第51話:砕けた約束の欠片
朝霧がまだ薄く残るころ、廊下の向こうから軽やかな足音が近づいてきた。
昨日と同じ控えめなノック――けれど、声はまるで別人のように明るい。
「アーク様、朝食のご用意ができました!」
……え?
扉を開けると、そこに立っていたのは“アイリス”だった。
だが昨日の彼女とはまるで雰囲気が違う。
青い髪を同じように整えているが、表情には柔らかい笑み。
群青の瞳も、冷たさより光を帯びている。
「……おはようございます。よくお休みになれました?」
「お、おう……えっと、昨日より機嫌がいいな?」
「昨日?」
首をかしげる仕草も、どこか人懐っこい。
「あぁ、気のせいですわ! わたくし、朝は得意なんです。
朝日を見ると元気が出ちゃって!」
(……いや、絶対昨日と違う)
心の中で突っ込みを入れる間もなく、
彼女は手を軽く叩き、にっこりと笑った。
「さ、こちらへどうぞ。リュリシア様もお待ちです!」
「……なんかテンション高ぇな」
「だって、アーク様って……ちょっといい男ですもの」
「……は?」
不意の言葉に、動きが止まる。
アイリスは両手で口を押さえて小さく笑った。
「ふふっ、冗談ですよ。――半分だけ、ですけど」
(……やっぱ、違ぇ。昨日の無機質なやつじゃねぇ……なんかシアみたいで怖い)
彼女に導かれるまま廊下を歩くと、
朝日が差し込むホールにパンの香ばしい匂いと湯気が漂っていた。
テーブルにはリュリシアとセラ、そしてエレナの姿。
「おはよう、アーク」
エレナがちらりと目を上げる。
「昨日の訓練で、もう少し休むかと思っていたぞ」
「寝つきだけはいいんでね」
「ふふっ、寝顔、見てみたいですね」
アイリスがまた口を挟む。
エレナの眉がわずかに跳ねた。
「……アイリス、余計なことは言うな」
「まぁまぁ〜、お屋敷も朝は和やかな方がいいじゃないですか♪」
リュリシアが微笑をこらえながら小声でセラに囁く。
「今日のアイリス、なんだかご機嫌ね」
「ええ……昨日とまるで別人のようです」
セラはそのまま少し意地悪そうに目を細めた。
「――もしかしたら本当に、そうなのかもしれないですよ?」
それから談笑しながら食事を終え、
食堂の席を立つとき、エレナが短く言った。
「食後は裏の訓練場だ。――昨日の続きをする」
「っげ!? またかよ!?」
「“また”じゃない。昨日は基礎、今日は更に本格的な実戦だ」
嫌な予感しかしない。
パンを飲み込みながら小声で呟いた。
「……この屋敷、食後のデザート代わりに地獄見せんのか」
「何か言ったか?」
「いえ教官殿!」
セラが口元を隠して笑い、リュリシアは「ふふ」と軽く肩をすくめた。
アイリス(明るい方)は俺の背にタオルをかけながら言う。
「がんばってくださいね! わたし、応援してますから♪」
「……ありがとう。命があればな」
裏庭。
朝霧の残り香を含んだ風が、敷石の上を流れていく。
昨日よりも重い空気。
エレナは長剣を腰から引き抜き、柄を軽く打って確認する。
「今日は“本気”だ。遠慮はしない」
「聞きたくなかったな、そのセリフ」
二人が距離を取って立つ。
鳥の鳴き声が一度、途切れる。
「――構えろ、アーク」
金属音が弾けた。
一撃、二撃、三撃。
エレナの剣が容赦なく襲いかかる。
(くそっ……速ぇ! 防げねぇ!)
反射的に身を沈め、滑るようにかわす。
地面を蹴って間合いを外すことだけに集中した。
鉄が擦れる音が耳を裂き、頬をかすめる風が熱い。
「避けてばかりでは、いつか死ぬ!」
「死なねぇように避けてんだよ!!」
一瞬、剣の軌道が見えた。
反射で体をひねった――が、遅かった。
「しまっ……!」
パリィンッ――!
乾いた音が、庭の空気を裂いた。
陽光の中で、青い光が散った。
「……え?」
何が起きたのか、一瞬わからなかった。
風が頬をかすめ、右の耳のあたりが軽くなった感覚だけが残る。
反射的に触れると――何もなかった。
視線を落とす。
地面に、青い破片が転がっていた。
それを見た瞬間、思考が止まった。
足が動かない。
呼吸が浅くなって、喉が詰まる。
――信じられなかった。
本当に砕けたのかどうか、頭が追いつかなかった。
「怪我は!?……アーク?」
エレナの声が震えた。
俺の顔を見た瞬間、彼女の表情が固まった。
たぶん、俺はひどい顔をしていた。
怒ってもいない、泣いてもいない。
ただ、“空っぽ”だった。
風が吹く。
砕けた欠片が小さく跳ねて、陽の光を反射した。
「……」
俺はゆっくりしゃがみ込み、破片を拾った。
手のひらに乗せると、光が滲んで見えた。
――青い粒。透き通るような光。
それは、あの時の笑顔の色だった。
(……シャンディ)
脳裏に、声が浮かんだ。
『またいつか会えるように…』
胸の奥が一瞬だけ軋んだ。
でも、すぐに深呼吸する。
ゆっくり息を吸い、吐いた。
「……すまない! こんなつもりでは――!」
エレナの声が焦りを帯びる。
俺は、無理に笑った。
笑えてるかは、わからない。
けど、笑おうとした。
「え……? あ、ぁぁ、いや、平気。平気だって」
声が少し裏返る。
「仕方ねぇよな、剣振り回してんだ。こんなもん、つけてた俺が悪い…」
笑っているのに、声が乾いてる。
喉の奥がひりついて、息がうまく出ない。
それでも、立ち上がる。
エレナが手を伸ばしかける。
けど、何も言えずに止まった。
彼女の瞳の奥に映る俺が、別人みたいだったからかもしれない。
俺は破片をそっと握りしめた。
「……ほんと、ついてねぇな……はぁ〜」
苦笑いが自然とこぼれる。
その笑いは、自分でも不思議なくらい静かだった。
庭を包む静寂の中で、誰も言葉を発せなかった。
――その少し離れた場所。
アーチの影に、リュリシアとセラ、そして明るいアイリスの三人が立っていた。
「……いまの、見ました?」
アイリスが小声で言った。
リュリシアは唇をきゅっと結んだまま、目を離せずにいた。
「うん……あんな顔、何かあったのかしら?」
エレナの前でも、いつも飄々としてた男が。
今はただ静かに、砕けた硝子の欠片を握りしめている。
セラがそっと目を細める。
「……あの青い硝子。見覚えがあります」
「え?」
「南の方の猟師さんがしているのを見たことがあるんです。たしか、“再会を約する潮の約束”――旅立つ者に片方を渡すお守りだったはずです」
リュリシアの肩がわずかに揺れた。
「……じゃあ、あれ……誰か大切な人の?」
「ええ。おそらくは…っあ!」
その言葉を聞いた瞬間、リュリシアはもう立っていた。
次の瞬間には、迷いもなく駆け出していた。
「お嬢様!?」
セラが驚いて呼び止める。
けれどリュリシアは振り返らずに言った。
「だって――あんな顔、放っとけないわ!」
風がスカートを揺らす。
彼女の金の髪が朝日にきらめく。
――広場の真ん中。
風がまだ少し、青い破片を転がしていた。
「……本当に、すまない」
エレナが再び頭を下げる。
その声は、さっきまでの鋭さが嘘みたいにかすれていた。
「だから気にすんなって。俺の不注意だ」
そう言いながらも、目線は地面の一点から離せなかった。
破片の光が、どうしても視界の端でちらつく。
「だが――」
エレナが何かを言いかけた、その時だった。
「アークさんっ!」
振り向くと、リュリシアがスカートを翻して駆け寄ってきた。
後ろには息を切らせたセラが見える。
「おいおい、お嬢様まで乱入かよ……」
口ではそう言ったが、声が少し掠れてた。
リュリシアは立ち止まると、息を整えもせずに言った。
「……大丈夫? 怪我は? それ……大切なものだったんでしょう?」
答えに詰まる。
手の中の破片を軽く見せるようにして、笑ってみせたが、うまく笑えてるだろうか。
「ま、まぁ。……ちょっとしたもんだ」
「ちょっと、じゃない顔してる」
リュリシアの声がやわらかく響く。
その言葉が、胸の奥のどこかを刺した。
沈黙。
その間に、セラが静かに口を開いた。
「……その硝子細工、“潮の約束”ですよね」
「あんた…知ってるのか?」
「潮の、約束?」
エレナが眉を寄せた。
セラはそっと続ける。
「南の海辺の港町などで作られるお守りです。
旅立つとき、家族や恋人と“また会えるように”と願って、片割れを渡し合うんです」
リュリシアが俺を見た。
「……誰かと渡しあったんでしょう?」
目を伏せ、少しの間何も言わない。
風が頬を撫でて……なるべく落ち着いた声で話す。
「……ああ。こっちに来て、初めて知り合った友達がくれたんだ。名前はシャンディっていって… あ!
そうそう、髪は黒いけどちょっとリュリシアに似てるかもな?」
リュリシアが小さく息をのむ。
その横で、エレナの表情がゆっくりと曇っていった。
「……そんな大事なものを……私が」
彼女の声が掠れて消える。
自分の剣のせいでそれを壊したという事実が、遅れて胸にのしかかった。
俺は首を横に振った。
「おいおい何いってんだよ。べつにあいつはまだ死んじゃいねぇし、それにガラスなんて脆いから、何もしなくても壊れたりするしな!」
そう言って笑おうとしたが――喉の奥が詰まって、うまく出なかった。
リュリシアは、そっと俺の掌に自分の手を重ねた。
砕けた青の欠片が、陽を受けて静かに光っている。
「……ねえ、たしか、この街にもガラスの工房が一箇所あったわよね?」
唐突な言葉に、セラが瞬きをする。
「ガラスの……工房、ですか?」
「うん。たしか昔、食器を直してくれた職人さんがいたの。
名前までは思い出せないけど……たしか城下の北のほう、川沿いだったかしら?」
セラが少し考え込み、すぐに頷いた。
「――思い出しました! 〈硝星工房〉ですね。
色硝子の再生を得意とする職人がいます。
欠片を銀枠で留めて、別の形に仕立て直してくれるはずです」
リュリシアの瞳がぱっと明るくなる。
「やっぱり! ねぇ、それなら……!」
セラが微笑む。
「ええ、まだ朝ですし、訪ねれば今日中に見てもらえるでしょう」
俺は掌の欠片を見つめ、少し迷った。
けれど、リュリシアのまっすぐな視線に押されて、ゆっくり頷いた。
「……確かに、ボロになっても持ってたらあいつ喜ぶかもな!」
リュリシアが嬉しそうに微笑む。
「じゃあ決まりね。――セラ、準備お願い」
「承知しました。すぐに馬車を」
(明るい方の)アイリスが勢いよく手を挙げる。
「わたし、案内できますっ! 北通りは毎日お買い物で通ってますから!」
「助かるわ。じゃあお願いね」
俺は他の欠片を集めると、エレナもすぐに拾うのを手伝い、ハンカチで包み、そっと渡してくれた。
「……すまない」
「許さん…、…てい!」
俺はその言葉にすぐに答えてデコピンをした。
「な、なんだ?」
「詫びとしてあんたはずっと笑ってろ。そっちのほうが似合う」
エレナは目を瞬かせ、それから少し呆れたように息を漏らした。
「……そんなことを言うのはお前くらいだ」
「そうか?」
いつもの調子で返すと、彼女の口元がわずかにゆるむ。
その笑みを見て、ようやく胸の奥の張り詰めたものがほどけた気がした。
風が吹き抜け、包んだハンカチの中で青い硝子の欠片が小さく鳴った。
リュリシアがその音に目を向ける。
「じゃあ、行きましょう。――〈硝星工房〉へ」
彼女の言葉に、俺は小さく頷いた。
日の光が、砕けた欠片の中で優しく滲んでいた。




