遅かったじゃない」
「悪い、説教ってほどでもなかったけど、ちょっと話しててな」
「ふふっ……お父様、怒ってなかったでしょ?」
「バレてたか。」
「だって、顔を見ればわかるもの。……優しいもの」
そう言って微笑んだ。
その笑みは、塔の上で見せたときより少しだけ大人びて見えた。
俺は部屋の中に入って、軽く頭をかいた。
「なぁ……その、昼間のこと。楽しかったか?」
「うん。すごく楽しかった!」
「そうか」
「……でもね」
彼女は視線を落とし、指先で毛布をつまんだ。
「帰ってきたら、エレナが泣いてたの。怒ってる顔だったけど……あれ、きっと泣いてた」
言葉を探したが、何も出てこなかった。
リュリシアは少し笑って、続けた。
「エレナって、不器用だから。
本当は怒ってるんじゃなくて……怖かったんだと思う。
私がもう帰ってこないんじゃないかって」
「……あぁ」
「お母様のこと、ずっと自分を責めてるの。
だから私までいなくなったら、あの人、壊れちゃうかもしれない」
その声は静かで、けれど確かな優しさに満ちていた。
俺はただ、黙ってその横顔を見ていた。
あんな高い塔の上で笑っていた少女と同じ人間とは思えないほど、
今の彼女は――強かった。
「……あのね」
リュリシアがこちらを向いた。
「ん?」
「ありがとう」
「…あぁ、俺もな」
「今日、連れ出してくれて。
お父様がね、“娘を笑わせてくれてありがとう”って言ってたでしょう?」
「ったく、なんで知ってんだよ」
「ふふ、なんとなく分かるの。お父様も隠すの苦手だから」
「…ガキのくせに末恐ろしいぜ」
「もう〜!子供扱いしないでよね」
そう言って、少しむくれながらもリュリシアは笑っていた。
「久しぶりに……“生きてる”って思えたの。
お嬢様でも、王族でもなくて、ただの“私”として笑えた」
言葉が出なかった。
俺はただ、そっと片膝をついて、彼女の目線と同じ高さに合わせた。
「――だったら、それでいい」
「え?」
「今日が“リュリシア”でいられる日だったなら、それでいい。
……それが、俺がしたかったことだ」
リュリシアの目が一瞬だけ揺れて、
それから、静かに笑った。
「ねぇ、アーク」
「ん?」
「あなたが旅に出たら、私……きっと寂しいと思う」
「そりゃ…まぁ…俺もそうなるだろうな」
「でもね、待ってる。ちゃんと帰ってきて。
そのときまた――塔の上で、パンを食べましょう」
「……約束だな」
「ええ、約束」
手を伸ばすと、彼女は小さく手を重ねてきた。
その手はまだ少し震えていたけれど、
その温もりは確かに――命の証みたいに、あたたかかった。
「……おやすみ、リュリシア」
「おやすみなさい、アーク」
扉を閉めると、月明かりが背中に伸びていた。
廊下の静けさの中で、胸の奥に小さな痛みと、
それ以上の“優しさ”が残っていた。
ーーーー裏の広場
ちょうどアイリスが通りかかったのでエレナの場所を聞くと、
ここだろと言われたのできてみたが、ホントにいた。
毎日必ずこの時間も彼女は剣を振るっているのだとか。
月光が冷たく肩を撫でる中で、エレナはひとり剣を振り続けている。刃が切るたびに、夜気が鋭く震えた
しばらく黙って見ていたが、やがてため息を吐いて、俺はゆっくりと腰を降ろした。
ぶつけるような説教めいた言葉は出さない。
代わりに、肩越しに短くつぶやく。
「……あんた、随分と無茶してるな」
エレナの一撃が止まる。刃先が月光を掬い、彼女は一瞬だけこちらを見た。その瞳に怒りだけじゃない何かがあるのを、俺は知っている。
「……見物か?」
声は低く、問いにもなっていない。
「いや。風に当たりに来たんだ。」
俺の返事はあっさりしていた。座ったまま、手のひらで冷えた石を擦るようにして続ける。
「俺も…誰かを失う痛さは知ってる…。だが、あんたが今抱えてる罪悪感ってのは…正直俺にはわからねぇ――それでもさ」
言葉を切って、俺は彼女の横顔を見た。剣の振り方に滲む必死さ、呼吸の粗さ。全部、見えてる。
「リュリシアはな、あんたと仲良くしたがってたぜ? そいつは“資格”とか“償い”とか、そんなもんの有無で決まるもんじゃねえんだ。
好きだって思うか、そばにいたいって思うか、ただそれだけだ」
言い切ると、少しだけ声のトーンを落とした。説教ぶるつもりはない。真っ直ぐな、苛立ち混じりの言葉だ。
見当違いなものを背負ってる彼女への、そのままの言葉…。
「分かってんのに、分かってねえふりすんのはやめろ....。」
エレナの剣が、ゆっくりと下がる。肩の震えが止まらない。しばらく沈黙が続き、月と風だけが答えを返す。
やがて、彼女は小さく笑ったように見えた――笑いなのか、嗤いなのか判別がつかない。唇が震えて、短く言う。
「貴様はズケズケと…」
エレナの目は最初苛立ちを帯びていたが、お互いの目の底が交わり続けるとその熱は覚めていった…。
「おまえは、ずるい奴だな…」
「ずるくねぇよ。ただ、面倒なことは面倒って言うだけだ」
俺は肩を竦め、立ち上がった。足元に落ちた剣の影が長く伸びる。
「頼むぜ。“ちゃんと”あんたが側にいてやらないと、あの子はまた女の子になれねぇだろ」
その言葉に、エレナの視線がわずかに逸れる。
「……わかっている」
声はかすかだったが、確かに返った。
俺はもう一度だけ夜空を見上げる。塔のほうを思い出し、胸の奥にあった柔らかい余韻を確かめるようにする。
「じゃあ、帰るわ」
そう告げて、俺は歩き出した。
「まて!」
「ん?」
振り返ると、月明かりの下でエレナが立っていた。
剣を握る手が震え、吐く息が白く滲む。
「……殴り飛ばして……すまなかった。」
「ん〜……キスしたら許す」
「……は?」
一瞬、風が止まった。
月光が二人の間を照らし、銀の刃が淡く光る。
エレナの眉がわずかに動き、頬が月に染まるように赤くなった。
「冗談だよ。おやすみ」
肩をすくめて立ち上がり、背を向ける。
夜風が頬を撫で、草の音が静かに響いた。
背後で、剣が鞘に戻る音。
その音と一緒に、エレナの小さな息が夜に溶けた。
「……ほんと、不思議な男だ」
その声は怒りでも呆れでもなく――
月明かりのように、どこか柔らかかった。




