第54話:塔の上の夕風
塔の上に吹く風は、昼よりも少し柔らかかった。
街全体が茜色に染まり、遠くの屋根が金に光っている。
その下ではまだ人々の笑い声が届いていた。
「……ふぅ、やっと落ち着いたな」
腰を下ろし、さっき買ったパンの残りを取り出す。
焼きたての甘い匂いが夕風に溶けていく。
「まだ温かいわ」
リュリシアが微笑んで隣に座る。二人でパンをちぎって口に運んだ。
少し冷めていたが、それでも少し甘かった。
「今日は、今までで一番楽しかった!」
ぽつりとリュリシアが言う。視線は街の向こう、沈みかけた陽を追っている。
「へぇ、そりゃ光栄だな。……でも、エレナたちとは楽しくねぇのか?」
と尋ねると、リュリシアはほんの少し俯いた。
「ううん、そんなことないの。みんな私のことを気にかけてくれてるし、優しい。
でも……“お嬢様”だから。いつも誰かの上にいなくちゃいけないから、
本当の私を知ってる人は少ない気がするの」
黙ってパンを半分に裂き、彼女に差し出す。リュリシアは受け取って小さくかじる。
夕風に揺れる金の髪が、陽の残りをすくっていた。
「エレナも、大事にはしてくれてるの。
でも、どこか……避けられてるから」
彼女の声が少し震える。
「実はね…私が生まれてすぐに、母上は亡くなったの。
その時以来…エレナは自分を責めているみたいなの…
自分が私の母上を殺しちゃったって思い込んでるのよ、そんなことないはずなのに…」
言葉が胸に沈む。
俺は返す言葉を探しながら、リュリシアの肩越しに茜空を見た。
「「そ…」」
二人の言葉が重なりリュリシアに譲る、彼女は少し笑ってそのまま夕日を眺めながら続けた。
「でも、それでもエレナは私を守ってくれる。自分を責めながらも離れられない。
不器用なのよ、あの人」
リュリシアは小さく笑って、パンの欠片を指先から放った。鳥がそれを追うように舞う。
風が二人の髪を撫で、夕陽の色が柔らかく落ちた。
「ねぇ、アーク」
「ん?」
「あなたみたいに、何も隠さず笑える人に、久しぶりに会った気がする」
「それは……俺が鈍感なだけだからな」
「ふふっ、それでもいいわ。今日は、本当にありがと」
沈む陽が彼女の横顔を淡く染める。
笑顔は風に溶け、世界が一瞬だけ静かになった。
塔の上の時間は短い休息だが、確かな温かさを心に残していった。
ーーーーー同刻・城下の路地
鎧の隙間に汗が冷え、呼吸だけが大きく胸を打つ。
「……結局、また逃がした」
小さく息を吐き、空を見上げた。
塔の上には、二つの人影が見える気がした。
安堵のような、痛みのようなものが胸を締めつける。
――あの夜から、ずっとこうだ。
病で苦しんでいた自分に、薬を使ったのはあの人の母。
自分が助かった代わりに、あの人が死んだ。
それを知った瞬間、エレナの世界は変わった。
「……私が、奪ったんだ」
握る拳が震える。
あの日の温もりも、リュリシアの母の最期の笑顔も焼きついて離れない。
だから彼女は、リュリシアに好かれる資格などないと信じている。
その想いを返すことは、自分にはできない、許されてはいけない。
守ることしかできない――それが、唯一残された贖い。
それでも、リュリシアの笑顔を見るたび、胸の奥で何かが揺れる。
触れたいと思ってはいけない人に、心が動いてしまう。
だからせめて、私は…。
「……二度と、奪わせはしない」
誓いの言葉が、夕闇に溶けていく。
鐘の音がゆっくりと重なり、彼女の決意を包んだ。
ーーーーーーーーー屋敷
屋敷の門が見えたころには、空はすっかり群青に沈んでいた。
石畳を踏む靴音が、夜の静けさを割る。
門の前――灯籠の明かりの中で、腕を組んだ影がひとつ。
エレナだった。
月光を背にして立つその姿は、怒りというより、何かを押し殺してるように見えた。
顔が見えなくてもわかる。これは、マジでヤバい。
「……ただいま。夜までには、って約束は守っただろ」
軽く手を上げてみせた。
だがその笑いが終わる前に――空気が、音ごと裂けた。
――ドンッ!
「ッ!?」
視界がぐるりと回って、地面に叩きつけられた。
頬が焼ける。耳の奥でキン、と鳴り響く。
夜空と石畳の区別が一瞬つかなくなるくらいの衝撃だった。
「アーク!!!」
リュリシアの悲鳴が響く。
その声でようやく、意識が戻る。
顔を上げると、エレナが歩み寄ってきていた。
鎧が鳴り、肩が震えてる。怒鳴り声よりも、その震えのほうが怖かった。
「貴様ァ……!! 何を考えているッ!!!」
「いや、えっと……観光?」
「黙れ!!」
再び拳が上がった。
一瞬、本能的に身構えたけど、その腕が途中で止まる。
「やめてっ!!!」
リュリシアの声が割り込んだ。
次の瞬間、彼女が俺の前に飛び出してきた。
腕を広げて、全身で庇うように立ちはだかる。
涙が頬を伝って、月明かりを反射していた。
「アークは悪くないの!! 私がお願いしたの! 私が行きたかったの!!」
「リュリシア様、下がってください!」
「いやよ!! もう誰も傷つけないで!!」
俺も立ち上がろうとしたけど、脚がまだ少し痺れていた。
エレナの拳は宙で止まり、腕が震えたまま動かない。
何かを抑え込んでるような顔だった。
沈黙。
風が三人の間をすり抜ける。
「……また、守れなかったら……」
エレナの声がかすかに震えた。
涙を堪えるような声だった。
リュリシアが顔を上げる。
「エレナ……?」
その名が出た瞬間、エレナの表情がわずかに歪む。
そして拳を握り直して、背を向けた。
「……無事で何よりです、リュリシア様。
そして、貴様には――後ほど正式な処分が下る。」
「処分、ねぇ……」
唇の端をぬぐって立ち上がる。
頬が熱い。血の味がする。
それでも笑ってしまう。
「……手加減でこれかよ。さすが“教官”だな」
「ふざけるな!」
「ふざけてねぇって……いってぇ〜……」
リュリシアが泣きながら胸に顔を埋めてくる。
小刻みに震えて、言葉にならない声を漏らした。
「ごめんなさい……私のせいで……」
「謝るな。お前が笑って帰ってこれたなら、それでいいんだよ」
背中を軽く叩いてやると、彼女は小さく頷いた。
……正直、痛みなんかどうでもよかった。
無事に笑ってる、それだけで十分だった。
遠くで鐘が鳴る。
その音を背に、エレナがゆっくり歩き去っていく。
背中はまっすぐだけど、握る拳が血を滲ませているのが見えた。
(……怒ってるだけじゃねぇな。ありゃ、自分を許せねぇんだ…)
月光に照らされたその背中を見送りながら、そんなことを思う。
そのとき、屋敷の奥から重い足音が響いた。
空気が一瞬で冷える。
聞き慣れた、威圧のある声。
「……騒がしいな」
アドリアンだ。
家衣のまま門前に姿を現し、俺をまっすぐに見下ろす。
冷たい眼光。まるで、罪人でも見るような目だ。
「アーク――あとで執務室へ来なさい」
「……あぁ、やっぱそうなるよな」
血の味を拭って立ち上がる。
リュリシアが袖を掴んできた。
「だ、大丈夫なの……?」
「大丈夫。怒鳴られるくらいなら慣れてる」
「でも……」
「泣くな。せっかくの楽しい一日が、台無しだろ」
リュリシアは唇を噛んで頷いた。
アドリアンの後ろ姿を追いながら、俺は深呼吸をひとつ。
背後でリュリシアが立ち尽くしている気配と、
闇の奥でエレナがまだ拳を握っている気配を、同時に感じていた。
それぞれの痛みを抱え、屋敷の中にはいていった。




